七.鬼はソトに
「魔が差した」なんて言葉があります。
ふとした拍子に物を盗る、壊す、めちゃくちゃにする。いつでも、どんな時でも、何人であっても、その突然の衝動に駆られてしまうことはよくあることです。その結果に犯した過ちは、勿論、自分で贖う必要がありますが。
花井辰雄は、道路沿いをトボトボと歩いておりました。片手から滴り落ちる血を後ろに残して、背を丸め、曇天の下を歩き続けます。
花井は疲れていました。
「謝ってりゃいいってもんじゃねえだろ!!」
「私がそう言ったのボイスレコーダーにでも残してるんですかぁ??」
「俺がここをどう使おうが勝ってだろぉ!?片付けんのがお前らの仕事だろうがよぉ!!!!」
「あっ私明日から辞めますんで」
頭の中に響いて止まない様々なクレームに打ちひしがれながら、花井は額に汗を浮かばせます。それが坂を上ってきたことによるものか、最早トラウマと化してきている罵詈雑言の数々を思い出したことによる脂汗なのかは、本人にもわかりませんでした。道中ですれ違った人に、何か言われているような妄想が、恐怖を花井の頭の中を侵食します。
道脇のベンチで一息つくと、いつの間にか周りは霧が出始めており、車の往来もすっかりなくなっています。坂のてっぺんから下を覗き込むと、霧の中にあって、青とも黒とも緑ともつかぬ水面が揺れているのがはっきりと見えます。
この揺れに身を任せたら、どんなにか楽になるだろうか。
徐々に、徐々に体を乗り出してゆきます。血が流れてとどまらず、力が入らなかった腕はせり出す上半身を支えることなく、まるで鉄棒で前回りをするように、くるりと足を上げ頭を下げると、そのままズルリと、静かな水のうねりに飛び込んでいくのでした。
花井の目を覚まさせたのは、静かに寄せて返す波の音でした。周りを見渡すと打ち付けるような岩場が無く、ただずぅっと長い海岸線が続き、時折波に飲まれて倒れる小石が散らばっていました。
ゴウン、ゴウンと大きくうねる波は砕け散って浜に着き、シャワシャワと泡立ちながら砂の中へと染みていきます。その音の中に、カツン、カツンと、あるいは、ゴッゴッ、と何か固いものをぶつける音が聞こえます。
今一度周りを見渡すと、子供が何人も、屈んで何かを拾い集めています。どうやら石を積み上げていたのがこの子供達であると花井は思い立つと同時に、自分が三途の川に流れ着いたことを悟りました。
砂を刻みながら、花井は歩き続けます。想像していた三途の川は、花畑が広がっていて、どこかに橋があって、先祖がこちらに呼びかけているものでした。しかし、今いる三途の川のような場所はただ砂浜が広がり、陸地は雑草がいくらか生えた岩場でしかなく、橋は何処にもかかっていません。
「ここに橋はかからんよ」
思わず飛び退きながら振り返ると、真っ黒い影のような、よく見ると単に服が黒いだけの大男が立っていました。
「ここは、どこなんでしょうか……?」
「ここは、賽の河原。あの世とこの世の境目という奴ですよ」
花井はヤドリと名乗る男についていきました。特について来いと言われたわけでなく、他に行き先が無いというネガティブなものでしたが、それでも、明らかな亡者の子供らを眺めながら一人で居続けるより、例え亡者でも会話が可能な男についていく方が、余程「楽」でした。
「親より先に死んだ子供たちは、ここで贖罪の為に石を積むんです。でも積んだ石は波に流されたり、勝手に倒れたり、鬼に蹴散らされたりして一生完成することがない。子供たちは既に一生を終えちまってるんですがね」
「そうなんですか、終わりのない作業って嫌ですね」
「花井さんは、どんな作業をしていたんですか」
水を向けられた花井は、とりとめもなく語りました。
