十九.蜃気蝋
嫌なことがあったとき、辛いことがあったとき、大抵の人はよろしくない感情を抱きます。生じた衝動を、良いことに昇華出来ればよろしいのですが、中々そうもいかないのが難しいところです。
積もり重なった怨嗟の炎は、例え火種が小さくとも、いつか人の心を焼き焦がすといいます。
絶えず頭上から降り刺さる雨粒の冷たさに心地よさを覚える程に、自身を叩きつけ、そしてすり抜けてゆく風に生温さを感じる程に、飛ケ谷は自身の内側に、猛烈な熱が燃え滾っているのを感じていました。己の感情を爆発させんばかりに燃やし続け、兎に角前へと走り続けます。
別に何か大きな失敗をした訳ではありません。信じられないほどに落ち込む何かがあった訳でもありません。ただ小さな失敗や不幸の連続が、例えばゴミに出す予定の紙屑をこぼしたとか、自分が使おうと思っていた道具の手入れがされていなかったとか、そういったことが、どうにも心のどこかにへばり付いて離れないのです。
いつもなら走っているうちに和らぐ感情が、今日に限っては激しさを増してゆきます。
どうしていつも自分を紙屑を捨てなければならないのか、いつもおかしくなった備品の手直しをしているではないか、なぜ、自分が……
その思考も、飛ケ谷が前につんのめって倒れたことにより中断されました。怪我は無いものの、両手は自分の体重を乗せて地を強く叩いたものですから、遅れて軽く痺れてきます。最早泣きそうになりながら顔で振り向き睥睨します。
自分の足を閊えさせた、忌々しき障害物は、白く、地面から突き出ていました。雨でぬかるんでいるためか、蹴られた衝撃が以外にも大きかったのかぐらついているそれを、怒りを込めて引き抜きます。
「貝……?」
引き抜かれたそれは、片手には収まらないほどに巨大な貝殻の片側でした。殻はホタテ貝にしては分厚く、シャコガイにしては薄く、形はシジミやハマグリなどの一般的な二枚貝といったところです。
転倒の痛みと雨に当たり続けた疲れに押し負けた飛ケ谷は、物珍しき貝殻を土産に持ち帰るのでした。
「飛ケ谷さん、何だか変わりましたね」
奇妙な貝殻を拾って以後、飛ケ谷はそう言われる機会が増えてゆくのに気づきました。どこが変わったのかと聞くと、「静かになった」「怒らなくなった」「穏やかになった」という答えが大半でした。
「お客さんのクレームでも怒らなくなったし、上の人にも噛み付かなくなって、本当に別人みたいですよ。体調崩して元気がないとかじゃないですよね?」
などと、先輩社員に要らぬ心配までされています。
「大丈夫ですよ。僕は大丈夫です。いい加減大人になって、我慢することを覚えただけです」
実際、飛ケ谷は我慢することを覚えました。頻繁に他者に聞いて回っていた仕事は一人で全て調べあげた上でこなし、出席率にムラがあった同僚や友人から食事や外出の誘いは二つ返事で応じ、自身が納得できなければ誰にでも反論していたのが、今はどのような相手であっても、諍いは絶対に起こそうとはしません。そして事あるごとに、「大丈夫」というのが、彼の口癖となってゆきました。
「飛ケ谷君、大丈夫じゃなかったみたいだねえ」
「辰見さん、どうしてここに……一体何のことですか。僕はほら、いつも通り大丈夫じゃないですか。|辰見さんこそ、心配しすぎなんですよ。ちょっと風邪ひいただけじゃないですか」
あくる日、風邪をこじらせた末に倒れた飛ケ谷の様子を、見に来た者がおりました。納得できなければ誰にでも意見を述べ、争いも辞さない普段の飛ケ谷が、唯一文句を言いつつ従う相手。それが彼女でした。
「君んとこの先輩から話は聞いているよ。言うことは聞く様になったがものを言わなくなったってね」
「余計な事を言わなくなっただけですよ。僕は大丈夫です」
辰見は玄関先の飛ケ谷をしげしげと見つめ、そこからゆっくりと肩越しに目線を移動してゆきます。
「最近、何か拾ったろ。見せな」
俗にいう「視える」人である彼女の前に、飛ケ谷は大雨の日に拾った貝殻を差し出しました。テーブルの上に置かれた貝殻は、少し緑がかった白色をしており、端が少し湿っています。
「なぜかずっと乾かない以外は、何の変哲もない貝殻ですよ」
「……拾った場所は」
「ここから、しばらく歩いた公園ですけど」
「おし、行こう。それ持って」
「えぇ、ペットじゃないんですから置いたままでいいじゃないですか」
「いや、そうじゃない。邪悪なものでは無いと思うけど、それは持って行った方がいいと思う」
そういうことになりました。
「なんか、すいませんねえ。こうして、心配してもらって。最近は、一人でなんでもできるようにって思ってたのに、結局駄目にしてしまう」
