茜と幹隆の待ち合わせ(前編)
「よ、予約申し込みっと……」
恐る恐る、緊張して震える指をどうにか押さえつつ、茜はスマホの画面をタップした。
「どう……かな」
しばらく待つが何も応答は無い。
「そりゃそうか」
予約受付は個別に確認させていただき、厳正な抽選の後ご連絡させていただきます、と書かれていた一文を思い出し、スマホをベッドの上にポンと放る。コンピュータが自動的に空き時間を確認して「受け付けました」と応答するような仕組みでなく、予約の内容を吟味して返事を出すということだから、返事は早くても締め切られてから三十分から一時間かかるはず。つまり今から二時間はかかるとみていい。
「はぁーっ、き、緊張してきちゃった」
自分でも緊張するには早すぎだろうと思いつつも、今週末の予定に思いを馳せると心臓の鼓動が抑えられなくなる。
「茜、ちょっといいか?」
「ん?何?」
三日ほど出張になるから、と出かける日の朝、出かける間際になって幹隆が茜に声をかけた。
「今度の土曜日なんだけど」
「うん」
「空いてるか?」
「え?」
即座に脳内の予定表を開く。ええと……ええと……
茜の勤める保育園は土曜日も通常営業だが、保育士の勤務体系は完全週休二日制を謳っており、シフト勤務だ。そして、次の土曜日は……
「うん、シフトは入ってないよ」
「そうか。じゃあ、一緒に出かけよう」
「え?」
「あ、スマン。時間ヤバいから行く。あとでメッセージ送っておくから」
そう言って幹隆は飛び出していったが、茜は完全にフリーズしており、再起動した頃には幹隆の姿は玄関先から消えていたのだった。
「お出かけ……ミキくんとお出かけ……」
その日、仕事中はいつも通り振る舞っていたものの、仕事を終えると虚ろな目をしてブツブツと呟くヤバい奴になりながら帰宅。
その様子に心配した両親が
「大丈夫か?」
と声をかけたら
「うにゅ~ん、だいじょうぶ~、へへ~」
と両親もドン引きする反応が返ってきたので、どこか病院にでもと慌てかけたが、ちょうどそのとき茜のスマホに幹隆からのメッセージが届き、ロック画面に出ていた「土曜日の待ち合わ」という見出しに「なんだ、平常運転か」とそのままにすることにした。両親だけあって、茜の取り扱いには慣れたものである。
そして幹隆からのメッセージに書かれていた「待ち合わせ」という単語で、茜はまた大いに悩むことになる。
待ち合わせ、だ。
同じ屋根の下に暮らしている関係上、一緒にどこかへ出かけるといった場合でも、玄関を出るときから一緒というのが常である。
それが待ち合わせだ。
意識するなと言う方が無理がある
いや、意識するどころか、色々と期待してしまう。あんなことやそんなことを。
そんな特別なお出かけ行事なら、できることは何だってやる。頭のてっぺんからつま先まで、全身くまなく戦闘態勢。髪は女の命と言うが、恋する乙女の最終兵器でもあるのだ。
切原葉子は世間一般で言うところのカリスマ美容師である。
もちろん駆け出しの頃はどこにでもいる、ごく普通の美容師だった。そして、テクニックこそ平凡だったが、カットのセンス、つまり、魅力を最大限に引き出すような髪型をデザインし、仕上げていくという才能は飛び抜けていた。
そんな彼が各種メディアで取り上げられ、カリスマ美容師と呼ばれるようになるまで五年とかからなかった。
だが、話題になるというのも良し悪し。それまで彼女が勤めていた美容院に客が殺到し、捌ききれなくなって店長がそれとなく苦言を呈する……いや、それとなく勧められて、独立した。
自分一人でまかなえる範囲でその腕を振るえるように。
さらに言うなら、全国各地を転々とすることで、東京まで足を運ぶのが難しい女性も彼女のカットを受けられるようにと。
トン、と目の前のノートPCを開き、予約申し込みの一覧を開く。
予約を受けるには、切原のSNSをフォローし、不定期に公開される予約情報に申し込む以外の方法は無い。そして今回は五件の予約時間を設けた。
