十七.常世(とこよ)の土産
『ここではないどこか』への憧れは、いつの世も多くの人を魅了して絶えることがありません。ある者は未開の地へと足を運び、ある者は夢物語に想いを乗せて筆を走らせます。
その憧れの根底にあるのは、夢や浪漫や興味であるとは限らないようでございますが。
大友は、1から12までの数字が整然と並んだボタンの群れを眺めていました。そのボタンの群れのうち、「4」の数字が発光し、今現在4階にいることを示しています。
すっかり寂れた駅ビルの中、じっとりとした湿り気を掌に感じ取りながら、もう片方の手で「2」を押します。頭が引っ張られる感覚が収まると同時に開いた扉の向こうから、入ってくる者はおりません。
次に「6」。今度は全身を軽く押し付けられる感覚が無くなると共に扉が開き、奥に広がる部屋は使われなくなって久しいのか、何かの備品と古ぼけた椅子が転がっているのみです。
再び「2」。またしても頭を引っ張られる感覚が、「落下している」ことを実感させます。再び開いた扉の奥には、先ほどと異なり人影が見えました。全身黒ずくめのソレを見つけた瞬間、腹の底からこみ上げてくる感情をぐっと飲み込み、その人影がこちらを見つめているのに気付くと同時に、扉は静かに奥の空間を切り取るのでした。
今度は「10」。頭を押さえつけられる感覚の中で、次のボタンを本当に押すのか、迷いが生じ始めているのを感じます。開いた扉の先には、やはり誰もおりません。
そして、「5」。震える手でボタンを押した瞬間、大友はこれから先に起きるであろう出来事への恐怖心と、得体の知れない興奮を誤魔化すように、掌をズボンに擦り付けます。開いた扉の先、誰もいないことに落胆と安堵に肩の力を抜いた瞬間、今度は白い服の女が、横からぬぅっと部屋に入ってきました。
(本当に入ってくるのか)高まる恐怖と興奮が神経を尖らせ、背中に冷たい物が走るのがわかります。すれ違いざまに見える女の輪郭を見るために後ろを振り向く勇気を、大友は持ち合わせていませんでした。
最後に、「1」。5階から1階へと降りているはずなのに、頭を押さえつけられる。すなわち上の階へと向かっていることを、部屋の上部にある階数表示が裏付けます。6,7,8……
(9を越えたら成功、その先は……)となどと考えているうちに、エレベーターは停止します。階の表示は、「10」。
果たしてこれは失敗か成功か。開いた扉の両脇から白いモヤが忍び寄り、外は電灯が部屋の片隅で寂しく光り、そして目の前には、2階で見かけた黒ずくめの男が立っていました。
いよいよたどり着いて「しまった」という実感と、目の前に出現した男への衝撃にに大友が言葉を失っていると、男は扉の脇へと体をずらし、頭を軽く下げています。それを待っていたかのように、後ろから女がふらりと降り立ち、クルリと大友に振り返ります。
「かえるなら、こいつのあとにつくといい」
女の顔をしっかりと見ているはずなのに、大友はソレがどんな顔をしているのかがよくわかりません。
女に見えるし、男にも感じられる。声は年若くも、老いたようにも聞こえる。
ソレは、男に「あらすなよ」と言い残すと、そのままふわりと何処かに去って行ってしまいました。
「さて、どうします。このまま帰るか、もう戻らないのか。少しだけなら、見て回ることもできますぜ」
足と喉と口を震わせ、両手を強く握りながら、大友はゆっくりと、とてもゆっくりと吐き出します。
「少しだけ、見て回りたいです」
「……絶対離れなさんなよ。探しきれる自信がない」
「古いパソコンの中」。エレベータを降りてから抱いたのは、そんな印象でした。
瓦葺の屋根、板造りもしくはブロック塀、プレハブ小屋。一昔前によく見た作りの家や建物が、まるで放り投げられたかのように無造作に設置され、その塀も家のすべてを囲っているわけではなく、画面の表示が限界となったかのように、不意に切り取られているものが多々あります。
空は紅に染まっているのかと思いきや青空もまだ残っており、一部は切り取られたかのように真っ黒く、夜を迎えているのが見えます。
「ここは異世界なんですか」
うっすらとした霧がそこかしこで這いまわる空間を、迷うそぶりも見せずに男が先に歩いています。
「孤立した空間という意味なら、異世界でしょうな。だが、恐らくあんたの求める異世界には含まれない。そこらの建物、見覚えあるんじゃないですか」
言われて周囲を見返すと、成程周囲の建物に、自分が住んでいる街の面影が感じられます。
