『月下の死闘』
痩せぎすの女が一人、夜に染まった港町を駆け抜けていた。右手で靡くフードを抑えているため、その表情は見えない。身に纏った外套は女と対照的に燦たるさまで、彼女の魔力を帯び、薄く発光していた。
息を切らし逃げる女の後ろには、ただ夜が広がるだけである。しかし、彼女の表情には一片の余裕も見当たらない。彼女は知っていた。この闇の中に《暗闇》が潜んでいることを。先ほどから執拗なまでに彼女を追い続けるその存在が、敵ではあれ、決して味方ではないことを。
これまで女の気配を消す手助けをしていた夜闇は一転、彼女の存在そのものを消し去るがごとくその牙を剥いた。突如闇から現れた魔法陣、その数は百を下らない。一つ一つの魔法陣が周囲のマナをかき集め、圧縮し、与えられた運命を全うするべく、最適な機会を算出する。
それまでひそやかにその存在を主張していた月が、突如闇に飲まれた。戦場一帯が《暗闇》の魔術の支配下に置かれる――
ぞくり、とした。
周囲のマナ減少に伴う副次的な体感温度の低下だけではない。得体のしれない魔法の発現を感じ取った女は跳躍してその場を離脱。即座に近くの建物の影に身を隠した。
馬鹿げた数の魔力弾が女を狙い建物に殺到し、その脅威に晒された建物はあえなく崩壊を始める。すぐさま宙返りを繰り返し距離をとると、先ほどまで彼女がいたところに無数の魔力弾が飛来した。
「――――!」
衝撃波にもろに晒された女は堪らず後退し距離を取る。魔力弾に付加されてた闇魔法が着弾地点を侵食し、腐敗した建築物は、住人もろとも闇属性のマナとなり大気へと還元された。
周囲には、もうもうと土煙が巻き起こり、ただでさえ悪かった視界は悪化の一途を辿る。
女は懐から小太刀を取り出し、煙を割くようにしてそれを一閃。振り抜かれた《霊刃:墨小袖》が、迫り来る魔力の塊を捉えて文字通りそれを喰らう。供物を獲た《霊刃:墨小袖》はその刃を薄く光らせ、女とともに《暗闇》を迎撃。女は続く魔法弾を最小限の動きで回避し、右斜め下から纏めて幾つかを斬りつけた。
そんな女の奮闘をあざ笑うかのように、《暗闇》は新たな魔法陣を構築した。先ほどよりも速度の上がった魔力弾が、不吉に煌めく黒の流星となり、再度女に飛来する。威力と数にものを言わせた《暗闇》の暴力は、女の周囲にある他の建物をも巻き込みながら殺到した。
「――――くッ !!」
勝てない、と思った。今の自分とあの《暗闇》の間には決して埋められないほどの実力差が存在する。それを理解してしまったことで、女の心臓が一層激しく揺れた。
冷静さを欠いたその一瞬が、致命的な隙を生み出した。捌き切れなかった魔力弾のひとつが、《妖精樹の外套》による魔力障壁をも貫き、彼女の左足の肉を抉る。魔力弾はそれだけで勢いを失わず、女の体をやすやすと遥か後方へ吹き飛ばした。
♢
――どれくらい気を失ってただろうか。
幸い《暗闇》は女を見失ったようでまだ追ってきていない。深く息を吸い込むと、港町特有の潮風の臭いに僅かな鉄の臭いが混ざり鼻腔を刺激する。血だ。
被弾した左腿から滲出した赤黒い粘液が、ぽたり、ぽたり、と垂れては地面を斑に染め上げていた。負傷した部位が心臓の鼓動と同期して脈動しているのがわかる。少なくない量の体液が溢れ失われていく感覚に、女は死の予感を感じ取った。
女は小太刀で 《妖精樹の外套》 の裾を切り裂き、傷口をきつく縛り上げると、同時、襲ってくる激烈な痛みに呻き声をあげる。皮膚に浮かんだ玉露のような脂汗は、闇で黒く染められていた。
辺りのマナは依然、《暗闇》に支配されたままである。
陰の刻に発現される闇属性の魔法は、陽の刻と比べ、消費マナ効率、効果範囲、継続時間が桁違いに向上する。女の小太刀が相手の魔術を吸収できるとはいえ、《暗闇》には全くダメージが与えられていない。その攻め手と受け手の差が、女の不利を確たるものとしていた。
一刻も早くマナの支配圏から抜け出さないといけない――
そう考えて立ち上がろうとした女は、途端、体の重心を崩してうつ伏せに倒れた。
「――っ?」
足元を見遣ると、遅れて倒れてくる左足が目に入った。何が起きたのかを脳が認識するよりも早く、
「ぐぁあぁぁあああああああぁぁああああぁ」
神経を焼けるような激痛が走り抜ける。撃たれた部位を中心に、足が腐り落ちているのがわかった。黒く変色した部位は、今もなおじわりじわりとその侵食範囲を広げている。五感を苦痛が塗り替える中で《暗闇》が音もなく接近してくるのが、うっすらとわかった。見えない力に動かされるようにして重い頭を上げる。
同時に持ち上がった視線の先に、女は《暗闇》と目があったような錯覚を覚え、そして、
「――あぅ?」
頭から、喰われた。
喉からこぼれ落ちる、空気が抜けたような声。それが外界に届くことはない。《暗闇》はまるで女を愛しむかのように丁寧に食み続ける。咀嚼され、自分の肉体が相手の糧となる感覚が壮絶な喪失感となり女を襲った。
《暗闇》の口内に収まりきらず食み出た右足が、時折思い出したかのように痙攣し跳ね回る。
意識を失いかけると、その都度肉塊が引きちぎられる感覚が女を揺さぶり起こした。死への渇望が女の思考を支配する。
――死にたい。
殺してくれ。
殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ殺してくれ。
声にならない声が、自らの命の終焉を求めて叫ぶ。《東方の賢人》としてのプライドも、《英知の書》の所持者としての意地も、《アナ・ミネーティア》としての矜持も。そんなものなど、捨て置いて構わない。女がただ望むのは、救済だった。この久遠に続くと思われる呵責からの解放だった。
薄れゆく意識のなか、
「……あ……い、た……」
そんな声が聞こえた気がした。幻聴かもしれない。そもそも、耳が残っているかどうかわからない。それを理解するための脳が残っているかすら疑わしい。それでも脳裏にこびりついて離れないそれは――
――女の頭蓋が砕かれるまで、消え去ることはなかった。
2017/2/2 誤字訂正
2017/2/4 誤字訂正




