二十.御悩釘
例え我が身を滅ぼすとしても、それを願わずにはいられない。
定めた目標へ努力を積み重ねる、寺や神社の神仏に我が祈願成就したまえと祈る、障害となるものを排除する、といった具合に、願いの成就には様々な手段がございます。
自身を犠牲としてまで叶えた願いの先に、幸せがあればよいですが。
赤、黄、茶。炎の様に色づいた葉が、ひらひらと歩道に散り落ちます。地面は人々の往来に踏まれた葉が吐き出した水に濡れ、肌寒さに拍車をかけておりました。
大川慎司が寒気を覚えたのは、そんな道路の湿り気と忍び寄る北風の気配に加え、道端で立ち尽くしている男の不気味さに気圧されたからでもありました。男の服は墨汁に漬かってきたかのように黒く、暗く、袖からわずかにのぞく指と、首から上の肌が見えなければ、この男を生きた人間であると判断できなかったかもしれません。
「何か」
まじまじと眺める慎司の視線に気づいた男は、動かぬままに低く響く声を発します。
「いえ、何か、見えるのかなと思って。昔、そこで事故があったんです。トラックで女の子が撥ねられて……即死だったんです」
「だから、お供え物を」
男はいつの間にか向き直っておりました。豊佳が手に持つお菓子とジュースを見て少し後ろに下がると、豊佳は頭を下げ、菓子とジュースをいくつか供えて合掌します。車の通る音、タイヤが何かを踏んづけて跳ね飛ばす音、ガワガワと鳴く鴉の群れの声。それらがひっきりなしに聞こえてきます。
「最近、ここいらで出ると聞いて来たんです」
「何が出るんでしょうか」
「それがわからないんだそうです。ある人に聞けば足がない、他の人に聞けば胴が無い、もう一人は鬼火が出た、なんて言う。私はそういうのが好きでしてね。こうして訪ね歩いてるんですよ。何か、ご存じありませんか」
ヤドリは真新しいガードレールをコンコンと叩き、軽く腰かけて慎司の言葉を待ちます。
「そういう噂は、聞きます。真偽はわかりませんが……」
「そうですか……なら、出直してきます。最近増えてる鴉に突かれないようお供え物は持ち帰って下さいね。私の地元では供えたものはそのまま食っちまってましたがね」
そう言って背を向けた男に、今度は豊佳が声を掛けます。
「あの、お名前を聞いても」
「ヤドリといいます」
「ヤドリさんは、その幽霊を見たらどうしますか」
「幽霊ね。遭ってみないことには、わかりませんよ」
ヤドリは奥に続くトンネルの暗がりに溶け込んでゆくと、そのまま見えなくなってしまいました。
月が厚い雲に隠れた、暗い夜のことでした。明るいうちは多くの車が通る道路も、さらなる闇へと引きずり込みそうなトンネルを通らねばならぬ恐怖がそうさせるのか、すっかり静まり返っております。
その静寂の中に、一定の間隔で響く音が聞こえます。
ゴッ…ゴッ…ゴッ…
その音がする方へと、慎司は歩を進めます。トンネルの入り口付近にある階段を登り、全く舗装されておらず、ただ踏み固められただけの獣道を上がり、徐々にその音が大きくなってゆくのを感じ取りながら、その歩みを止めません。
視界が開ける直前で止まると、近くの笹薮に潜り、辺りを覗き見ます。木枯らしが吹きすさぶ中、チロチロと何やら光っているものが見えます。片方の光は緩やかな交代と鋭い前進を繰り返し、その炎に照らされて、黒い何かが揺れています。
やがて暗闇に慣れてきたか、徐々に黒い何かの輪郭が見えてきました。長い髪は風に巻き上げられ、白いコートの袖口から除く、異様に細い腕が金槌を振るい、板状のものを咥えている口元からが唸り声のような呼吸音が漏れだしています。
これはまずい。まさか本当に、今のご時世に「そんなこと」をやっている人がいたなんて。息を殺しながら、尋常の人であれば通報すれば良いでしょう。悪戯しているだけの若者であれば、注意するなり、かかってきても迎え撃つことは出来たでしょう。しかし、今、目の前に居るのは幽霊ではなく生きた人間で、それも明らかに正気ではありません。
慎司は長い髪の人影から視線を外さず、少しずつ後ろずさります。幸いにも足元の枝は湿気を含んでおり、踏んづけてもポキリと音を立てて折れません。しかし不幸だったのは、慎司の方へと風が吹き込んだことでした。
突如として鼻腔を突く刺激臭に思わず眉をしかめ、手で口元を覆った瞬間、人の気配を察知したソレがぐるりと首を回すのが見えました。
薄暗いのにはっきりと見えるその「女」眼は血走り、多少混じっていた驚きはみるみる消えてゆき、やがて歓喜と狂気で染まるのがわかりました。
「いいいいたああああなああああぁぁぁ……」
エンジンでも始動させたのかと言わんばかりに唸り声の音量を上げてゆく女が全速力で駆けてくる中、慎司にはまだ択を選ぶという余裕がありました。
このまま逃げるか、ここで抑えるか。逃げてしまってもよいが、慣れてない足場を走って怪我をしやしないか。骨と皮だけのこの女なら、まだ、何とか抑え込めるのではないか。
慎司は、踵を返しました。少なからぬ動揺を抑え込み、坂道の段差を滑るような数段飛ばしで飛び降り、階段はある程度降りたところで手すりを飛び越えトンネルの入り口に着地します。乗ってきた車がある駐車場まで戻ろうと更に駆け出すと、なんと女は進行方向上の茂みの中から飛び降りてきました。
