主人公が得しない水着回があってもいい
「ミキくん」
「ん?」
大学が夏休みに入ると、幹隆は市内にある図書館での自習メインに切り替えたのだが、その日の朝食後、茜がやや不機嫌に話しかけてきた。
「一日くらい遊びに行こうよ」
「う……」
幹隆の事情はわかっている。そして必死に勉強してもなかなか成績がついていかないことも。だが、二ヶ月近くある大学の夏休み、一日くらいは遊びたい。そう言って誘い出したのが、
「プール……」
「えへへ、ミキくん、ここに来たことなかったよね?」
「無いな」
市営のプールでありながら流れるプールやウォータースライダーもあるというなかなか楽しめる系のプールだが、八月も終わりの頃になると小中学生が夏休みの宿題ラストスパートになるので人もまばら。存分に楽しもう、と誘ったのである。
「……罪悪感しかない」
「あはは」
男が女子更衣室に入って着替える。
字面だけ見ると犯罪でしかないのだが、絵的には狐耳と尻尾のある美少女が更衣室で着替えるだけであり、何の問題も無い。だが、それでもさすがに真ん中で堂々と出来る神経は持ち合わせていないので、出来るだけ周囲を見ずに隅っこに移動し、こそこそ着替えてすぐに外へ出る。俺は何も見ていない、と心の中で呟きながら。
「んー、やっぱりすごいわね」
「え?」
「こう言っちゃ何だけど、私も結構スタイルいい方だと思うんだ」
「そうだな」
「でも、ミキくんのは完全に反則よ」
「そう言われても」
茜はかなり攻めた感じのセパレートタイプだが、幹隆はワンピースタイプ。恥ずかしいからと言うわけではない。セパレートタイプの場合、尻尾の位置の関係で、ずり落ちてしまうのだ。そこでワンピースタイプを伯母さんに改造してもらった物を着ている。あまり派手な物にせず、徹底的に地味なデザインにしたのだが、かえってスタイルが強調されたような感じになってしまっているのは誤算。
選ぶだけで二人に一日中引きずり回されたのも今となってはいい思い出……思い出したくない。
「さてと……」
早速こちらに男たちが近づいてきているのでさっさと逃げようと、幹隆が流れるプールへ入ると茜も浮き輪に乗りながら流れ始める。
「ちょっと潜ってる」
「うん」
一メートルと少しの深さまで潜るとのんびりゆらゆらと流れに身を任せる。自分で泳がなくても勝手に流れるというのは不思議な感じだ。
「んーっ」
伸びをしながらゆらゆら流れる。確かにずっと勉強漬けだったな。茜の言うようにたまにはこうして息抜きをするのも大事だよな。 ゆらゆら漂いながらゆっくり目を閉じる。
水の中は音がよく聞こえるとよく言われる。実際、水面をパシャパシャと誰かが手足をばたつかせる音や、子供たちの歓声も水の中には聞こえてくる。
薄く目を開け、水面がキラキラと光る様子をぼんやりと眺めながら、ちょっと幻想的な雰囲気を楽しみながらゆらゆら漂う。
「勉強、なかなか進まないんだよな」
元々、幹隆は頭が悪いわけでは無い。ただ単に、法律系の学部に進もうなんて思ったことも無かったために、イマイチ興味が無いことを覚えづらいという、ごく普通の原因は本人も自覚している。だが、それ以上に、法律用語というちょっと独特の単語をきちんと理解しようとしてあちこちアレコレ手を出しすぎていて余分な時間を浪費していることに本人が気づいていない。
「もう少し肩の力を抜けばいいのに」
茜がいつもそう言っているのだが、どうしてもそういう気になれない。
「……もう少し手を抜いてもいいのかな」
少し、「しっかり理解する」から「何となく理解できたら先へ進んでしまう」にシフトしてみようか。もしかしたらその方がいいのかも
そんなことを考えながら流れに身を任せて漂う。幹隆の人間をやめているレベルの身体能力はこうした状況でも遺憾なく発揮される。三十分程度なら潜ったままでいられるのは高校の授業で確認済みである。
なお、その時に茜が「ミキくんのスク水とか、犯罪を誘発しろって言ってるようなものよね!!」と飛びついてきたので、そのまま簀巻きにしてプールに沈めてやった。五分ほどでおかしな動きをし始めたので仕方なく引き上げて柵から吊して夕方まで天日干しにしておいたら、さすがに次からは大人しくなった。一応学習機能はあるらしい。
「それにしても市営プールで流れるプールがあるとは……ん?」
ふと見ると、茜が血相を変えて潜ってきていた。
「ミキくん!上がって!早く上がって!」
ゴボゴボと泡をさせながら、上がれ上がれとうるさいので仕方なくゆっくりと浮上していく。
「ぷはっ」
大きく息をして、ブルブルと頭を振った視線の先には……ずらりと監視員が並んでいた。腕組み&厳しい表情で。
「三十分潜水可能とは聞いていましたけどね、周りのお客様がパニックを起こすんですよ」
「はい、すみません」
「程々にしてくださいね」
「はい」
あらかじめ、長時間潜水可能だから心配しないでと言っておいたのだが、他の利用客にしてみれば沈んだまま浮いてこない時点で水難事故である。それほど客はいないのだが、客がいないならいないで、潜ったままの姿はよく目立つというわけだ。
「お、ここは空いてるな」
普通の二十五メートルプールだが、遊びの要素ゼロのため、三コース使われているだけであとは無人。
「よし、少しだけ……」
「他のお客様が、怪奇現象だとか、特撮ですかとか、対応が大変なので、水の上を走るのはやめてもらえませんか?」
「はい、すみません」
正座してしょんぼり&尻尾と耳がペタンとしているその姿は、叱る方も妙な罪悪感を覚えるのだが、プールというのはいつどんな水の事故があるかわからないのだからと心を鬼にして、監視員は注意を口にする。
「こう、全力で楽しめるところが欲しい」
「難しい悩みね……たくさん稼いでプール付きの豪邸を買うのを人生の目標に」
「それはなんか違うと思う」
そんな話をしながら家路につく。さすがにあのプールにはもう行きづらい。他にもプールはあるから今度は違うところに行こう、そんな話をしながら。
なお、その日の内に全国の公営私営のプールに連絡が行き渡り、数日後にはプールの禁止事項に二項目が追加された。
『十分以上の潜水はおやめください』
『水面を走らないでください』
各施設の責任者は「何を馬鹿な」と思いながらも、同封されてきた監視カメラ映像を見て、すぐに注意事項の看板書き換えを決意したのであった。