九話:悪役令嬢のお宅訪問と、主人公の手料理
昼食と買い物を済ませたまつりと綾野は、赤峰の運転する車でまつりの父親である芳樹が住むマンションにやってきた。
車の窓からマンションを見上げる綾野は怪訝な顔だ。
「わたくしの知るマンションとはずいぶん様相が違いますわね……」
「そりゃ、高級マンションじゃないからね」
外に出た赤峰が車のドアを開けてくれたので、まつりと綾野はそれぞれの荷物を持って外に出た。
そのまま二人を見送る赤峰に、まつりは送ってもらった礼を言う。
「赤峰、ありがとう。迎えは明日、いつもの時間にね」
「承知いたしました」
頭を下げた赤峰を残して、まつりは綾野を連れてエレベーターに乗り、芳樹の部屋に向かう。
六階の廊下突き当たりまで来たまつりは、財布から鍵を取り出すと、慣れた手つきで開錠した。
先に扉を開けたまつりは、部屋の中を一目見るなり盛大にため息をついた。
「はあ……。お父さんたら、たった一週間でまたこんなに散らかして」
「まつりさん? どうしましたの?」
位置の関係で中が見えない綾野が、不思議そうな顔でまつりの顔を覗きこんでくる。
「ああ、ごめんなさい。散らかってるけど、上がって頂戴」
一足先に靴を脱いで部屋に入ったまつりは、振り向いて綾野を促す。
「では失礼して……なんですのこの部屋は」
部屋の中に入るなり、綾野は絶句して立ち尽くす。
先週まつりが片付けてからまだ一週間しか経っていないというのに、部屋は再び汚部屋へと逆戻りしていた。
万年床と化している布団の上には、寝巻き代わりに使っているらしい草臥れた衣類が脱ぎ捨てられたままだし、流し台のシンクには先週と同じように大量の食器が漬かったままになっている。
ゴミを出す暇すら無いのかゴミ箱にはゴミが山を作っているうえに、それ以外にも弁当などの容器の空がちゃぶ台の上にいくつも積まれて置かれたままになっている。
買った冷蔵冷凍品を冷蔵庫に仕舞ったまつりは、眉を下げた申し訳なさそうな表情で、綾野に謝った。
「ごめんね。悪いけど、くつろぐ前に掃除しなきゃいけないみたい。手伝ってくれる?」
「それは構いませんけど……。わたくし、掃除なんてしたことありませんわよ?」
困惑する綾野の肩を、まつりが死んだ目で掴んだ。
まつりとて、毎週掃除をするのが好きなわけではないのである。いや、父親の世話を焼くこと事態は嫌いではないが、一応お嬢様のはしくれであるからして、掃除自体を好んでいるわけでもない。
こうも毎回散らかされると、心だって荒む。
「大丈夫よ。必要に迫られれば、嫌でも覚えるわ」
「実感が篭っていますわね……」
滅多に無いまつりの方からのリアクションに、綾野は呆れながらも顔を赤らめた。
綾野は自分からのスキンシップはノリノリでするのに、いざ自分がされると恥ずかしがることが多い。
「この惨状を毎週片付けているのは誰だと思っているの? 慣れざるを得ないわ」
苦笑しながら掃除の算段を取り始めるまつりに対して、綾野の怒りの矛先が妙な方向に向かった。
「仮にもわたくしの家に勝る御香月家の令嬢が、こんな掃除婦のような真似をさせられているなんて……」
「何事も経験よ。っていうか、あなたが言う前世の記憶通りの未来では、そのうちあなたもこういう仕事をする羽目になるんじゃないの?」
「ぼ、没落なんてしませんわよ!」
強気で振舞う綾野だが、その表情は盛大に引き攣っている。
「ですが、確かにいざという時に備えておくのは正しい選択ですわね。特別に、わたくしが手伝って差し上げてもよろしくてよ」
「じゃあ、とりあえず綾野はこのゴミ袋にプラスチックのゴミを纏めてちょうだい。私は燃えるゴミと缶ビンペットボトルを分別しちゃうから」
ひょいとまつりに半透明のゴミ袋を手渡され、綾野はどうすればいいのか分からずその場に固まって立ち尽くした。
「プ、プラスチックのゴミってどれですの? 前世があるとはいっても、そこまで覚えていませんわ」
前世の記憶の有る無しに関わらず、綾野の疑問は普通の人間なら誰でも分かることであり、ゴミの分別以前の問題だった。
