4th Dream
社会人になってから僕はパン工場で働いている。というのも、学生時代に極力誰とも話さずにいられそうな職場を探し回り、片っ端から面接を受けて採用されたのが今の会社だったわけで、特別な思い入れなんて僕には全くなかった。
思い返せば、こんな無愛想な僕を受け入れてくれる場所があっただけでも奇跡だったのかもしれない、なんてことを最近は考えたりもする。が、それでも生来の性格というのはなかなか簡単に変わるわけもなく、僕自身も変わる気もないため、同じ職場の同僚達からは邪険にされていた。しかし、だからといって僕は人間関係で悩んでいたわけでもなく、寧ろ無駄な飲み会などの誘いも無かったため、こちらとしてもその方が好都合だった。
昔から僕は一人でいるのを好んだ。それが僕という人間だというのを、僕自身よく分かっていた。無理して他人と一緒にいると神経が疲弊し、必要以上にエネルギーを消費してしまう。小さい頃からそれが苦痛で耐えられなかったため、僕が誰かと一緒に遊んだ記憶なんてほんの数回の出来事しかない。
会社を休んで三日が経ったが、誰からも連絡が入ることもなかった。仕事に関しても特に言うことなんて無いだろうし、毎日が同じことの繰り返しに過ぎない。変わることといえば、その日に作るパンの種類が少しだけ代わり、受注量に合わせてその日の忙しさが変わってくる。他にあるとすれば、仕事をしながらパチンコや競馬、プロ野球、そして、女の話題に花が咲く。それだけだ。その間、僕は一人黙々と作業を続ける。同僚達からすれば、それが気に喰わないのだろう。
誰とも信頼関係を築けていないのは分かっている。「どうしてる?大丈夫か?」なんてメールが僕のケータイに入ってくることもない。
三日間、僕は近所の公園へ行き、図書館へ足を運んだ。公園では親子連れが談笑している姿をベンチに座って眺めていた。太陽がやけに眩しく、僕の身体はその熱で溶かされるんじゃないかと思った。逆に、図書館は涼しく、体内にこもった熱気を冷ましてくれたおかげで、急激な睡魔に襲われた。
僕は適当に一冊の本を棚から取り出し、窓際に並んであるデスクの椅子に腰掛けた。先ほど手にした本を開き、文字を追う。
店内に流れるジャズが心地良い。トランペットとピアノが交互にソロを展開していく。
「これ、誰の音楽だっけ?」
僕は二人用のテーブルの向かいに座っている女性に声をかける。彼女は微笑を浮かべて言う。
「マイルスじゃないの」
彼女は「当たり前でしょ」とでもいった顔をしている。
「マイルス?」僕は聞き返す。
「マイルスっていったら、マイルス・デイヴィスじゃないの。ジャズで一番有名な人よ。もしかして、知らないの?」
そう言って彼女は口元を手で押さえながら、またくすりと笑う。
「ああ……知ってるよ、勿論」
本当のことをいうと名前ぐらいしか聞いたことがなかったが、僕は背伸びして知っているフリをする。そんな僕を疑うような目で彼女は顔を覗いてくる。
「じゃ、マイルスの有名な作品を言ってみて」
「有名な作品?」
「そう。知ってるわよね、勿論」
「作品ね…、作品……。…………ごめん、本当は知らない」
困惑した表情を浮かべた僕を見つめる彼女の視線に負け、僕は白状する。「ほらね」と言って彼女は手を軽く挙げる。
「『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』、『イン・ア・サイレント・ウェイ』『ビッチェズ・ブリュー』……」
指を一本ずつ折りながら確認するように彼女はマイルス・デイヴィスの作品名を口にする。
僕の向かいに座っている、テーブル越しに僕を見つめる彼女。だが、その顔はぼやけていて、どんな目をしていて、どんな鼻をして、どんな口をしているのかが分からない。彼女の顔には薄い靄がかかったように不鮮明で、だけど、どこか懐かしい雰囲気を漂わせていた。
「これで“よっつ目”ね……」
突然、彼女が口にした。
……と、彼女の顔が歪んでいく。顔だけではない。身体全体が激しく歪み出し、テーブルも、皿も、カップも歪んでいく。僕の手に目をやると、指が右へ左へとゆらゆら揺れている。自らの意思ではどうにもならず、歪みはどんどん激しくなる。
飛び起きるようにハッと目が覚めると、『蛍の光』が流れていた。
僕は周囲を見渡した。まだ図書館にいるが、閉館前らしく、人が殆どいなくなっていた。
『……そうか、いつの間にか眠っていたんだな……』
テーブル奥の窓の向こう側はすっかり暗くなっていた。あれだけ僕の身体を照らしていた太陽は沈み、今は月明かりが眩しかった。