受け付ける時間はいつも通り僅か一時間。にもかかわらず、その僅かな間に二百件もの予約が入っていた。
「かわいくなりたい……ボツ。愛されコーデ……ボツ。盛りたい……ボツ。全く下らないわ」
切原が予約を認める基準は非常に曖昧だが明確。切原の琴線に触れるか否か、だ。
「ふーん、結婚式……ダメね。こんな普段からのケアをロクにしていない髪なんて」
彼女のこだわりは髪。普段からどのように髪を整えているか、できる限りの努力をしているか。そしてエピソード。髪をセットしたい理由は何か。ただかわいくなりたいだの、盛りたいだのといった理由には反吐が出る。
そして髪の写真。今の髪型がわからなければ、どうすればいいかわからないからという、ごく当たり前の理由であるが、それ以上に「今よりもっと魅力的にしたくなるかどうか」という、素人には全くわからない基準がある。
「ん?これは……」
一件の申し込みに書かれた理由に切原は引きつけられた。
「幼なじみのアイツが初めて「待ち合わせ」しようと言ってくれた」
書かれていたプロフィールは二十歳を過ぎている社会人。にも関わらず「幼なじみ」だの「初めての待ち合わせ」だのと初々しいことこの上ない。
そして添付されていた髪の写真。
まずその髪色に惹かれた。
切原に限らず、それなりに経験を積んだ美容師なら、髪を染めているかどうかなど一目瞭然。
それにそもそも日本人の髪は黒が基本だ。
つまり、普通に考えたら緑色の髪など、日本人で無くてもあり得ない色合い。なのにどう見ても染めた色に見えない。
「どうしてこんな色が……いや、それだけではないっ!」
思わず椅子を蹴倒して立ち上がり、ノートPCを手にして画面に顔がつくほど近づける。
「この艶っ!いつも気にかけているだけではないっ!」
ガタッとPCを置き、天を仰ぐ。
「健康な食事!規則正しい生活!適度な運動!」
両手で顔を覆い、ぐぐっと反り返る。
「素晴らしいっ!」
膝をつき、両手を高々と掲げる。
「こんな!最高の状態の髪を!ごく当たり前のように維持しつづける!今のこの世にこんな女性がいたとは!」
そして画面一杯に拡大した写真を熱い視線を送る。
「これは!こんな髪を見せられて!滾らずにいられるかしらっ?!」
立ち上がり、両手を掲げて天を仰ぐ。
「否!いやむしろ!滾らないことこそ、この髪に対する冒涜っ!いえ、文字通り神に対する冒涜っ!」
そして部屋の中をグルグルと歩き出す。
「素晴らしい、素晴らしい、素晴らしい!」
「滾る!滾るわあっ!」
「こんなっ!こんな髪を!完璧に仕上げるっ!」
「至福っ!最上の喜びっ!」
「ああっ!もうっ!インスピレーションがっ!」
ノートPCに手を伸ばし、キーボードの上に指を走らせる。
「川合茜の予約を受付っ!その他は全て受け付けないっ!」
タンッとEnterキーを押すと、パタンと画面を閉じる。
「ああ……楽しみだ」
「いえ、むしろ怖い。この髪を仕上げるのに……一切のミスは許されない!」
「そのためにはっ!」
ゆらりと、まるで幽鬼のように切原は立ち上がる。
「ふ……ふひひ……ふははは……」
その瞳はらんらんと輝き、その口元は至上の愉悦に歪み、その指先はこれから起こる至福を予感してか、おかしな具合にねじくれていた。
そしてゆっくりと部屋の隅に向かい、ガラッとクローゼットの扉を開く。
壁一面に所狭しと並べられた大小様々の鋏。
どのように仕上げるべきか、切原の脳内では毎秒数パターンの髪型がイメージされては消えていく。
こう仕上げるためにはこの鋏か、イヤダメだ、長すぎる。これは?ダメだ。ではこちら?この髪型は?いや、むしろこちらの方が?
思考がどんどん加速していく。
「ふははははっ!」
「あーっはっはっはっ!」
「川合茜っ!待っていてっ!必ずや至高のっ!最上の髪型に仕上げて見せるわっ!」
タイミング良く降り出した土砂降りの雨と鳴り響く雷鳴。
暗闇の中、雷光に照らし出された顔は……狂気に満ちていた。
前編・中編・後編の予定




