三話:悪役令嬢が居ない日と、主人公の父親
週末の土曜日、まつりは一人車上の人となっていた。
運転手はいつも見慣れている、まつりの専属運転手である。つい先日子どもが産まれ、幸せの絶頂期にいるらしい。まつりからもお祝いの品を贈っておいた。
まつりを乗せた車は路地を抜け、大衆向けのスーパーの駐車場に駐車した。
外に出たまつりは、同じように外に出ようとする運転手に声をかけた。
「ああ、赤峰さん。運転席で待っていてもいいのよ?」
「そういうわけにも参りません。お供いたします」
「ならいいわ。申し訳ないけれど、荷物持ち頼むわね」
にっこりと微笑むまつりに、運転手の赤峰は微妙な表情をした。
赤峰はまつりが週末にスーパーに向かう理由を知っている。本来なら咎めなければならない立場だが、赤峰は御香月家のお家事情を多少なりとも知っているために、心情的にはまつりの肩を持っているので言い出しにくい。
「お嬢様。御香月家の令嬢ともあろう方が、このような場所に来るのは、あまり褒められたことではないのですが」
「あら、また小言? 大丈夫よ。今の私は御香月まつりではなく、ただのまつりとして此処にいるから」
御香月家の者がこんなスーパーにいるはずがないし、まつりの友人たちがいるようなところでもない。つまり、同行する運転手の赤峰が告げ口しない限りまつりの秘密の寄り道がばれることはなく、まつりは一個人としてスーパーの客の中に溶け込むことができる。
というのがまつりの持論であったが、もちろん間違いである。
家人にばれないというのは本当だが、まつりはスーパーの店内に違和感なく溶け込むには少々品が良すぎた。育ちが良いせいで立ち居振る舞いが洗練されているし、着ている服も見る者が見れば、相当良い生地と手間と技術を使っていることが分かるだろう。
まあ、店内で多少目立とうが所詮一過性のことに過ぎないのだが。
「あ、今日はお魚が安いのね」
鮮魚コーナーで立ち止まったまつりは、じっくり見比べて美味しそうなものを選んで赤峰が持つ買い物籠に入れていく。自分の仕えている主がすっかり主婦じみていることに、赤峰はため息を禁じえない。
最終的に買い物籠いっぱいに品物を詰め込んで、まつりは会計をした。
スーパーを出た車は、県立高校の前を通り過ぎ、とあるマンションの前で停車する。
「ありがとう、赤峰さん。帰りはいいわ。歩いて帰るから。今晩は泊まるわ」
「そういうわけにも参りません。帰りの際にはご連絡ください。迎えに参ります」
こればかりは頑として引かない赤峰に、まつりの方が先に折れた。
苦笑したまつりは、車から降りて赤峰から荷物を受け取る。
「悪いわね。ならお願いします」
通学鞄とスーパーの袋を手に、まつりは慣れた手つきで番号を入力してロックを解除すると、マンションの中へと入っていった。
■ □ ■
部屋に入ったとたん、まつりは眉を盛大に顰めた。
「もう。一週間前に片付けたばかりなのに、また散らかして……」
そこは、汚部屋とでも言うべき状態になっていた。
部屋の隅にはいくつものゴミ袋が口を縛った状態で放置され、流しには使用済みの食器が水桶に漬かりっ放しになっている。小さなちゃぶ台の上にはコンビニの袋とおにぎりの包装が散乱していて、空のインスタントラーメンの容器が割り箸付きで転がっている。
さらに床に敷きっぱなしの布団の上を見れば、洗ったかも定かではない衣服の数々が散らばっている。
冷蔵庫を開けてみれば、見事に酒とつまみしか入っていない。
「まずは掃除からするべきね」
まつりは比較的綺麗な場所にスーパーの袋と通学鞄を置き、袋の中身から冷蔵冷凍の品を手早く取り出して冷蔵庫に移し、通学鞄からエプロンを取り出して装着した。さらには三角巾を髪に埃がかぶらないように覆うと、部屋の収納から新しいゴミ袋を探し出し、散乱しているゴミを分別し始める。
全てのゴミを分別して集め終えると、まつりは次に洗濯物を集めて脱衣所の洗濯機へと放り込み始めた。まだ洗濯はしない。今日中にはするつもりだが、部屋の主が帰ってきてからでも遅くはないからだ。できれば、今日出る汚れ物も一緒に洗いたいまつりだった。
ゴミと洗濯物を片付けるだけでも、床が見えるようになってかなり見違えてくる。後は床の埃をどうにかすれば、掃除としては十分だろう。
まつりは掃除機を持ち出し、鼻歌交じりにかける。
掃除を終えたまつりは、続いてたまった食器を洗い、夕飯の仕込みに入る。秋刀魚を解凍し塩を振り、ほうれん草を茹でてお浸しにし、里芋の煮っ転がしを作る。米を研いで炊飯器にセットし、味噌汁を作る。
米を炊いている間に、まつりは浴室に向かい、浴槽の掃除を始めた。濡らさないように靴下を脱ぐと、スポンジに洗剤を垂らし浴槽をくまなく磨き始める。まかり間違ってもまつりのようなお嬢様がすることではないが、一連のまつりの動作は嫌に手馴れていた。
浴槽の掃除を終え、居間に戻ってきて時計を確認したまつりは、思ったよりも時間が経っていないことに気付きため息をつく。
「まだ時間があるわね。後片付けしちゃおうかしら」
炊事の最中に出た洗い物を手早く洗っていく。大した量ではないのですぐに終わった。
ついでに風呂も沸かすことにする。とはいっても、栓を閉めてスイッチを押すだけなので簡単なものだ。