「一人でなんでもできるように、か。私の知る君の長所は、誰とでも話ができて、言われなくてもある程度動けて、感情豊かなことだったんだがね。自分の体調をほったらかして言われたことだけ黙ってやるのは、一人でやるって事とは違うんじゃないか」
おとなしくなった、を通り越しておかしくなってしまった弟分を諭しながら人気のない公園を歩きます。微かな潮の香りが風に運ばれ、公園が海から近いことを実感させます。
「そこなアベックさん、ちょいとよろしいか。いや、今どきはアベックなんてのは死語だったな。失礼」
海の方から現れたのは、穏やかな風景に不釣り合いな、黒ずくめの男でした。丈の長いコートも、足首までしっかりと守っている厚い靴も、乱暴に後ろへと流された髪も、遠目には幽霊か影に見られてもおかしくない程の黒さです。
「ここいらで、バカでかいハマグリの貝殻を見ませんでしたかね、こういう感じの」
男が懐から取り出したのは、片手には収まらない程に巨大な、薄緑がかった白色の貝殻でした。
「ええ確かに、それと同じものを、持っています。それを拾ってから、この人の様子変わってしまったんです。何かご存じなのであれば、教えてくれませんか」
「ほお、それなら、そこのお兄さんがどう変わったのかを、教えてくれますかね。」
辰見は、男にこれまでのことを語って聞かせました。飛ケ谷が貝殻を拾ったこと、それから非常に大人しくなったこと、最近は何も言わなくなりついには倒れたこと。
ヤドリと名乗った男は、飛ケ谷の目をしばらく見つめた後、辰見に向き直り、貝殻の正体を告げました。
「こいつは、蜃と言います」
「蜃気楼という言葉があるでしょう。蜃気楼という現象は、蜃という生き物が吐いた”気”によって生じる楼閣であると信じられていたそうで。」
「その蜃が、この貝だってことなんですか」
「竜であったとも言います。ただ、漢字で蜃の上の部分、『辰』という字が、2枚貝が足を出している様子を表していたことから実際には混同されたのだろう、とも言われています。
まあ、蜃が貝だろうが竜だろうがどっちでもよいのです。今大事なのは、飛ケ谷さんがこの貝殻を持ち帰ってから豹変しちまったことなんですからね」
ヤドリは持っていた貝殻を下に置き、飛ケ谷からもう一枚の貝殻を預かるとそれを上に乗せます。
「蜃は気を吐いて楼閣を生じさせることができる。逆に気を吸い上げることもできたそうです。古い呪術では相手の髪を二枚貝に入れてから家に埋め、相手の家を没落させるという呪詛もあったとか。恐らくは飛ケ谷さん、この蜃に気を吸われたんじゃないかって、思うんですよ」
「吸われた飛ケ谷の気は、戻せるんですか?」
ヤドリは筆ペンで貝にグニャグニャと字を書き、真正面に飛ケ谷を立たせると、むにゃむにゃと何かを唱え、
「吩!」
と吠えました。すると閉じていた貝殻はぱっかりと開き、上側の殻はひっくり返って地面に着くと、そのまま真っ二つに割れてしまいました。ヤドリはそれをさらに細かく砕き、どこからか取り出したすり鉢でゴリゴリと挽き始めます。
「どうですか」
「なんだか、気は軽くなったと思います。ただ……」
「ただ?」
「前はもっと、怒りというか、いつも燃え滾るものがあった気がするんですけど、そういうのが湧いてこないんです」
「そら、そうでしょう。蜃は水の気を吐く。殻に残っていた水の気にあてられて、飛ケ谷さんに燻っていた悪い感情も鎮火された。もう癇癪を起すこともありませんでしょう」
すり鉢の中に何かの液体を入れ、更に棒で混ぜ合わせると、練り上げられた粉が徐々にまとまってゆき、そこに芯に紐を通した一本の棒きれが出来上がりました。そして半分に折ると、一方を辰見に渡し、一方を懐にしまい込みます。
「じゃあ、私は謝礼代わりにこいつをいただいて行きますね。今晩燃え尽きるまで火を点けておいてください」
「どうも、ありがとうございます……あの、いいんですか?そんなもので」
「ええ、金やら何やらじゃダメなんです。私はこれでも足りないくらいでしてねえ」
見返すヤドリの暗い瞳に、赤々と燃える何かが視えた辰見が強張っているのを見た飛ケ谷は、辰見の手を引くとヤドリに礼を言い、その場を後にしました。
「どうでもいいようなことへの怨みが重なると、どうでもいいようなことでも激しく怨まずにはいられなくなるのよなあ」
「おおっ小さい蜃気楼が浮いてる」
「ミニチュアみたいで綺麗ねえ」
蝋燭の炎から生じる白い煙が、飛ケ谷の住む街を薄っすらと映します。
「もう、大丈夫そう?」
「そう、だね……大丈夫じゃないときは、辰見さん呼ぶよ」
「……こういう時にキザな事言っちゃってえ!」
蝋燭に照らされていない首筋から耳の裏まで赤く染まった飛ケ谷は、気付けの一発を辰見からいただくのでした。




