二十四.原景幻妄
「原風景」という言葉をご存じでしょうか。人の脳裏に、最も古く、深く刻まれた風景のことを指すそうです。雑多に人が行き交う都会の一角、カモメが遊ぶ寂れた漁港、夕飯の匂いが漂い、夕焼けに染まる民家。人は原風景を思い起こすとき、何らかの強い感情を催すのだそうです。
「原風景の異界ってのは、一体どんな見た目なんだい。どうにかして、そこに行かなきゃならんのか」
荒吐神社の管理人である鳥夜部往雅は、久方ぶりに現れた珍客に、一杯の紅茶を淹れておりました。珍客は大きなマグカップに注がれた紅茶を口の中に含み、噛むように味わってから小さく息を吐きます。
「朱い。夕日のように眩しくは無いが、とても鮮やかで、その光景に包まれているときは、何も苦しくなかった。俺は、苦しいことからはどこまでも逃げたい」
「他人の苦しみに頭を突っ込むヤドリ様が、よく言うぜ」
珍客ことヤドリのコップを持つ手が止まります。なぜ、それを知っているのか。どこまで知っているのか。いつもよりも力がこもっていない眼の訴えに、往雅は苦笑いを浮かべます。
「『アヤカシ、ヨウカイの類に困っている人のもとに、何処からか現れる。』夜子という配信者が言っていたぞ。それにお前、いつぞや山の物の怪に憑かれた子どもをこっちへ遣ったろう。白戸という苗字の親子がウチに来たぞ。秋口の頃だったか、雲居教授からも連絡が入った。仮面に憑りつかれそうになった子を助けた人がいる。その子から話を聞くと、どうも特徴からしてお前じゃないか、とな」
「そうか。連中は元気に生きているのか。俺が不審者として通報されなかったのは幸いだったな」
それきり、お互いに何かを言うことなく、ヤドリは湯気の立つ紅茶に息を吹きかけながら啜り、往雅はスプーンをかき回して何事かを思案しています。外は春を伝える風が吹き荒れ、歩道や木の根元に残っている雪から冷気を奪い取り、屋根の上で溶け出した雪と共に、外壁に叩きつけられる音が聞こえます。昔なら、少なくとも二人が大学生だった時代なら、これはよくある光景でした。お互いに何をするでもなく、ただダラダラと、外からの音に耳を澄ませながら過ごす。それは二人にとって、とても心地よい時間でした。そして今が、最後の時間であることを二人は理解しておりました。
「今、妖異が形を成してきている。ここだけじゃない、全国で、いや世界中でそういう兆しがあるのだそうだ。お前、その鉈で結構な数の妖異を斬ったろう。ネットの書き込みとかニュースで少しずつ出てきていたぞ」
「まあ、な」
「そしてお前が、山に溜まった『アレ』を祓うために来たのも知っている」
「あの山は鬼門に通じるこの世の果て、なんて言われるくらいだからな。このご時世、鎮められる者がこんな最果てに来るわけもない」
「……表沙汰になるかはわからんが、お国が、そういうモノに対応するための組織を立ち上げて、対応可能な者に委託もするそうだ。
友人としての頼みだ。どうにかして、留まって、一緒に仕事をしてくれないか。今止めないと、お前はきっと、今度こそ、この世じゃないどっかに行ってしまう気がしてならない」
「友人なんて久しく言われなかったな。大学の時にもう少し長く、お前とつるむべきだった」
傾いた陽が、二人のいる部屋を朱く照らします。夕陽に炙り出されるヤドリの顔は、眉がハの字に傾き、目は細くなり、そして口元は緩んでニッコリと、困惑気味な笑顔を浮かべておりました。
「まず、お前が俺を覚えていたことは、とても嬉しかった。俺がしてきたことを、好意的に伝えてくれている人たちが居たことは、とてつもなく嬉しかった。
けどな、結局俺は、自分自身が許せないだけの、ただのちっぽけな人間なんだ。紅茶、ありがとう」
かつてそこは霊山と呼ばれ、「死んだ人の魂が還る場所」とされて来ました。その後霊能者を自称する者が「ここは悪霊が多く集う」と言った途端、メディアはあらゆる手段を用いて霊山をこき下ろし、やがてそこは「死の山」と呼ばれるようになってました。
漏れ出す硫黄が生物を寄せ付けず、流れる川と湖は強い酸性のために何も住めない、文字通りの死の山。色づくことさえ許されない、恐ろしいほどに透き通った湖のほとりの白い浜辺で、ヤドリは『ソレ』と向き合います。
「地元さ帰りてえ」「失敗した」「国は守ってくれない」「死ねって言うのか」「死にたくない」「あいつがいなけえば」「憎い」「殺したい」「死んでくれ」
目の前に居る物体は、口から、目から、全身の体毛から、あらゆる負の念がこもった言葉が染み出して、とぐろを巻いて機を伺う蛇にも、怒りに牙を剥き出しにした犬にも見えます。
呪詛の牙を突き立て、怨恨の爪を振るう「ソレ」の攻撃を全て正面から受け止め、血を吹き出しながら鉈剣を振るうヤドリ。
「どうでもいいことに突っかかって、ウザいのよねえ」
耳元に何事か囁きかける「ソレ」を掴んで叩きつけ、力任せに踏みつけます。
「大人になれよ。これくらいは黙ってないと、社会が回らないんだ」
「ソレ」は足元にしがみ付き、体勢を崩したヤドリの全身を切り刻みます。
「お前みたいな奴は、都から早く実家に帰るのがいいよ。それとも養分として一生こき使われてくれるのかい?」
覆いかぶさるように見下ろしてくる「ソレ」を蹴り上げ、唸り声をあげながら立ち上がります。
「お宅これ向いてないよ。何のために居るの?」
ふざけたように飛び回るそれを再び掴み、「ソレ」をそれに袈裟斬りをお見舞いします。
「斬るのか?えぇ?俺を斬るのか?きっとまたすぐに、みんなすぐ集まって、悪口を言うんだ。何も起きない、何も変わらない」
狗のような「ソレ」は薄ら笑いを浮かべ、なおも全身から罵詈雑言を溢れ出しながら、挑発します。
日常生活の小さな失敗。例えば使おうと思った道具を壊してしまったとか、パソコンのデータを誤って違う場所に保存したとか、そういった取るに足らない失敗。小さな悪意。クレームを入れてくる者達の心無い言葉。本来相手にすべきでない、悪意ある言葉。それらを忘れられず、根に持ち、少しずつ積もりゆく怨恨。この狗はまさにそういった失敗と悪意の結晶であり、負の感情が凝り固まった、慣れの果てでした。
そして、ヤドリはまさに、そういった積み重ねで精神を削られていった者でした。
「それでも、この世に顕れたこの世ならざるモノは、いつか誰かが斬らねばならぬ」
その誰かの役割を担ったヤドリは、鈍い音と共に、この世ならざる「ソレ」の胴と頭の間に鉈を落とすのでした。
後には、夕日に照らされて朱く染まった湖と砂浜だけが、残されたのでした。