お風呂が沸いて一息ついたところで玄関からガチャガチャと音がし、まつりは満面に笑顔を浮かべた。
玄関に駆け出し、部屋の主を出迎える。
「お父さん、お帰りなさい!」
「おや、まつり、来てたのかい」
ドアを開けたのは、離婚したまつりの父親だった。
実年齢以上に深く刻まれた顔の皺と、黒髪に混じった僅かな白髪が、見る者になんとも言えないヨレヨレな印象を与える。
「もうお風呂沸いてるよ。どうする? 先にご飯にする?」
「先に風呂に入るよ。何だか悪いね。何から何までしてもらっちゃって。部屋も綺麗になってるみたいだし」
甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる娘に破顔しながらも、父親は済まなさそうな顔をしている。そんな父親に、まつりはにっこりと笑った。
「いいのよ。私が好きでやってることだから。まあでも、お父さんったらまだ片付け苦手なのね。そういうところは昔とちっとも変わってないんだから。じゃあ私は、お夕飯の準備しておくね」
父親が風呂に入っている間に、まつりは最後の仕上げに入る。
秋刀魚を焼き、味噌汁を温め直し、それらを含め、出来上がっていた料理をそれぞれの皿に盛り付ける。
ちょうど良いタイミングで父親が風呂から出てきた。
風呂上りでラフな服装に着替えた父親は、居間に漂う香ばしい匂いに目を細める。
「良い匂いがする。今日は魚かい?」
「ええ。秋刀魚が安かったから買ってみたの。お父さんの好きな塩焼きよ」
尋ねると、台所からまつりの返事だけが返ってくる。まつり本人はまだ仕上げの最中のようだ。
「おお、そりゃ楽しみだ」
父親がちゃぶ台の前に腰を下ろすのに合わせて、まつりが台所から料理を運んでくる。
料理の配膳を終えると、まつりは父親と向かい合うように腰を下ろした。
「いただきます」
「いただきます」
二人の声が唱和し、和やかな雰囲気の夕飯が始まった。
「うん、美味い、美味い。まつりはまた腕を上げたね」
娘の手料理に舌鼓を打ちながらも、父親は内心ちょっと驚いていた。
手料理を作ること自体は、現在の娘の身分はともかく、父親自身の感覚でいえば有り難い気持ちこそあれど驚くようなことではない。だが、このレパートリーの渋さは一体何なのか。昔母親が作ってくれたのと、大して献立が変わらない。それどころか、味すら似通っているような気がする。
疑問の答えはすぐに出た。
「お婆ちゃまに電話して、お袋の味を教えてもらったの。上手く再現できてると思うんだけど、どうかな?」
上目遣いに見上げてくるまつりから目を逸らした父親は、内心で天を仰いだ。
(やっぱり母さんの入れ知恵か!)
離婚した母親に引き取られてからも父親の元に足繁く通う娘は、父方の祖父母にも頻繁に連絡を取っていたらしい。父親の両親は息子の自分が気付かないうちにすっかり孫に絆されていたようだ。
「……貴美子はどうしてる?」
難しい話題であることを承知で尋ねた父親に、まつりはさらりとなんでもないことのように答える。
「いつも通りよ」
「お母さんのことについて、何も説明せずに逃げた僕を、恨んでいるかい?」
そう尋ねて自嘲交じりの笑みを浮かべる父親は、実年齢よりもかなり老けて見えた。
「あの時一番辛かったのは、間違いなくお父さんじゃない。恨むはずがないわ」
正直に、まつりは本心を口にする。
当時のまつりはまだ幼く、何も知らずに両親に懐いていた。昔の話だ。
「この話は止めましょ。せっかくのご飯が美味しくなくなっちゃう」
「……そうだね」
時間が限られている折角の親子水入らずの時間を、つまらない話題で浪費したくはない。
暗にそう告げているまつりの態度に、父親も倣った。
こうして娘が自らの意思で会いに来てくれるだけでも、自分は恵まれている。父親はそのことを十分に理解していた。
「ごちそうさま」
「お粗末さま」
くちくなった腹を押さえて食後の余韻に浸っている父親は、まつりが食器を纏めて台所に持っていくのを見て、慌てて立ち上がる。
「後片付けくらい僕がやるよ。まつりは休んでいるといい」
「いいのよ。お父さんは一週間働いて疲れてるんだから、そこに座ってテレビでも見てて。今、食後のお茶を入れるから」
食器を流し台につけたまつりは、手早く父親の分の緑茶を淹れると、ちゃぶ台の上に置く。
「はい、どうぞ」
台所に戻って洗い物を始めるまつりに、父親は複雑な眼差しを送った。
本当に出来た娘なのだが、出来た娘過ぎて仮にも父親である自分の立つ瀬がない。
食後のお茶を飲み終えてしばらくまったりしていた父親が、ビールでも飲むかと立ち上がろうとすると、すっと音もなく冷えたジョッキが差し出された。目を向ければ、ちょうど缶ビールのプルタブを開けている娘と目が合う。
「お父さん。晩酌はいかが?」
にっこりと微笑んだまつりは、ジョッキになみなみとビールを注いだ。本当に出来た娘だ。
「ありがとう。いただくよ」
一度台所に戻ったまつりは、小皿をちゃぶ台の上に置いた。
「つまみは枝豆でいいかな? もっと手の込んだものが欲しいなら、何か作るけど」
「いや、十分だよ」
気が利く娘に、父親は感無量の気持ちでビールを呷った。




