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果ての防人  作者: 草枕 駁
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八.猫芝居

 相川義男(あいかわよしお)と妻の華乃子(かのこ)は、車いすに一人の老婆を乗せ、とある家の前に来ました。着せられて間もない服と、鼻に通されている管が、老人を更に小さく思わせます。


「この家ともお別れなのね……」


「でも家は近くなるから、何かあれば俺か華乃子がすぐに駆け付けられるよ」


「ありがとうねぇ。でも、家の猫ちゃんたちを置いていくのがかわいそうで、せめて最後に一目合わせてくれないかねえ」


「お義母さん、それはちょっと……」


 家の前には、数頭の猫が老婆に視線を送っています。家は離れていてもわかる程に獣の臭いが漏れ出しており、衛生環境の悪さは明確でした。


「ほら、皆寂しいってこっちに顔出してるから、最後くらいは顔を出さないと」


 車いすから乗り出そうとする老婆はしかし、力が入らなかったのか、ひじ掛けを握った手を緩め、何かを見たまま車いすに腰を鎮めます。

 義男が同じく視線を追いかけると、玄関前には先客が居ました。


「……お家の持ち主さんですか。ここには物の怪が棲んでいる。入れば死にますよ」


 義男は怪しい忠告を残して去ろうとする男を引き留めました。


「家主の息子の相川といいます。その物の怪のお話、もう少し詳しく聞かせて貰えませんか」


「私はヤドリ。幽霊とか妖怪が好きな旅人です。家主はそこのお母さんでしたか。私でよければお付き合いしますよ」


 近所の公園に移り、ヤドリは簡素に話しました。あそこには通常の生物でなくなったナニカが存在している。ただしあの家で何があったのかわからないので正体は掴めない。ただそれだけ。それでも、義男はこのヤドリなる男なら実家に棲みついた化け物をなんとかできるかもしれないという期待がありました。


「あの家に何があったかお伝えすれば、化物の正体がわかりそうですか」


「ある程度は」


「ヤドリさんは、そういったものを退治することはできますか」


「実体があるなら、何とかできましょう」


「奴は実体があります。これから、あの家についてのお話をさせていただきます。必要であれば可能な限りのお支払いもしますので、退治をお願いします」


「……聞きましょうか」



 半年前。母の家を訪ねた相川夫妻を出迎えたのは、薄汚い猫の群れと散らばった糞でした。鼻を突き喉の奥に張り付くような刺激臭に顔をしかめながら玄関前にたどり着き、インターホンを鳴らします。にゃあ、という一声が聞こえてそれきり、扉に手をかけ、開いている鍵を不審に思いながら玄関を覗くと、強烈な獣の臭いと糞にまみれた靴に迎えられました。

 不穏なものを感じた義男は妻に待機を命じ、靴を脱がずに家に入りました。異臭が詰め込まれた部屋の中はあちらこちらに物が置かれ、その影でいくつもの生物が蠢いています。片端から部屋を開け、転がっている餌の袋や家具をどかし、やがてリビングのソファに横たわる祖母の姿を捉えました。

 

「母さん!!!」


 半ば叫びながら駆け寄り身体を揺すると、小さな呻き声が聞こえました。母の生存に安堵し、しかし著しい衰弱に焦りを覚えた義男は、自分の記憶よりも随分と小さくなった母を抱え、猛然と玄関目指して突き進みます。

 

ああああおう……


 母のものではない、別の何かが、低く、大きく唸っているのが聞こえます。恐怖で高鳴る心音をかき消すように、更なる唸り声が迫ります。


「どうしたの……!?」


 玄関から覗く妻の顔が恐怖に染まる様子を悟った義男は今度こそ叫びます。


「逃げろ!!!!」


 転がるように外へ出ると、母を置いてすぐさま振り向き、伸ばした手を手に引っ掛け、そのまま叩きつける勢いで扉を押し込めました。しかし今まさに閉じようとするその瞬間、何か黒い塊が玄関口から漏れ出し、扉を押し返すではありませんか。


「返せ」


 黒い塊の中から、白く、鋭いくちばしのようなものが飛び出し、そのうちの一本が義男の手に深く食い込んでいます。


「何が、返せだ。母さんは俺が連れて行く」


「返せえええええ」


「返さねえしお前のもんじゃねえ!!」


 義男はくちばしの根本を思い切り蹴り上げ、ギャッという悲鳴と共に黒い塊が引っ込んだ隙に扉を閉め、すかさず鍵をかけたのでした。



 「母は私の家の近くにある老人ホームに入所してもらうことにしました。父が亡くなった寂しさを埋めるように猫を飼い出し、そして今の家になってしまった。放っておけば野生化した猫が周りに迷惑をかけるのではないか、いや、猫でなく何か別の化け物が棲みついているあの家を放っておくべきではないんです。でも、俺にはどうしていいのかわからない……」


