二十九話:悪役令嬢の恋と、主人公の恋
まつりは鳴り続けているスマホに手を伸ばした状態で固まっている。
何度も手を伸ばしかけるのだが、何度も逡巡して、その度に触れる直前で手を引っ込めることを繰り返している。
先に焦れた綾野がまつりに尋ねた。
「……取りませんの?」
困りきった表情で、まつりは綾野を振り返る。
「電話に出て、彼に対して何を言えばいいのかしら」
らしくない態度のまつりに、綾野は呆れた顔をした。普段は迷わず何事もすぱっと決めてしまうのに、まつりは恋愛ごとに関しては奥手になってしまうようだ。
「別に構えなくとも、普段通りにしていればいいでしょう。まつりさんにとって、特別な相手というわけではないでしょうに」
今回ばかりは、相談するまつりとアドバイスする綾野とで関係が逆転してしまっている。普段は頼ってばかりだから、頼られるのもそれはそれで悪くないと思ってしまう綾野だった。
「そうだけど、私にとってはそうでも、向こうは私に告白したんだから、彼にとって私は特別な相手ということでしょう。やっぱり何を言えばいいか分からないわ」
うじうじと悩み続けるまつりに対して、綾野のイライラがだんだんと積もってくる。もとより綾野は短気なのだ。
「そんなに悩むのなら、電話に出て『やっぱりあなたとは付き合えません』って言ってワン切りすればよろしいのですわ」
「なるほど。……って」
一瞬納得しかけたまつりは、そうする自分の姿を想像して綾野にジト目を向ける。
「その対応はひどいのではないかしら」
逆に綾野は聞き返した。
「なら、まつりさんは彼と正式にお付き合いなさるの?」
しばし黙考した後、まつりは目を見開いて厳かに告げる。
「ないわね」
「でしょう」
綾野は鳴り続けるスマホを指で示す。
「なら、いい加減これをどうにかしてくれませんこと? いい加減煩くてかないませんわ」
「うん。そうする」
今度こそスマホを手に取ったまつりは、通話ボタンを押してスマホを耳に当てる。
『もしもし? 今電話してても大丈夫か?』
「大丈夫よ。えっとね、実h」
言おうとしたまつりの台詞は、勢い込んだ高志の台詞によって遮られた。
高志の声は弾んでいる。どうやら舞い上がっているようだ。
『良かった。来週の休みなんだけど、空いてるか?』
「特に予定はないけど。それy」
表情は伝わらないのを知りつつも、まつりは癖で学校でいつも浮かべる愛想笑いをしながら、話を切り出そうとして、またしても被せられた。
『じゃあ一緒に何処かに遊びに行こうぜ!』
「それはいいけど、まz」
懸命に食い下がるまつりの取っ掛かりを、そうとは知らない高志が次々と外していく。
『なら何処に行く? 遊園地でいいか?』
「え? うん。でm」
これでは埒が明かないことを悟り若干強い口調になったまつりだが、時既に遅く。
浮かれているのが丸分かりの高志が、一人で話を締め括った。
もしかすると、高志は高志で意中の、しかも告白して了承された形になっている女の子の家に初めて電話をかけるという行為に、緊張していて返事を聞く余裕がないのかもしれない。
そうとしか思えない強引さだった。
『じゃあ来週な! 詳しい時間はまた明日決めような!』
全く口を挟ませてもらえず、高志の押しの強さに絶句するまつりを他所に、無慈悲に通話は切れた。
一部始終を見守っていた綾野が、にっこりと笑ってまつりに尋ねる。
「……で、何か言うことは?」
「こんなはずじゃなかったのに」
全く思い通りにいかなかったことに、まつりは思わず頭を抱える。
「断るつもりが、次の予定を立ててしまうなんて、まつりさんはお茶目ですわね。ですが泥沼ですわよ」
綾野の言葉がまつりの胸にぐさりと突き刺さった。そんなことはまつりにだって分かっている。だが、他人から指摘されると余計に凹む。
「でも、今更断れないわよ」
「承諾してしまいましたものね。どうなさるおつもり?」
しばらく考えた後、まつりは綾野の疑問に答える。
「とりあえず、デートはする。それから先は後で考えるわ」
人は、それを出たとこ勝負という。
「結果が目に見えるようですわね……」
綾野が目を覆った。
玄関からドアが開く音が聞こえてきた。
「あ、お父さん帰ってきた」
