8th Dream
クローゼットの奥にひっそりと隠れている“それ”を発見したのは、僕が仕事に復帰して一週間が経った頃のことだった。仕事を終え、アパートに帰宅した夜だった。
そこにある、見覚えのないブルーのハンドバッグ。女性物で、勿論、僕の所有物ではなかった。僕は自分の部屋に女性を招き入れたことなんて一度も無いし、第一、そんな相手なんていなかった。
だが、そこにあるのは紛れもなく女性用のハンドバッグで、手に取りジッパーを広げると、マゼンタ色した派手な折り畳み式の財布が入っており、その中には一万円札が3枚と千円札が4枚、それに、小銭がいくらかあった。
しかし、それよりも僕を驚嘆させたのは、ハンドバッグの奥底に入っている茶色い紙袋だった。正確にいうとその紙袋は茶封筒で、厚さが10cmはあった。
その茶封筒を手にした僕は、恐る恐る中身を覗き見た。
その分厚さから、茶封筒から漏れる独特の“匂い”から、それは感じ取っていたのだと思う。
中には、大量の一万円札の束が、新札の状態で綺麗に入れられていた。
「…………ニ千万円…………!!」
札束は丁度、20あった。何度も数え直すが、何度数えても束は20だった。
こういう時、一番上と下だけが本物で、あと残りはただの紙切れにしている場合がある。万一、強盗が侵入した場合でも、犯罪防止用にそうやって家に置いている人もいると聞いたことがある。
そんなことを思いながら、僕は間の紙も1枚1枚捲って確認した。それらはしかし、どれにも同じ絵柄が描かれており、表も裏も、その匂いも、全てが本物であることは間違いなかった。
札束を持ちながら、僕の手は震えていた。手だけではない、身体全体が動揺して小刻みに揺れていたが、抑えることはできなかった。
「警察に届けるか……? だけど、何て言えば良いんだろう? 『自分の部屋のクローゼットに知らない人のハンドバッグが入っていて、札束が大量にあった』なんて言っても、信じてくれるわけがない……」
テーブルに置いたハンドバッグと財布、それに札束の入った茶封筒を前に、僕は何度も同じひとり言を呟いていた。
『公園にでも捨ててしまうか? いや、いっそのこと使っちまうか……』
邪念に支配されそうになる度、僕は首を激しく横に振った。
結局、財布と茶封筒をハンドバッグへ戻した僕は、元のクローゼット奥へと隠すことにした。いくら考えても結論が出なかったため、気を落ち着かせた後にもう一度どうするか決めようと思ったからだ。
僕は、自分の部屋から逃げるように外へ出ていった。
心の動揺を悟られないよう、いつもより警戒している自分がいた。普段より道行く人々の視線が気になった。皆が僕のことを監視しているんじゃないかと錯覚し、誰とも視線を合わせないよう、出来る限り下を向いて歩いた。何処に行くとも決めておらず、しかし、僕の足は何処かへと導かれるように進んでいった。
夜の街を歩き始めてからニ時間は経っただろうか、僕は見覚えのない場所へとやって来ていた。
「見覚えのない……?」
自らの心に問い掛けるように、僕は呟いた。
『いや……、ある……。俺は、ここへ来たことがある! だけど、いつ来たんだっけ? 何の用でここに来たんだっけ?』
すっかり暗くなった辺りを見回しながら、必死に記憶を辿った。
人が三人程通れる幅の歩道を僕は歩いており、二車線の道路。向かいにはライブハウスがあり、その両隣に居酒屋が並んでいた。道路を挟んだ向こう側は賑やかだが、僕が歩いている側の灯りは街頭ぐらいしかなく、闇に包まれていた。対極した光と闇で、きらびやかなネオンと笑い声が響き渡る人々の流れを、一人取り残された僕は見つめていた。
気が付くと、闇の向こうからこちらへ向かって歩く男女の声が聴こえた。若いカップルが痴話喧嘩をしながら近付いてくるが、思いの外ここは暗く、彼らの姿ははっきりと見えない。何やらお金のことで揉めているらしい彼らが僕の横を通り過ぎたが、二人の顔や服装はシルエットでしかない。彼らはブツブツと文句を垂れながら去っていった。
その瞬間、ある場面が僕の頭の中をフラッシュバックした。
暗闇の向こうからやってくる、老夫婦の姿。老女が手にしているハンドバッグ。それを素早く奪い取り、走り去る僕。
全身から血の気が引いた。
『あれは…………夢? じゃ、なかったのか……?』
その場所にいるのに恐怖を感じた僕は、再び走り出した。
「お前の中には悪人がいるんだよ。どうしようもない、悪人がな……」
漆黒の闇の中、誰かが僕を嘲笑うのが聴こえた。