「ちなみに義男さんのお家はどこに?」


「東京です」


「そいつは……うん、大丈夫そうですね」


 しばらく逡巡していたヤドリは、老婆に尋ねました。


「おかあちゃん。恐らく、今あの家には正気を失った猫ちゃんが居ます。仮に会えたとしても取り殺されてしまう。そこで、私が猫ちゃんがおかあちゃんに会えるような状態にします。少し時間がかかるが、よろしいですか」


 老婆は、ヤドリの言葉に何かを感じ取ったのか、手を合わせながら深々と首を垂れるのでした。


「うちのレイちゃんを、どうかお願いします」



 窓の外を見たら、男が立っていました。忘れもしない、自分の飼い主を連れ去った男です。今度こそ確実に殺し、飼い主を取り戻さなくてはなりません。

 他の猫たちとは一線を画す程に巨大化した体躯を忍ばせながら、そろり、そろりと玄関横の部屋に隠れ、他の猫たちを玄関前に待機させます。

 がちゃり、と鍵を開ける音。今回は入って来た途端に襲い掛かれば間違いありません。

 扉が開き、何かを燃やしたような匂いと共に、男が入ってきました。あの時と同じ男です。

 一歩、二歩。こちらには気づいていません。手が完全に扉から離れた瞬間、レイは一息に男に飛び掛かりました。扉が閉まる直前に、もう一人が入って来たことに気づけぬ程に。

 

 鋭いくちばしのような爪は、男には届きませんでした。振り下ろした直後に喉元に衝撃が走り、そのまま後ろへと押し返されたのです。


「が、か……かえ、せ」


 レイと男を挟んで立っている影法師は、レイの喉元に刃を突き立てています。


「この臭いを辿って行くといい。同族が案内してくれるだろう」


 かつてレイであった化け猫がこの地で最期に見たのは、頭が離れ、崩れ落ちる自分の体と、薄闇の中で黄金色に輝く四つの眼でした。



「全部死んでいた……」


「いや、一頭だけ、生きていたんですね。屋敷の猫と、家主の命を吸って」


 義男が、腐り、干からび、骨となり、とにかく死んで皮のみが残った猫でした。玄関先に横たわる一頭も、大きさこそ義男に迫る程であったものの、肉が殆どなく痩せこけていました。


 「明治時代の話です。東京の一区画に、『化け猫が出た』という新聞記が挙がった。猫が後ろ足で立ち、太鼓を叩き笛を吹き、橋を越えて行ったといいます。今その橋は、スカイタワーなる世界一高い塔が良く見え、観光名所として栄えているそうです。」



「お母ちゃん、あれがスカイタワーだぜ。」


「いやー本当でっかいねぇ。昔ここら辺に住んでたけど、長屋しか並んでなかったのに綺麗になって。レイちゃん()見せたかったのお」


 老婆は、息子夫婦との外出を楽しんでおりました。小奇麗な服を身にまとい、車いすに押されながら、都の変貌ぶりに驚きます。


「そうだねえ、レイ君は何処にいるんだろうねえ……ん?」


 橋の向こうから、何かがやってくる気配。太鼓の叩く音、笛を吹く音。そして橋の向こうから姿を見せた音の主は、二足で動き回る猫たちでした。猫が親子の周りをグルグル回っているうちに、遅れてもう一頭の猫が現れます。

 白と灰の斑模様に黒い線の、キジトラと呼ばれる毛色。黄色い目は黒く縁どられ、大きな黒い瞳が三人を捉えます。


「レイちゃん」


 老婆の呼びかけににゃあと応え、差し出した手に顎を乗せました。老婆は何度も何度も猫を撫でました。しばらくして、行列が橋へ動き出すと、猫は名残惜しそうに老婆の手を離れ、橋へ戻っていきました。行列の最後尾にいた猫が器用にもお辞儀をし、二人が応じて頭を下げると、太鼓囃(たいこばやし)遠ざかり、やがて聞こえなくなりました。


「ヤドリさんが連れて来てくれたんだねえ」


老婆は何も言わず、息子の言葉に何度も何度も頷きました。

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