世界最強の保育士
「やー、やっと帰ってきた」
十日間の日程を終えて帰国した幹隆は、電車の窓から見える街並みを見ながら思わずそう呟いた。
今回は特に何事も無く終了……もちろん、現地で多少のゴタゴタはあった。
通る予定だった道路で事故が起こって急遽変更したりとか、外務大臣が会談する予定の相手がドタキャンしたりとか。
いつものことである。
ちなみにその十日間の前に五日間の総理大臣の外遊、その直前に十日間の財相外遊があったので、ほぼ一ヶ月間帰れておらず、課長からは五日間の休暇をもぎ取った。
他のメンバーは交代しながら護衛についているのに、幹隆だけ出ずっぱりというのは……有能である証と言うことにしておこう。
ではその五日間何をするかというと、
「寝るぞ!」
ダメ人間である。
「おはようございます」
いつもよりちょっと早めに出勤した茜がいつも通りに色々な道具を出してこようとロッカーの鍵をとろうとしたところで、園長先生に止められた。
「河合さん」
「はい、何でしょうか」
「今朝なんだけど、竹下さんが急遽お休みになってしまったの」
「あら……あ、お迎えのバス」
「そうなの。頼めるかしら?」
「わかりました」
そう言えば昨日、子供が熱を出したとか何とか言ってたような、と思い出しながら、バスのお迎え名簿と、お迎え用道具一式――中身は秘密――を手に、職員室をあとにした。
「よし」
バスの中の座席を一通り確認して回り、外に出るとぐるりと一周。タイヤが少々減ってきているが、これは来週交換する予定なので問題なし。ウィンカーも正常。ブレーキランプはあとで竹下さん……ではないな。交代の誰かが来たときに確認してもらおう。
送迎バスの始業前点検を終えた田中順一が「うーんっ」と伸びをしてバスに乗ろうとしたところで、後ろからの物音に振り向いた。
「おはようございます、田中さん」
「おはよう。交代は河合さんか」
「はい」
「よろしく。ブレーキランプの確認をお願いしたい」
「はーい」
後ろに回り込むのを見送ると運転席に座り、ブレーキを数回踏んで点検終了。園児たちのお迎えに出発だ。
「おはようございまーす」
「かわいせんせー、おはよーございます」
「は~い、おはよう~」
バスのお迎えと言っても特段難しいことがあるわけではない。
決められたルートを通り、園児を乗せて園まで向かう。
何かあって「今日はお休みです」というならそれを名簿に書き込んで。バスに乗り込むときの様子を見ながら、体調が悪そうなら保護者に念のため確認して。
色々あって、最初は戸惑うことも多かったが、慣れてきた今では保護者と軽く天気の話などしながらこなせるようになった。
「田中さん、お願いします」
「はいよ~」
運転手の田中はかれこれ三十年以上運転手を務めているベテラン。急に席を立つ子供がいないか気を配っていれば、特に何も無く終わる業務……のはずだった。
「いた……」
男はそう呟くと、踵を返して反対方向へ。
他の園児を迎えに行く都合上、バスは大通りの方へ向かうが、その後はUターンして、男が向かう通りの方へ出てくる。そして、そこでも一人の園児を乗せる。そこで狙おう。
「はい、気をつけて登ってね」
「はーい」
園児がよちよちとバスのタラップを登っていくのに続いて乗り込んだ茜が「それでは~」と挨拶したところへ不意に現れた男が押し入り、羽交い締めにした。
「動くな」
刃渡り二十センチ以上はある、サバイバルナイフを突きつけて。
「うげ……次のバスは三十分後か」
駅から河合家まで徒歩で二十分強。一時間に一本しかない不便なバスはあてにしていなかったが、歩いて行くしかないか。
「っと、一応メッセージを」
叔母に「駅に着きました。これから帰ります」とメッセージを送っておく。こうしないと、急に帰ってきた幹隆に慌てるのが常だからだ。
「そしてまた質問攻めだな」
立場的にあまり公表出来る話ではなく、でも何日も家を留守にしていればそれとなく察せられる。だからあまり深く聞かれることは無いのだが、河合家は海外旅行の経験がほとんど無いせいもあって、幹隆が外国へ行ったとなるとしきりに土産話を聞きたがる。