「私は、あるホテルで働いてたんです。それなりに大きなホテルだったんですが、常に人手不足でした。非常勤を雇ってもすぐに辞めてしまいますし、接客業なので当然クレームもたくさんありました。飯がまずいなんてのは可愛いものです。非常識な程に汚してキレイにするのはお前らの仕事だと脅してくるわ、鍵を無くされるなんてお客様の対応は勿論、突然辞職したりまともに仕事をしてくれない従業員をなんとかしろと言われたり、現状維持だけで精いっぱいなのに今いる人だけで更なるクオリティアップを図れと上司に圧力を掛けられたり。どこの業界でもよくある事なのはわかっているんですが、ね。少し、疲れてしまいまして。腕を切ってみたんですが深く切る勇気が出ず、そのまま大橋をうろついてるうちに、魔が、差して」
ヤドリはひたすらに花井の話を聞き続けました。何かを思い出しているのか、遠い目をしながら、懐から、黒い板状のものを取り出し、黒い服の上から更に黒い上着を羽織り始めました。
「……賽の河原の石積みは、無駄な努力の喩えに用いられることがあるんです。積んだところで壊されてしまうからですね。いつかは地蔵菩薩が救いに来るそうですが、一々待っていたら子供がここらに溢れてしまう」
一回り大きくなったヤドリは、そこいらに転がっていた棒きれを黒い板に差し込むと、ザク、と砂浜に突き立てます。板と見紛う程に分厚いそれは、果たして先端に重みをもたせた鉈のような刃でありました。鉈と違い、突きにも使えそうなほどに鋭くとがっています。
「死を意識する程に疲れた人に頑張れ、とはいいません。でも、ここの波の音を聞いて、多少なりとも心が休まったのならいいな、と思ってます」
確かに、橋から落ちる直前までささくれ立っていた心は、今は多少鎮まっていることに気づきました。
「理不尽と戦うってのはそれこそ賽の河原の石積みのように果てしなく、意味が無く、そして疲れる。だからといって適当にいなそうとしてできる人は少ない。だから花井さん。逃げ道を、探してくださいよ」
ヤドリがつるりと顔を撫でると、どこか遠くを見ていた貌は、仮面を被ったかのように憤怒の表情へと変わっていました。
見開かれた眼は吊り上がり、眉間の皺は深く刻まれ、への字に曲がった口からは獣のような唸り声が漏れ出しています。
「でないと、こうなる」
花井の目の前に現れた鬼は、まるで太鼓を打つような、雷が鳴るような音で絶叫すると、槍を振り回して石塔を崩します。直前で槍を叩きつけられ、逃げ惑う子供たちを追い回し、そして他の子どもたちの石塔も叩き潰し、蹴倒し、吹き飛ばしながら更に子供を追い立てます。海岸が追い詰められた子供達は、波打ち際を走り続けます。
子供達の逃げる先に、海岸の霧の奥から一隻の船が渡ってくるのが見えてきました。
鬼はそれを見るや否や、砂浜に槍を叩きつけながら子供たちに突進します。そして大きく振りかぶると、いつの間にか接岸していた船のすぐ横で、水面に槍の穂先を振り落とし、片足で船を川へと押し返しました。
船に転がり込んだ子供たちが、岸から離れていくのを見た鬼は再度吠え上げ、くるりと踵を返すと、
真っすぐに花井に突っ込んできました。
何が起きたかわからずに、ただぼうっと眺めていただけの花井がまともに応じられる筈が無く、一体何を背負ったのかわからぬほどに、怒りと、憎しみと、怨みがこもった貌の鬼に、棒から取り外された鉈で自身の頭を叩き割られるまで、動くことが出来ませんでした。
再び花井が目を覚ましたのは、橋の上のベンチでした。霧は既に晴れており、車の往来がまばらに続いていました。自分の手元に濡れた感覚がないのに気づくと、腕に見覚えのない包帯が巻かれており、その包帯の中に一枚の小さな紙が挟まっています。
『あなたはホテルで多くの人を休ませました。今は貴方が休む番です。』
しばらく後の話です。とある大きなホテルの一角に開設されたバーが話題になりました。そのバーでは「ミスト」と呼ばれるカクテルが人気を博し、マスターはどんな客であろうとも穏やかにさせてしまう人物であったそうです。