これ幸いとまつりが立ち上がって居間と廊下を繋ぐ扉を開けると、スーツ姿の芳樹が玄関で靴を脱いでいるところだった。
綾野が芳樹に向けて礼をする。
「お邪魔していますわ」
「おや、いらっしゃい。いつもまつりと仲良くしてくれてありがとう」
にこやかに挨拶した芳樹に、僅かに頬を染めて綾野は答えた。
「親友なのですから、当然ですわ」
居間に上がった芳樹は、スーツから部屋着に着替えると、改まった表情でまつりに向き直る。
「大事な話がある」
何かを察して席を立とうとした綾野を、芳樹が手で制した。
遠慮がちに綾野が再び席に着いたのを見て芳樹は口を開く。
「御香月家当主である君の祖父に話を通したら、正式に事態解決のため動いてくださった。貴美子が企てた婚約も白紙に戻ったよ。貴美子も反省して帰宅の許可を出している。もういつでも帰れるよ」
「でも、私は良くても、綾野の婚約がまだ……」
一瞬喜色を顔に浮かべるも、すぐにそれを隠したまつりはちらりと綾野に目をやった。
澄ました顔で綾野が告げる。
「まつりさんが心配する必要はありませんわ。わたくしも、あれから、機会を設けて晃一郎様と一度会って話をしましたの。あの人、何を言ってもお母様の決めたことだからの一点張りで。とんでもないマザコンでしたのよ。正直幻滅いたしました。わたくしの目が曇っていましたわ。やっぱりゲームと現実は違いますわね」
さばさばとした綾野の口調に、まつりの目が点になる。
「へ? 綾野ったら、いつの間にそんなことしてたの?」
低かった綾野の声のトーンが上がった。
うきうきとした表情でちゃぶ台に手を突くと、ぐいと身を乗り出し、満面の笑顔でまつりに顔を近付ける。
やはり綾野は人の話を聞かない。
「それに、わたくしは今、新たな恋に夢中ですの! 失いかけて初めて気付きましたのよ! 過去の男にかかずらっている暇なんてありませんわ!」
ぎょっとした顔でまつりが綾野を凝視する。
「ちょ、初耳よ、それ! 相手は誰なの!?」
「ほほほ、まつりさんには教えませんわ~」
口元に手を当て、綾野は笑った。
「一件落着、なのかな?」
かしましい少女たちのテンションについていけない芳樹が、一人呟いて苦笑した。
次の日の朝、まつりは熱を出した。
■ □ ■
布団に横になったままのまつりの脇に差した体温計が音を立てたのを聞いて、綾野は体温計を引き抜いて液晶に表示された温度を見た。
「三十八度。見事に熱ですわね。運がいいのか悪いのか」
「さ、三十八度……が、学校に欠席の連絡しないと」
思わず絶句したまつりは、震える手で自分のスマートフォンを探るが、見つからない。
まつりのスマートフォンはすでに綾野によって確保され、まつりの周辺から遠ざけられていた。
「電話ならわたくしがしますわ。病人は大人しく休んでいてくださいまし」
「で、でも、今日の分の家事もやらないと……寝てるわけには」
申し出を断り、身体を起こそうとするまつりを、綾野は押し止める。
「ですから、病人がすることではありませんわよ、それは。まつりさんが今するべきことは、このまま寝て安静にしているか、病院に行って診てもらうかのどちらかですわよ」
さすがに身体が辛いのか、綾野を撥ね退けてまで起きようとはしないまつりだったが、代わりに綾野からそっぽを向いて丸くなる。
「病院は、いや。注射きらい」
普段のまつりなら言わないような発言を聞いて、綾野は一瞬きょとんとした後、耐え切れず苦笑する。
「……子どものようなことを。全く、まつりさんは仕方ないですわね」
その様子を玄関からはらはらしながら見守っていた芳樹が綾野に尋ねる。
「本当に、大丈夫なのかい?」
振り返った綾野は、芳樹に向けて頭を下げる。
「ええ、お任せください。今日一日、わたくしが責任を持って看病させていただきますわ」
よく見たら制服ではなく私服に着替えている綾野に気付き、布団の中のまつりが目を見開いた。
「え、綾野、学校は……」
綾野はきっぱりと返答する。
「そんなの休むに決まっているではありませんの。まつりさんの具合が悪いというのに、一人だけ登校するなんて友達甲斐のない真似はできませんわよ」
「友達甲斐がないも何も、それが普通なんだけど……」
