01 勇者の章
少年は勇者だった。
勇者だった、というよりも勇者である、といったほうが正しい。
「嫌だ」
少年は呟く。口の中でぼそぼそと、まるで悟られたくないかのように。
「アンタ、勇者だろうが」
青年は言葉を紡いだ。息も切れ切れになりながら、泥と火薬と人間のものではない血を嫌というほど浴びた格好で、足を引きずりながら、ただただ訴えた。
土煙の舞う中で立っていたのはこの青年と、少年の二人きり。焦げた臭いと身体にまとわりつくべっとりとした感覚がここで何が起こったかを物語っていた。時間はちょうど昼時であるにもかかわらず、あたりは薄暗い。息を吸い込めば立ちどころに内側から焼かれてしまいそうな熱気に、汗はすぐに蒸発していった。口を開けば立ちどころに水分を奪われていく。
青年の引きずった足が轍のように地面をえぐる。自分よりも頭二個分ほど小さな少年の肩に、両の手を置いた。ギリと握りつぶすかの如く、肩に乗せた手に力を籠める。青年と少年の瞳がひた、と交錯した。青年の赤い髪がはらりと前に垂れ、その視線を切断する。
「――魔王を、倒してくれよ……」
まるで希うように、祈るように、縋るように。
喉の奥から絞り出されたようなその声は、ほとんど音としては機能していなかった。それでも少年は、目の前の大きな青年が何を言っているのか分かっているようであった。どこか物憂げな表情で、赤色の髪をした大きな青年の手を振りほどきながら、
「嫌だ」
もう一度、同じ言葉を放った。
*****
少年の背丈が、ちょうど腰に差した剣を引きずらなくなった頃。彼の住む寮近くの森で、歴史に残るような大火事があった。少年が後から聞いた話によると、あまりの大災害により教科書にすら「忘れられてはいけない記憶」として載っているのだという。基本楽観的な少年は、そんな暗い話題を未来永劫語り継ぐくらいならばもう少し楽しい話題を語り継ぐべきではないのかと、その話を聞いたときにぼんやりと思っていたし、今でもそう思い続けている。
森の近くには人間も、そして魔物と呼ばれる存在も数多く住んでいて、時間帯が夜と朝がない交ぜになった頃合いだったこともあり、殆どの命あるものが眠りについていた。そんなところを、業火が襲ってきたのである。
多くの命が炎の黒煙とともに空へと昇っていった。もちろん、少年の住んでいた寮も無事で済むはずもない。
その日、鍛錬の疲れでぐっすりと眠っていた少年は僚友のけたたましい叫び声というもう二度と聞きたくない目覚ましで起こされた。重たい瞼をこするまでもなく、今まで嗅いだことのない臭いに意識を持っていかれ、頭がくらりと揺れる。
光が寮を包んでいた。ゆらゆらと照らされている室内は煙で充満しており、異常なまでのあつさがこれは火事であると告げてくる。起きたての頭にはあまりにも情報量が多い。いまいち正確な状況が飲み込めないまま、少年は口元に枕を持って行った。いつも使っているシャンプーの香りが一瞬だけ鼻腔をくすぐり、何とか心の平穏を思い出させた。
ちらりと視界だけを動かして窓を見る。少年が眠っている部屋は二階であり、飛び降りることは少年の身体能力をもってすれば容易なことではあった。この熱気だとドアノブは熱くて触れたものではないであろう。ここで蒸し殺されるくらいであれば、窓から飛び降りたほうがマシだと考えた。
窓ガラスは割れている。割れたのなら相当な音がしたはずだが、その中のうのうと眠っていたとは少年自身、自分の眠りの深さに呆れていた。
いつも見慣れた鬱蒼とした木々が、今は橙色の波の中で踊っている。警告を知らせる音を全身に浴びながら、少年は無事だった靴を乱雑に引っかけて、窓から熱風の中を飛び降りた。