「観光地にも行くには行くけど、観光してる余裕はないんだよな」
独り言を呟きながら歩く先に、見覚えのあるバスが一台止まっていた。茜の勤める保育園の送迎バスだ。
「茜が乗ってるが……何かおかしいな」
バスのすぐ横に保護者らしい者が数名いるが、うろたえている様子。バス車内は、運転手が緊張気味に後ろを伺っており、茜は誰かが後ろから裸締め&ナイフを突きつけられている。映画やドラマの撮影なら良くあるシーンかも知れないが、カメラクルーは周囲にいない。
「……警察だな」
自分も警察官の端くれだが、所轄でないここで動くと課長がまた小言を言うので、スマホを取り出してかける。
「はい警察です。事件ですか?事故ですか?」
「警視庁警備部警護課の村田です」
ピシッと向こうで固まった感じがした。
「駅前で保育園バスに……強盗?じゃないな、暴漢?まあ、とにかくそんな感じで、バスジャック、なのかな?が発生中です。至急手配を」
こういう現場に慣れていないので、何て言っていいのかわからないが状況は伝わったらしく、向こう側で大騒ぎになったような音が聞こえる。
「位置情報と画像送ります。通話はそのままにしておくので」
カメラで一枚写真を送ると内ポケットへ。さて、どこまでどう介入するべきか。
「な、なんですかいきなり!」
「黙れ!これが見えないか!」
いきなり乗り込んできた男に首を絞められてナイフが当てられた茜はとっさに色々と考えた。
これが見えないかって、首筋に当てたナイフってそうそう見えるものではないよね……じゃなくて!
このナイフ……普通のナイフね。どうなるかというと、服は切れちゃうなあ……制服、先週新しく交換したばかりなのに……じゃなくて!
子供たちは?大丈夫……じゃないね。泣き出しちゃった子もいる。
運転席の田中さんはこちらを伺っているけど、隙を見て飛び出すとかそう言うのは難しいところ。
あ、窓越しにミキくんが見える。これなら安心……って、なんか電話してる?!え?こっちの写真撮ってる?何やってんのよ?!
「この中に!西山!」
「西山?」
「そうだ、西山俊和の息子がいるだろう?」
いるねえ。会社の社長をしているお宅だったと思う。社長と言っても会社自体が小さいので大金持ちじゃないけど。
「どこだ?!」
「お断りします」
「何?」
「田中さん!」
「へ?俺?」
「バスのドア、ごめんなさい」
田中にとって謎の台詞の直後、茜は後ろにいる男の腕をミシッと音がするほどに掴み、そのままドアに向けて背中から突っ込んだ。
ボグッと鈍い音をさせながら閉じていた金属のドアがへこんで外れると、そのままゴロゴロと茜と男が転がり出る。
「ゲホッ、ゲホッ……」
茜に無理矢理ドアに叩き付けられ、そのままドアごと外まで押し出される衝撃は普通の人間が平気でいられるものではなく、男はおかしな呼吸をしながら横たわるが、フラつきながら起き上がってきた。
「意外に頑丈?」
「お、お前……何者」
「何者って……ただの保育士だけど?」
「うるせえ!そんな保育士がいるか!」
逆上した男がナイフを突き出してきたのでその腕を掴み、肘に一発。曲がってはいけない方向に曲げたあとは、そのまま腹に一発。数メートル上に吹き飛んでいった。
「ふう」
「ふう、じゃねえよ!」
さすがにこれ以上は看過出来ないと、吹っ飛ばされた男を空中でキャッチした幹隆が苦情を言う。
「ミキくん、来るの遅すぎ」
「お前はやり過ぎだ」
遠くからサイレンの音が聞こえてきたところで、一応は幹隆も職務を果たそうとする。
「手錠、かけ……なくてもいいな、これ」
右腕は逆方向に曲がっているし、体が数メートル持ち上がるほどに腹を殴られたせいで気を失っている。後は所轄に任せよう。
「……とりあえずお帰り、ミキくん」
「ただいま。今晩は説教だな」
「へ?」
帰宅後、いくら子供たちを守るためとは言え、やり過ぎ。もう少し手加減をしろと、自分のことは棚に上げて説教される茜。
幹隆ほどではないが、ダンプカーの突進くらいは片手で止め、戦車砲くらいなら傷一つ負わない、世界最強の保育士である。