普段ならキレのあるまつりの突っ込みも、体調不良では迫力がない。
あまつさえ逆に説得されかける始末である。
「それに、あの程度の授業を一日受けなかったぐらいで大した問題はありませんわ」
「う。それは、否定できないかも」
「親として、そこは否定して欲しいんだけどなぁ……」
見ていると懐柔されそうになっている様子のまつりに、芳樹は苦笑して助け舟を出した。
「えっと、神宮路さん、娘を心配してくれるのは嬉しいけど、そこまでしなくてもいいんだよ? 娘も体調が悪くたって、何もできないような歳じゃないんだし」
芳樹としては一般的なことを言ったつもりだったのだが、それを聞いた途端綾野は何故かぷりぷりと怒り出した。
「まあ! なんてことを仰るの!」
早足で玄関に行くと、綾野は芳樹に食って掛かり、持論を述べる。
「具合が悪い時は、どんな人間だって人恋しくなるものですわ。そんな時、誰かがいるととても安心するのです。さすがにまつりさんのお父様は簡単にお仕事をお休みになるわけにはいかないでしょうから、学生である分融通が利くわたくしが休むのですわ」
「でも、そこまでしてもらうわけには」
それでも芳樹は粘った。
温厚な性格で、普段から押しの弱い芳樹だが、それでも一般常識として、芳樹は頑張った。
「ともかく、わたくしが好きでしているのですから、まつりさんのお父様は何も心配せずに出社すればよろしくてよ!」
業を煮やした綾野に部屋から叩き出される結末に終わったが。
家主を家主と思わない、綾野らしい傍若無人さである。
二人きりになると、綾野はまつりに振り向いて蕩けるような甘い声でにっこりと笑った。
「さて、まつりさん。何かして欲しいことはありますか? 何か果物でも剥きましょうか?」
確かに、冷蔵庫には林檎を始めとするいくつかの果物がストックされている。
まつりは特に綾野が勝手に冷蔵庫を開けるのを禁止しているわけではないので、綾野がそれを知っていてもおかしくはない。
だが、それ以前の問題があった。
「……ちなみに包丁を握ったことは?」
言うまでもなく、綾野は生粋のお嬢様だ。前世とかいう余分なものもついているが、平日と休日で二つの生活を行き来していたまつりに比べれば、綾野の方がお嬢様といえるだろう。
そして、綾野の性格と暮らしぶりからいって、普段から家事をしているとは考えにくい。そもそもそれらは使用人の仕事だ。彼らの仕事を取ってしまうことになる。
「ありませんが、前世ではちょっとだけならありますし、多分なんとかなりますわ」
「お願いだから絶対止めて」
さすがに不安があったのか、綾野は即答したまつりに食い下がるようなことはしなかった。
「仕方ありませんわね。では氷嚢でも用意しましょうか」
まつりの看病をしながら、綾野は楽しそうな笑顔をまつりに向ける。
「覚えていますか? 昔、こうやってまつりさんがわたくしの看病をしてくださったことがありましたわよね」
「中学生の頃でしょう。よく覚えているわね」
思わず驚嘆するまつりの額には、綾野が手ずから用意した氷嚢が置かれている。ひんやりとした冷たさが、まつりの体調をかなり楽なものにしていた。
「覚えていますわ。お父様もお母様もお仕事でお忙しくて、使用人たちに甘えることもできなくて、とっても寂しかった時でしたもの」
「学校帰りに寄っただけなのに。大げさね」
ぶっきらぼうなまつりの言葉に、綾野はくすりと笑う。
「とても嬉しかったですわ。でも、まつりさんは使用人に差し入れを渡して私と少し話すだけですぐに帰ってしまわれて」
「仕方ないでしょう。病人の傍に長くいて、無駄に負担をかけるわけにはいかないでしょ」
「分かっていますわ。ですが、その時わたくしが、まつりさんにもっといて欲しいと思っていたのは事実ですの。ですから、わたくしが今実践しているんですのよ。……寂しくは、ないでしょう?」
恐る恐る尋ねる綾野の問いかけを、まつりは否定できなかった。
体調が悪くて寝込んでいると、それだけ心細くなる。
「うん。そうね。具合が悪い時に誰かが傍にいてくれるだけで、こんなにも嬉しくなるものなのね。知らなかったわ」
熱があるからだけではない理由で、顔を赤くしたまつりが答えると、花開くように、ふんわりと綾野が笑った。