身体に浮遊感がまとわりつく。もうすぐ地面だと少年の視覚が認識した。息を呑む。
――と同時に、少年の身体はびくりと跳ね上がり、ベッドの上に不時着した。
嫌な無重力感を一瞬だけ味わわせ、落ちた先がベッド。先ほどまでの浮いていた感覚は何だったのか。
「ゆ、」
夢かよ、と少年は言葉にならない思いを少しだけ吐き出しかけ、慌てて飲み込んだ。
彼がこの夢を見るのは一体何度目だろうか。熱に抱かれる夢を見ては、ナメクジのような汗を流しながら目覚める。普段は忘れている鈍い記憶を無理やりに思い出させられ、脳の中身を引っ掻き回されたような不快感に襲われた。
息を大きく吸って、吐く。
ふと外を見ると、まだ満月が空の高いところで涼しい顔で微笑んでいた。
「……どうした」
寝起き独特の掠れた低い声が聞こえる。少年はさして驚く様子もなく、起きてたんだ、と小さく呟いて、「夜更かしはダメだよ、王子様」
悪戯っぽく笑った。
「その呼び方やめろっつったろ、勇者様」
王子様の発したテノールの心地よい響きが、揺りかごのように『勇者様』と呼ばれた少年の鼓膜を揺する。どことなく濃紺の空を泳ぐ星たちも、その声に合わせて身を震わせているようであった。煌めきながら、勇者様と王子様の眠る部屋の窓を覗き込んでいる。
「アンタに起こされたんだ、俺は」
「それは悪いことを」
少年はけたけたと笑い、身体を這うナメクジが消えていくことに気が付いた。ほう、と唇の端から息をこぼす。
「居心地悪い夢でも見たか」
思い当たる節があるのかないのか、王子様は対して考える様子もなく、独り言のように言った。
窓から入る月と星しか頼れる光がない中で、隣のベッドで王子様がどんな表情をしているのかを考えるのが少年の楽しみであった。基本的にこの王子という男は表情に乏しい男であり、しかめ面か無表情、それにほんの少しの口元の動きしか見せることはない。そんな王子の表情を読むことはいとも簡単で、今は目を閉じて眉間に少しだけ皺を寄せているだろうなと想像する。口元はきっと、一文字。
「久々に見たよ。僕がまだ剣をちゃんと腰にさせるかどうかって頃の夢」
勇者は眉を下げてへらっと笑って見せる。といっても、この表情は王子に見えているわけでもない。にもかかわらず相手を気にして表情を作ってしまうのは勇者の癖のようなものであった。
「そういえば、アンタの昔話は今までちゃんと聞いたことなかったな。興味がある」
向かいのベッドで王子の目が開いた気配を感じ取り、勇者は思わず逃げるようにして布団に潜り込んだ。
「ほら、王子。明日はお祭りだよ、たっぷり寝て備えないと」
全体を包み込む柔らかさと、適度な暖かさに目を瞑る。
「勇者の台詞じゃねえな、そりゃあ」
くっくと笑いを含んだ声が聞こえた。明らかに話題をそらす行為がどことなく年相応の行為に見えて滑稽に映ったのか、それとも勇者の行動が王子の予想通りだったのか、「今度は起こすなよ」
食い下がることもなく王子はすんなりと話を終わらせた。ベッドのスプリング、衣擦れ、自分以外の誰かの寝息、髪が流れる音、星たちの囁き、月の欠伸。少年はそれらに耳を澄ませ、明日の祭りに思いを馳せる。
ほんの少しだけ口角を上げて、先ほど見た夢のことなどすべて忘れて、たくさんの聞き慣れた音の子守唄を聞きながら、ゆっくりと紺碧の闇に呑まれた。
久々にまた書き始めました。週一ペースで書いていければと思いますのでよろしくお願いいたします。
中身書いてから気付いたのですが、タイトル考えてませんでした。不覚。
暑い日が続いておりますので、皆様どうぞ体調にはお気をつけて。それでは、よしなに。