一.陰、来たる
黄昏時という言葉がございます。まだ日は落ち切っていないから、辛うじて「誰か」いるのがわかる程度に明るい。しかし、「誰が」いるのかがわからない程度に暗い。誰そ彼と、向こうにいるナニカの気配を感じ取り、思わず誰かと呼び掛けてしまう程に、暗闇と不安が染み出し始める。そんな時間帯のお話しです。
ある日の夕方、高校生の笹部優香は、放課後の教室で勉強しておりました。
「笹部さん、そろそろ暗くなるから帰りな」
先生の言葉にふと顔を上げると、教室の中は夕日の光で満たされていました。
先生に挨拶し学校を後にした笹部は、今後の進路をどうしようかと考えごとをしているうちに、いつもとは違う道を通っていることに気が付きました。そこは道路が舗装されておらず、大きな水たまりが常にできているような、細い道でした。
徐々に日が沈み、空き地のブロック塀と藪に挟まれているせいか、ほぼ夜といって差し支えない程に暗く、いつもならすぐ抜けられる道は、今日に限って妙に長く感じます。
早く終わってくれと無意識に速足で進む笹部でしたが、ひと際大きな水たまりの前で歩を止めます。
水面から四本の黒い棒が伸び、上の黒い塊を支えています。塊には二本の角のようなものが生えており、どうやらソレが獣らしいということがわかります。
時折ここら辺で姿を見せるカモシカに似ていますが、どうもそういう、「動物」とは異なります。
ザ、ザ、ガサ、ガササ、ミシミシミシ……
周囲が完全に暗くなっていく中、藪の奥から更に何かの気配が音を立てて近寄ってきます。目の前にあるモノと目に見えないナニカへの恐怖で、いよいよ笹部の脚が動かなくなってきたときでした。
「そいつは䍺と言います。羊に患うと書くんだそうな」
藪の中から現れたのは、一人の人間と思しき男でした。男は手に持っていた袋からカップ酒を取り出すと、䍺と呼んだ黒い塊に振り掛けました。しかし䍺は消えず、水たまりの中に足を踏ん張り続けています。
「こいつは違うのか……」
男は笹部をじっと見つめます。笹部は声も出さず、男を眺めます。少なくとも䍺を見続けるよりは、マシでした。
男は髪の毛、服、靴に至るまで黒く、今にも薄闇に溶け出しそうです。それでいて眼はギョロリと見開かれ、その目線の高さが男の身長の高さを物語っていました。
「あんた、学生さんなのかい」
「あ、あの、来月で高校3年生ですっ」
「……進路に、囚われの、学生の憂い?」
男は袋からもう一本、今度は缶を取り出すと、何度か振った後に何事かむにゃむにゃと唱えてからプルタブをつまみ、䍺の口元と思しき部分にあてがいます。
全く動く様子のなかった䍺が、頭を上げるのに合わせて、湯気の立つ中身を流し込んでやると、徐々に黒い塊は透けて行き、やがて水たまりと黒い男だけが残りました。
「受験シーズンの学生さんの、勉強のオトモといえばココアだよなあ」
そういってニッカリと笑いかける男を見て、笹部の脚はようやく、硬直から解き放たれるのでした。
「助けていただいてありがとうございます。笹部と言います」
「どうも。ヤドリといいます」
「ヤドリさんは、お坊さんとか霊能者さんなんですか?」
「いいえ、『そういうの』が好きでそこいらをうろついてるだけの素人ですよ」
「あれは、何だったんですか」
「䍺。中国の伝承では監獄に囚われた罪人の憂いが凝り固まって生じたモノで、酒で憂いを癒してやれば消えてなくなったという話があるんです。」
「でも、お酒じゃなくてココアで消えたように見えましたよ」
「アレは学校とか進路とか、そういうのに囚われた学生さんたちの憂いが凝り固まって生じたモノだったんでしょう。だから笹部さんのような、悩める学生さんのもとに顕れた。なら憂いを癒すのは、酒ではなくて休憩時間にのむココアとかミルクとかの方がふさわしいなと思ったんですよ」
ふぅん、と歩く笹部の目には、ヤドリが自由に生きる大人として、そして自由に生きるための力を得た大人として映りました。
「さて、ここまで来ればもうよいでしょう。不審者として誰かの目に留まる前に、失礼しますよ」
「あの、ヤドリさん。聞きたいことがあるんですけれど」
「ん?」
「ヤドリさんは、進路に迷ったことはありますか?迷って、どうしましたか?」
「私は、迷い続けてるんです。今も迷っているから、こうして風来坊をしている」
吹き抜ける風が背筋に当たり、いやに冷たく感じさせます。
「何かに縋ること、留まることにこだわり過ぎれば䍺のように一歩も動けなくなってしまう。だからといって何もかも放り投げてしまえば、ずーっと彷徨い続けることになるんです……受験にせよ就職にせよ、
自分の居場所を勝ち取るための戦いです。勝ち取った居場所で、何をするか考えられれば、そうならずに済むと思いますよ」
妙な眼力で笹部を睨みつけたヤドリは、自分用に買ったものだがと前置きして缶コーヒーを手渡すと、そのまま闇夜に溶け出していってしまいました。
次の年の春。新聞の一面に、一人の少女が掲載されていました。
『祝 難関大学合格 30年ぶりの快挙 缶コーヒーから得た決意』