女は転がり落ちるや否やすぐさま立ちあがると、コートの中から鈍く光る刃物を引き抜くと、そのまま慎司の方へ突進してきます。呆気に取られていた慎司が咄嗟に取れた行動は、正面を腕で固めることだけでした。
ドス、という鈍い音が、慎司のすぐ前から聞こえます。恐る恐る構えを解くと、目の前には大きな何かが、女と慎司の間に立ち塞がっています。狂気の笑みを浮かべていた女の顔に、今度は恐怖が広がっています。
「おう、鬼火が消えてんぜ」
低く、響く声。それは昼に遭った奇妙な男、ヤドリのものでした。ヤドリは右足で思い切り女の手を蹴り上げ刃物を弾き飛ばし、叫びます。
「なんでよ!!その男が生きてるじゃない!あの子が死んだのにどうして……!」
「ここで轢かれた奴は頭を打って死んだ。轢いた奴は、そこのガードレールの向こうに落ちて、頭を打って死んだ。わかるな?被害者も、加害者も、死んだのさ。ここにはもう、誰も居らんだろうがよ」
それでもなお、女の金切り声が、慎司を非難します。ヤドリはため息を吐くと、今度は深く息を吸い、叫びました。
「帰れ!!死んだ奴を呪って、関係ない人巻き込んで何が叶うってんだ!釘打つのも撒くのももうやめろ!!」
秋の夜に、稲妻のような勢いがビリビリと響きます。女は頭をブンブンと振り回すも、やがて呻き声をあげて帰っていきました。
「お兄さんも、もうお帰んなさい。加害者に間違われるとは、気の毒でしたね。あとで騒がせた詫びのお供えでもしに来ますかね……」
ヤドリは前腕をさすりながら、よろよろと再び立ち去ってしまいました。
しばらく経ったある日。慎司は、トンネル手前を通りがかりました。事故があったときはいくつもの花束や食べ物がお供えされていたものの、今となっては誰も振り向くことすらなくなってしまった場所。日常の一部として再び組み込まれた、ただ道路が赤いだけの場所。近くでは、蛍光色のゼッケンを羽織った老婆が学校帰りの少年少女の横断を見守っています。
黒い染みが点々と続く階段を駆け上がり、女が何かの呪いを行っていた場所へ向かうと、先着者が居りました。
「ここに来たということは、あなたの苗字は大川さん、なんですかね」
ヤドリが、一本の木の根元に立っていました。足元には、菓子と飲み物が置かれています。花束はありません。慎司は首肯すると、持参してきた線香と、タバコに火を点けます。
「事故を起こしたのは、私の叔父です。10年も経っていないので、ここら辺のニュースを調べれば出てきたと思います。事故の詳細は、ご存じですか」
ヤドリが首を横に振ると、慎司は続けます。
「ちょうど今と同じくらい、いやもう少し寒い時期でした。叔父は車を運転中、道路に飛び出した女の子を避けようとハンドルを切るも間に合わなかったんです。女の子は半身を強打して死亡、叔父は凍った路面で車を制御できずにガードレールを突き破り、車ごと下に落ちて死亡。目撃者はいませんでした。」
「まあ、よくある話ですね」
「ええ、よくある話です。ただ幸か不幸か、叔父には妻も子供も居ませんでした。親、私にとっての祖父母も既に他界していたんです。相手の遺族からすれば、恨む先が無かったでしょう」
「だから、その人の『家』を恨むことにしたようですね」
供え物をした木の幹の上を見遣ると、「大川家」と書かれた和紙に何本もの釘が打ち込まれています。
「そのようですね。尤も、私達からすれば道路が滑るような季節に、信号を無視して飛び出してくる子も、それを放置する親も、碌なものではないと思うんです」
慎司に破り取られた「大川家」の張り紙は、線香の火に当てられてゆっくりと灰になってゆきます。
「ねえヤドリさん。よく妖怪とか幽霊よりも、生きた人間の方が怖いって、言うじゃないですか。少なくとも、俺はそうだと思っています。言っちゃあ悪いですが、叔父は飛び出してきた女の子に殺されたようなもんじゃないですか。それが、あっちのお母さんの方が『子供を奪われた被害者』なんて顔をして、面白いはずが無い。いっそこっちが、相手を呪い殺してやりたいと、そう思ってしまう」
「それで、この前は一人で突撃していったんですか?」
「少しは、そういう気持ちもあったかもしれません。この通りで噂が流れたとき、俺は絶対あの母親が何かしてるんだろうなと確信しました。実際はこの前の通り、俺が逃げ出して終わっちまったんですけど。情けない話です。しょうもない情念に突き動かされてこれとは」
思わず両手に力が入るのも構わずに話し続ける慎司に、ヤドリは静かに答えます。
「逃げて、いいじゃないですか」
「えっ」
「どうにもならない、やり場のない怒りを、一族にぶつけた母親はこの前見た通り、狂っていましたね。叶いようのない願いのために、身を焦がす必要は無いんです。そこには何かの儀式で使ってたのか犬の頭もありましたよ。臭いが酷いので埋めましたけどね。まあそういうことをしてしまう程に、彼女は狂ってしまった。
でも、わざわざ何も悪くない、どちらにも落ち度があったなんて言う必要も無いんです。
被害者も、加害者も、死んで終わり。女の子と叔父さんが、それぞれの罪を負ってくれる。そうでなければ……二人がどういう最期を遂げたのか、再び確かめなければならなくなる」
線香の火が燃え尽きる頃、二人はお供え物を下げるとその場で飲み食いし、再び手を合わせてから階段を降りました。以後、そのトンネル付近で怪異が出ることは無く、噂も立つことなく、慎司がそのトンネルを通ることも無くなりました。