「あー、そっか。学院でも家でも私たちは普通掃除なんてしないから分からないよね。じゃあ私が全部分別して纏めるから、綾野はそれをゴミ袋に詰めてくれる?」
「そ、それならわたくしでもできますわ。任せてくださいまし」
「ありがとう。それじゃあパパッと纏めちゃうから、よろしくね」
それからというもの、まつりの行動は早かった。動作自体もきびきびとしていて素早いが、無駄な動きが全く無い。完全に頭の中で段取りが出来上がっていて、合理的に動いている証だ。あっという間に室内のゴミの分別が終わった。
「それぞれの山をゴミ袋に入れてちょうだい。私はその間に洗濯をしちゃうから」
「わ、分かりましたわ!」
ゴミの前に仁王立ちした綾野は、しばしの逡巡の後、えいやっとゴミをゴミ袋に詰め始めた。
掃除をしながら、綾野はいつもの服装で来なくてよかったと心底思う。もし着替えずに着ていたら、お気に入りの服が台無しになっていただろう。
「終わりましたわ! まつりさん、次は何をすれば……」
顔を上げた綾野が見たのは、洗濯どころか洗い物と風呂掃除まで済ませ、二人分のお茶を淹れているまつりの姿であった。
「お疲れ様。とりあえず休憩にしましょう。お茶菓子が無いか見てくるから、ちょっと待ってて」
台所の戸棚を漁るまつりは、何かを見つけたらしくにやりと笑った。
「あ、先週のがまだ残ってる。ちょうどいいからこれにしよう」
まつりが菓子皿に入れて持ってきたのは、醤油の香りが香ばしいお煎餅だった。
「はい、お待ちどうさま。普段の私たちが口にするようなものじゃないけど、良かったらどうぞ」
慣れない労働をして空腹を感じていた綾野は、興味もあって早速煎餅に手を伸ばした。
「美味しいですわ……」
身体を動かしたせいか、綾野は食べ慣れない和菓子を妙に美味に感じた。お茶といったら紅茶ばかりで、あまり緑茶を好まない綾野だが、この時ばかりは緑茶が美味しいとも思った。
■ □ ■
しばらくまったりした後、まつりは座布団から腰を上げた。
「さて、そろそろお夕飯の支度でもしましょうか」
「別にまつりさんがやらなくても、御香月家のシェフに作らせて持ち込めばよろしいのに」
冷蔵庫から野菜や肉を取り出すまつりを見て、綾野が怪訝な顔をする。
「それじゃあ私がつまらないのよ。実は料理が唯一の趣味なのよね」
洗い桶に水を溜めて野菜を洗いながら言うと、綾野は呆れた顔をした。
「そういえば、家庭科の授業中いつも生き生きとしていましたわね……」
特筆するような趣味を持たないまつりにとって、唯一趣味と呼べるものが、毎週末に父親のマンションで行う炊事だった。料理すること自体も好きだが、食べてもらう相手が父親だからさらにいいのだ。母親に引き取られ、御香月家のしきたりなどの堅苦しさへの反発と、成長して両親の離婚の真相を知った反動で、まつりは相当なファザコンになっている。
「でも、納得しましたわ。ゲームでも、藤園キャロラインは料理が得意でしたのよ。やっぱりまつりさんは主人公なのですわね」
「ねえ、綾野。私はあなたがする大抵のことは笑って流してあげるけど、その名前では呼ばないで。嫌いなのよ」
「わ、分かりましたわ……」
底冷えのする視線を向けられ、綾野は冷や汗を浮かべてこくこくと頷いた。
野菜を洗い終わったまつりは放置している肉が自然解凍する間に、野菜の下ごしらえをしていく。
皮を剥いて適当な大きさに切り分けられた野菜を見て、綾野は興味深そうにまつりに視線を向けた。
「今日は何のメニューを予定していますの?」
「メニューなんて大層なものじゃないけど、肉じゃがを作るつもりよ」
答えながらまつりはキッチンテーブルに置かれていた料理本を開き、肉じゃがのページを開く。作り方を知らないであろう綾野への、さりげないまつりの気遣いである。
肉じゃがの名前を聞いた綾野の顔が輝いた。
「知っていますわ! お袋の味というやつでしょう! わたくし、肉じゃがを食べるのは初めてですの! しかもそれがまつりさんの手料理だなんて!」
