三.端蝦夷暗流(はなえぞあんりゅう)
祖父が保護されたとの報せを聞いた里中康太は、引き取りの為に警察署を訪れていました。
「いつもいつもすみません」
「いえいえ、それよりお孫さんも大変だ。お爺様がこうなってしまっては……施設とかは、お考えには?」
「そうしたいのは山々なんですが」
「おぉ康太!!肉を盗られた。比丘尼様から貰った肉だ、探しに行かなくては。比丘尼様から貰った肉を……!」
「こういって施設から何度も抜け出すことがありまして」
「あぁ、成程……」
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祖父がボケたのはいつからだったか。
康太は何度目かもわからぬ祖父の近況を思い出しておりました。
最初は思い出話をよくするようになった、その程度であった。しかし、徐々にあれがない、これがないと言い出し、「どこに隠した!」と怒り出したのが数ヵ月前。気づいたときには既に遅く、癇癪持ちの認知症を患ったご老体の出来上がり……
「おかえり。ご飯できてるよ」
「恵子!肉はどこにやった、比丘尼様の肉を返せ!」
「おじいちゃん、今日は豚肉だから比丘尼様の肉はないよー」
祖父の怒号も慣れたものと受け流しつつ、二人を出迎えたのは康太の妹、恵子でした。彼女が定期的に来てくれていなかったら、一人で祖父を世話することになっていたら。自分は定期的に報道される「介護疲れによる老人虐待」もしくは「殺害」に手を出すのだろうか。仮に施設に入って、お金は間に合うだろうか。虐待されやしないだろうか。
食事を終え、祖父を寝間着に着替えさせ、寝静まったのを確認した康太は、嫌な考えを振り払うため、夜の堤防へと繰り出しました。思考を覆う様々な不安も、夜風と波の音がある程度かき消してくれる。そんな気がしていたのです。
今日はそんな、風と波の音に混じって、ビョウと何かを振るう音が聞こえます。音につられて見てみると、一人の男が釣竿を振るっています。
「釣れますか」
「ん?いやぁボチボチ、と言ったところですかね。今はメバルが良く釣れる。」
「おぉ、メバルですか。私も昔は爺さんとよく釣ってました。今じゃもうボケちゃって。魚は魚でも比丘尼様から貰った肉はどこだ~!なんて意味不明なことを言うし、体だけは若いので施設に入れることもできず……失礼。愚痴っぽくなってしまいました。私は里中といいます。」
疲れていたのか、誰かに苦しみを共感して欲しかったのか。康太は、自分で驚きながらも、見知らぬ釣り人に声をかけ、更に身の上話をしておりました。
「市役所から迷子老人の放送をされてた人ですか。無事に保護されたようでよかった。私はヤドリと言います」
「ありがとうございます。近いうちに同じ放送を流して貰うことになるかもしれないですが」
「フフン、堤防で見つけたら落っこちる前に何とかしましょう。ここで会ったのもなんかの縁ですし、魚持っていきませんか。認知症予防にもなるそうですよ」
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奇妙な男とのやり取りから数日後。再び祖父が失踪した康太は、嫌気が差しながらも祖父を探して回ります。スーパーの鮮魚コーナー、市役所、山の麓、河川敷と、以前祖父が保護された場所を回るも、今日は中々見つかりません。
「恵子か?すまん、爺さんがまた居なくなった。仕事帰りに見つけたら教えてくれ……」
「わかった。そういえば海の方は探してみた?この前貰った魚、すごい美味しそうに食べてたから、また肉~!!なんて言ってうろついてるかも」
康太は急いで海に向かいました。祖父が海にいるかもしれないという期待ではなく、万が一落ちてしまっては助からないという焦燥感が、いっそ落ちて死んでくれれば、などという不穏な思考が、康太をより一層駆り立てます。
堤防にたどり着くと、確かに恵子の予想通り、祖父は堤防にいました。誰かと話しているようです。
