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背中に強い衝撃を感じて振り向くと、開け放したトイレのドアから鉄砲水のごとく水流が噴き出しているところだった。
ぼくと湯田は流れにのまれて、階段から落下した。
強く体を打ちつけて、節々が痛い。湯田を振り返ることなく、廊下をひた走った。
襖が開いて、電気コードが飛び出してきた。
ぼくは間一髪、ジャンプしてそれをよける。後ろで湯田が躓く音がした。
「小沼さん!」
湯田の絶叫。
せつな、逡巡した。部下を見捨てて一人逃げるか。それとも、助けに戻るか。
迷ったあげく、引き返した。ぼくは既に伊東という部下を失っている。これ以上犠牲を出すわけにはいかない。
電気コードは湯田の足首に絡みついていて、ほどくには手間がかかりそうだった。
「小沼さん、何なんですか、あいつは」
「知らん」
ぼくは電気コードを思いっきり引っ張った。やがてみちりという音がして、コードは裂けて千切れた。ぼくは学生時代ボート部に所属していて、腕力には自信があった。
湯田の手を引いて、玄関に向かった。
『無駄だよ。逃げることなどできやしない』
どこからか唸りのような声がきこえる。
家が喋っているのだ。
居間にさしかかったところで、一人茶を啜る幸恵と目が合った。
「幸恵さん、逃げましょう、一緒に」
ぼくはそういって駆け寄った。
がしかし、幸恵は見向きもしなかった。ぼくらから目を背け、茶を啜り続けている。
「ちょっと、幸恵さん!」
湯田が揺さぶったが、幸恵は反応しなかった。
「だめだ、放心状態になってる。置いていこう」
ぼくがそう言って、玄関に足を向けた時だった。
台所から湯気をひいてやかんが飛んできた。それはぼくらの足元に落下し、湯の雨を降らせた。
あち、あちち。
そう騒ぐ湯田を尻目に、ぼくはソファの脇に置いてあった孫の手を掴んだ。振り回して、防御の姿勢をとる。
せつな、食器棚から大量の皿が飛び出してぼくらに襲いかかってきた。
回転する皿を孫の手で必死に叩き割る。破片がしゅっと手をかすめて、血が溢れた。
ぼくは皿を叩き落としながら後退し、和室に向かった。玄関は目と鼻の先だが、今飛び出ればさらに激しい猛攻にあうだろう。
ぼくと湯田はひとまず押し入れの中に隠れて、ふうと一息をついた。
「小沼さん、俺、死ぬんでしょうか」
湯田は体中に皿の破片を浴びて血だるまになっていた。その凄惨さにぼくは思わず顔を背けたくなったが、自分も同じようなものだと思うと不思議と気がやわらいだ。
「わからない」ぼくはそう言った。
「そうですか」
湯田はがっくりと頭をたれ、ぼそぼそとか細い声で喋り出した。
「人が家と合体するなんて……ありえないですよ、絶対」
「でも現に見たんじゃないか」
「……そうですね、きっと」
湯田は顔をあげた。眼球が血であかく滲んでいて、痛々しかった。
「あれは、新しい生命の形ってやつなんじゃないでしょうか。やつらは完全に一体化してるんです。どちから宿主でどちらが寄生虫ってわけでもありません。お互いの意思を尊重し、足りない部分を補って生きている」
「人間が進化した存在だとでも言いたいのか」
「そんなんじゃありません。やつらは道を誤った不良品に過ぎないかもしれない。長い生命の歴史の中では、そういった異物は淘汰される運命にあります。本来人間が進むべき進化の道のり、その一ステップなのか、はたまた競争の中で生まれは消えていった突然変異の一種なのか……俺にはわかりません」
「どっちにしても、そこに辿り着いたのがただのニートだったってのは皮肉なものだな」
「そこがわからないんです。怠け者、いわばひどく不出来な個体が、今まで誰ひとりとして為し得なかったような突然変異を遂げた。偶然といってしまっていいものか、判断に困ります」
湯田は服の裾で額に流れる鮮血を拭いた。既に一部は血のりとなって凝固し始めていた。
「わたしが思うに」ぼくは続けた。「彼は自分の内面に深くもぐりすぎたんだと思う」
「内面ですか」
「彼のような、誰からも愛されず必要とされない存在は、自然と自身の向上を拒むようになり、必要以上に他者を責めたてるようになる。言っていただろう。クラスの奴らは皆馬鹿だって。長い時間弱者でいると、人はおのずと攻撃的になる。彼の憎しみのエネルギーは相当なものだっただろう。しかし」
ぼくは口をきった。
「彼はこうも言っていた。自分は物事を一面だけ見て判断していたと。相手をろくに知りもしないくせに、馬鹿だと決めつける。彼は自分が狭い視点で物事を見ていたことには気づいていた、ということにならないかい?」
「何が言いたいんですか」
「つまり彼は他者に対して攻撃的でありながらも、実はそんな自分を冷静に客観視できていた。相反するふたつの感情の上で彼は苦しんだろう。どちらが正しくてどちらが間違っているのか。それを考えているうちに、ほんとうに外界をシャットアウトしてしまった。彼にとっては外のものはひどく不安定だ。正しいものと間違っているものを判断できない。世の中にはそういうものが溢れていて、彼はそれを自分で判断するのに疲れてしまったのだろう。そして内に潜ることを考えついた。自分が人生を共にしてきた家を擬人化して、それに答を求め続けた結果、家の意思が彼を迎え入れた。そういうことじゃないだろうか。あくまで推測だが」
「馬鹿馬鹿しい。家に意思なんてあるわけがないでしょう」
そこで会話がとまった。
ぼくは水の音を聞いた。ちょうど、風呂場があった辺りからものすごい勢いで水が流れてくる音がする。
「水責めか」
ぼくは体を投げ出した。
これで全て終わるのだと思うと、気が楽になるようでおかしかった。
「小沼さん」湯田がいった。
「何だ」
「今日の日報、どうするんでしょうかね」
「ああ、デスクの奴らの慌てふためく顔が目に浮かぶぜ」
ぼくが柄にもない言葉遣いでそういった時、襖が弾けた。
水に打ちつけられて、ぼくは意識を失った