「前世とやらで食べたことはないの? 私たちみたいな家庭ならともかく、一般家庭なら結構有り触れた料理だと思うんだけど」
綾野は照れ笑いをした。
「もちろんありますわ。ですが、漠然とした感想を覚えているだけで、実際にどんな味だったのか正確には思い出せませんの」
「へえ。結構不便なのね」
「ええ、不便ですわよ。いっそ前世の記憶なんて無ければ良かったのに、と思うこともありましたわ」
さらりと何でもないことのように言っているが、さりげなく重い台詞だった。
「でも、まつりさんが主人公だと分かったことで全てが変わりましたの! 今では持って生まれて良かったと思っていますわ!」
ホホホホと上機嫌そうに笑う綾野を見て、まつりは苦笑する。やっぱり綾野は綾野だ。
雑談をしているうちに肉が半解凍状態になっていたので、まつりは手早く切り分けていく。完全に解凍してしまうと切りにくくなってしまうためだ。
台所の棚からフライパンを取り出すと、まつりはフライパンにコンロの火をつけて熱し、調理を始める。
「す、凄いですわね……」
材料を炒める音に、驚いた綾野が慄いている。
たまねぎがしんなりし、肉に火が通ったことを確認して、まつりはキッチンテーブルの料理本を手で示して綾野に声をかけた。
「ねえ、この本に書いてある比率で酒、醤油、砂糖、みりんを混ぜて合わせ出汁を作ってくれる? 調味料は全部そこの棚に入ってるから」
「任せてくださいまし!」
手持ち無沙汰で居心地悪く感じていたのか、綾野は飛びついてメモ書きを受け取り、棚から調味料を取り出して、はかりと軽量スプーンを使い震える手で出汁を作った。
「出来ましたわ! 次は何をすれば宜しくて!?」
「じゃあ、作った出汁をこのフライパンに全部入れてくれる?」
勢い込む綾野に、まつりはくすりと笑いながら指示をする。
普段は高飛車なお嬢様を地でいく綾野が、自分と一緒とはいえ狭いマンションの一室で料理に没頭している。その光景が面白いことに気付き、思わず笑ってしまったのだ。
綾野はそんなまつりの態度に気付かず真剣な顔で出汁が入った容器をを材料を炒めたフライパンの中に傾けている。
「汁が多過ぎじゃありません? 結構量がありますわよ」
「煮詰めるから大丈夫よ。そのために、出汁も多少薄味にしてあるの」
まつりが微笑んで説明すると、綾野は目を丸くしてまつりの説明に耳を傾けた。
前世でも今生でもろくに料理をしたことのない綾野にしてみれば、料理という行為自体が珍しく、どんな些細なことでも新鮮に感じるのだ。
「あとは一煮立ちさせて、しばらく中火で煮ながら、灰汁取りして煮詰めれば完成よ。煮ているうちに、他のおかずも作っちゃいましょう。そこの冷蔵庫に組み合わせが書いてあるから、綾野の好きなの選んでいいわよ」
冷蔵庫をまつりが指差すと、綾野がすっ飛んでいった。しばらくして、目を輝かせて戻ってくる。
「わたくし、鰆の味噌漬けに、わかめと胡瓜の酢の物がいいですわ!」
「分かったわ。じゃあ、それにしましょう」
器用にフライパンの中の肉じゃがと平行して綾野のリクエスト通りの副菜を作りながら、まつりは台所の壁掛け時計を見る。
「あっ、もうこんな時間。お風呂沸かさなきゃ」
「まつりさんは調理に集中してくださいまし。代わりにわたくしがやっておきますわ」
家では滅多に食べられない庶民の食事に期待を膨らませる綾野は、張りきって雑事を引き受ける。
「あらそう? ならお願いするわ。その給湯器のスイッチを押せばいいから」
「わたくしに任せると宜しいですわよ!」
綾野は自信満々に給湯器の電源を落とした。
表示そのものが消えてしまった給湯器のディスプレイを見て、綾野が固まる。
焦って給湯器とまつりを見比べる綾野を見て、まつりは噴出した。
「惜しい。そっちは電源よ。もう一回電源を入れて、隣のスイッチを押して」
「ふ、不覚ですわ」
恥ずかしいのか、顔を赤くして今度こそ綾野は風呂のスイッチを押す。
玄関の方から、ドアが開く音がした。
「ただいま。おや? まつりのお友達かい?」
父親が帰ってきたのだ。