さっきの瓦葺の屋根は駅ビルの裏にある金持ちの家だったな、あの板造りの塀は飲み屋街で見たことがある、あのプレハブ小屋は少し離れた空き地にあったような……
「でも、どれももう少し古ぼけてたりボロボロになっていた気が」
「ほぉ、鋭いですね。ここはこの街の古い記憶なんです」
無造作に居並ぶ建物群の中を、男と大友は歩きます。道中に立っていた鳥居はその奥に何もなく、ただただ暗い空間のみが広がっています。男は腰から、黒い刃物を取り出すと、鳥居にぶら下がっている注連縄の一部を切り取り、また歩きます。真っすぐではなく、何度も何度も左右へ曲がり、時には塀をぐるりと回り込みながら、ユラユラゆっくりと、しかし止まることなく進みます。
「随分と使い古された手法で来たもんですね。単純な興味か、それとも今いる世界に嫌気でも差しましたか」
「ここに来るときの駅ビルを見ましたか。ええと、お名前は……」
「ヤドリと申しますよ。駅ビルは拝見しましたとも。エレベーターを使うには都合は良かったでしょうが、入ってる店は随分少ない。二階で見かけたとき、なんとなく『やるつもりだな』って予感がしましたよ。で、先回りさせて貰いました。私もここに用があったのでね。」
「私は大友と申します。お恥ずかしながら、その随分少ない店を抱える駅ビルに勤めていましてね。人がいなくなっていく寂しさに、それこそ嫌気が差しまして。今日はもう帰るつもりだったんですが、エレベーターに乗ったとき、異界への行き方なんてものが流行ったのを思い出したんですよ」
「そいつは、『魔が差した』という奴ですな」
ヤドリと名乗った男がとある道の角を曲がると、それまで続いていた舗装されていない道路が途切れ、両脇に街路樹が植えこまれたアスファルトの道が続いていました。ヤドリは植え込みのある段差に腰を下ろすと、ふうと息をつき、「小休止しましょうか」と大友にも座るよう促しました。
「都市は移動する、なんて話があります。街の再開発かなんかで栄える地域がある程度移動するっていうものだそうですが。その街が移り変わる際、一昔前の街が顕れることがあるんです。今の此処みたいにね」
「ゲームでいう裏世界とか、デバックルームみたいなもんですかね」
「ああ、言われて見ればそうかもしれない。人か、街かはわかりませんが、昔の”記憶”が、どこかの吹き溜まりに寄り集まって、一つの空間を、忘れ去られた場所を再現するかのように作り出す」
「掲示板の書き込みだと、異界に人間は貴方しかいない、って書いてましたけど」
「迷い込む人間以外、ここにはナニも住んでいませんよ。一緒に降りてきたアレも、ここの住民って訳じゃない」
「じゃあ、何だって言うんですか」
「金神、神様です。方角を犯すと家族7人、居なければ隣人が死ぬといわれる程に、強い力を持つ凶神様だ。だから行く方角が被らないよう、こうしてあっちこっち曲がりくねって歩いていたわけですよ。古い言い方をするなら方違えと言う奴ですな。これをやらなければ、今頃大友さんは異界ごと滅ぼされていた。ネットで帰還の書き込みもできなかったでしょうよ」
「そんなことはしませんよ!いや、それよりも、異界ごと滅ぼすって、どういうことですか」
「さっき言ったでしょう。金神は強い力を持つ。あらゆる凶事を司る。そしてその力を以て、こういった古く、淀みを生み出すような空間も滅ぼしてしまう。」
ヤドリは、さて、と呟くと膝に当てる手に力を込めて、勢い良く立ち上がりました。
「帰りましょう。ここはもう閉じてしまう」
「……こうして歩いていると、昔のことを思い出すんです」
「ほお、どんな」
「私の家から駅のある通りまでは結構な距離がありましてね。今よりもう少し暑い日だった。アスファルトが照り返す中、私は母親買い物について行ってたんです。歩幅が狭いから少しでも気を抜くとグングン離れてしまう。何とか追い付いて来た先が駅ビルで、そこでちょっと高いアイスを買って、それからまた炎天下の道を帰る。そうして持ってきたアイスを、家族で食べるのが、私は好きだった」
「……良い思い出ですね」
「はい、とても良い思い出です。すっかり忘れていましたが、ここに来たおかげか思い出せた。」
「なら、案内してよかったというものです」
「ありがとうございます。今度は二度とエレベーターを占拠できないくらいに、賑やかにしてみせますよ」
「ふふ、その意気ですよ。」
しばらく後、駅の構内拡張に伴って新装された駅ビルを、忙しなく動き回る男の姿がありました。大友と言うこの男は、招致した店が成功する度に、少し高いアイスを部下や同僚に振る舞ったそうです。