「おいあんた、肉を知らんか。わしの家にあった肉が盗られてしまった」
「誰から、貰ったんです?肉」
「そら比丘尼様よ。大層美しい人でな、その人から貰った肉のお陰で俺ぁ今でもこの通りよ。おぉそうだ、この前家にきた警察が物欲しそうな目で部屋を見ていた。きっとそうに違いない!」
話し相手はこの前の釣り人、ヤドリでした。今日は既に釣り終えたのか、竿を畳んだような短い棒を握り、夕日を背にユラユラと揺れています。
「八百比丘尼という伝説がある。得体の知れない魚を釣った漁師が、娘に肉を与えた。肉を喰った娘は不老長生となり、美貌を保ったまま亡くなったという。」
「そう!まさにそれよ。思い出すのお。永き時を経て変わらぬ御姿に、わしは心を奪われた。その比丘尼様から貰った肉だ、取り返さなくては……!」
「比丘尼様の入寂は今から千年以上も前の話だ。お読みになった説話伝承が、頭の中で本当の話にすり替わっていらっしゃるのではないですか」
ヤドリの低い声は、あまり大きくないのにもかかわらず、離れた位置にいる康太にも聞こえてきます。
「欠落した記憶を補いたいのかは存じませぬが、今更になって不老長生を求めるのは、人の本懐ではありますまい。おじいさん、あなたの心は忘却の恐怖に犯されている。」
「お前が肉を盗ったのか!返せぇぇぇ!!」
「あなたが忘れた記憶に捻じ込んだ妄想を、人魚が喰ろうておられる!!」
祖父は痛いところを突かれ錯乱したか、ヤドリに襲い掛かります。しかし、ヤドリは掴みかかられた途端に、握っていた棒を逆手に持つと、柄尻を祖父の鳩尾に叩きつけました。
「おごぉ!? っが……ッハァ……!」
「爺さん!」
祖父は前に倒れ込み、激しく咳き込み続けます。駆け寄った康太が背中をさすってやるも、咳は止まりません。しばらくすると更にえずきだし、そしてボタボタと何かを吐き出しました。
「さ、魚!?生きてる!」
祖父が吐き出したのは、なんと生きた魚でした。
更に、ヤドリはすかさず魚の頭を押さえると、康太が棒と思い込んでいた鉈を大きく振るい、その首元に叩きつけました。そうして胴を離れた頭を見ることもせず、そのまま天高く放り上げます。
すると、いつの間にか頭上を旋回していた鳶が、待っていましたと言わんばかりに掴み去っていくのでした。
「遠からずお爺さんは施設か墓のどちらかに入る」
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ヤドリが去り際に残した言葉が呪いとなったかの如く、認知症の進んだ祖父は衰弱していきました。そして自力で満足に動くこともままならず、介護施設への入所が決まった日の事です。
「康太、釣りに行きたい」
魚を吐き出して以来殆ど喋らなくなった祖父の言葉に、これが最後であると察した康太は、久方ぶりの釣りに出かけることにしました。行き先はいつもの堤防です。
「あの時、兄ちゃんに憑物を落として貰ってからな、力はでなくなったが、頭のモヤが晴れたような、そんな気分なんだ」
「そっか。でも爺さんが生きた魚を吐き出した時はびっくりしたよ。あれは憑物ってやつだったのかね」
「多分な。頭を誰にも見せないでさっさと処分してしまったんだろ?もしかしたらあれが人魚だったのかも知れねえ。人魚の頭は人に似てるって言うからな」
康太は内心驚きました。てっきり自分の名前くらいしか思い出せないのではないかと思っていた祖父が、通常の会話が可能な程度に回復し、更には直近の記憶を有していたからです。そして同時に、もう無理だろうと思っていた、「普通の」会話ができることに、得も言われぬ幸福を感じていました。
「お爺ちゃん、康太、釣れてる?お昼ご飯作ってきたから皆で食べようよ」
「おう恵子、ありがとう。……二人とも迷惑かけたな。もうしばらくかける事にはなるが」
「や、いいんだよ。本当に。こっちこそありがとう。」
その後、祖父は再び海を見ることなく、施設の入所を待たずして、文字通り畳の上で亡くなったとのことでした。