二十八話:悪役令嬢の原作知識と、主人公の恋愛事情
父親である芳樹の部屋の前で、まつりは綾野と別れた。
綾野は左隣の部屋を借りている。右隣の部屋は高志たち新井一家が住んでいるので、回りは知り合いばかりだ。
「あ、そういえば、告白してきた相手がすぐ隣の部屋に住んでるのね……。やりにくいな」
気まずくなっても顔を合わせる機会は多いだろう。ちょっと憂鬱になるまつりだった。
「まつりさん、お邪魔しますわよ」
もう着替えてきたらしい綾野が一回チャイムを鳴らしてに部屋の中に入ってくる。
「自分で開けて入ってくるなら、チャイムを鳴らす意味ないんじゃない?」
「一応の礼儀ですわ」
綾野はすました顔でさらっと言ってのけた。返事を待つ気が微塵もないあたり、本気で一応である。
目を爛々と輝かせ、綾野がまつりに詰め寄った。
「それよりも! どうするんですの!」
お嬢様らしからぬ綾野の剣幕に、まつりは思わず後退った。
「どうするって、何がよ」
「何がじゃありませんわ! 告白ですわよ告白!」
「……う」
あまり考えたくなかった選択を突きつけられ、まつりは渋い顔をする。
露骨に目を逸らすまつりを見て、綾野は不機嫌そうな顔で腕を組む。
「まさか、受ける気はありませんわよね? 身分違いの恋ですわよ。障害が多過ぎますわ」
綾野の口ぶりに、まつりは思わず苦笑を漏らした。
大昔ではないのだから、身分に拘る必要はないと思ったのだ。それが一般的に呼称される普通であることを、まつりは知っている。
「身分違いって、さすがに時代錯誤じゃないの?」
お茶の準備をしながらのまつりの指摘に、綾野は厳しい表情のまま首を横に振った。
「そんなことはありませんわ。法の下に平等をうたっていても、実際は貧富の差によって、暗黙の了解で身分の差というものが存在していますのよ。住む世界が違うと言い換えてもよろしくてよ。常識が違いますし、生活環境だって違いますわ。何より、新井家と親戚関係になる利点が、御香月家には何一つありませんもの。まつりさんが本当に全てを投げ打ってでも添い遂げたい覚悟がない限り、お許しは出ないと思いますわよ」
思わずまつりは押し黙る。
高志の告白を受け入れたとしても、それが回りに認められるかどうかは別問題だ。まつりの母親である貴美子はまず認めないだろうし、祖父も心中はどうあれ、御香月家当主としておいそれと簡単に許可を出すことはできないだろう。それくらいのことは、まつりにだって分かる。
御香月家との関係が再びこじれかねないことを考えると、高志の告白を受け入れることは難しい。
「それは、そうだけど」
それでも高志が嫌いではないまつりは、煮え切らない返答をした。
迷っている様子のまつりに、綾野は小さくため息をついた
「第一、もしまつりさんが彼と添い遂げる覚悟を決めたとしても、告白した彼もそうであるとは限りませんわ」
ちゃぶ台に自分と綾野の分の湯のみを置いたまつりは、戸棚からお茶請けとして和菓子の袋を取り出そうとして、思わずその手を止めた。
「ちょっと待って。告白したのにその気が無いってどういうことなのよ」
思い出したように和菓子の袋を取ろうと動き出すまつりを見て、綾野はくすりと笑みを浮かべる。
「はあ。薄々思ってましたけど、まつりさんもそういうところは世間知らずですわよね。いいですこと? 下々では、付き合ったからといって、それが即婚約や結婚に繋がるわけではないのです。まつりさんの常識がそうであるからといって、彼が結婚を前提として告白したとは限りませんのよ」
したり顔の綾野に、まつりは憮然とした顔をする。
「……嫌に詳しいわね。世間知らずのお嬢様なのは綾野も一緒でしょうに」
まつりが菓子置きにファミリーパックの和菓子の子袋を盛ってちゃぶ台に置くと、綾野はさっそく和菓子の子袋を一つ取り、袋を破って中身を口に入れる。
背筋をピンと伸ばして上品に和菓子を咀嚼し、飲み込んだ綾野は、まつりが淹れた茶を飲み、まつりの発言に答えた。
「わたくしは前世で色恋沙汰くらい経験していますもの。それに、前世ではどちらかというとお嬢様ではなく、一般市民でしたから。こと恋愛ごとについては、まつりさんよりもわたくしの方が彼の視点に近いと思いますわ」
これにはまつりは黙らざるを得なかった。
一般的な価値観を週末に父親の下で過ごすことだけで学んだまつりと違い、綾野には前世という大きなアドバンテージがある。
そこまで考えたまつりは、過去に綾野がした反応を思い出して、ん? と思わず首を傾げた。
「って、あれ? その割にはあなた、確かハンバーガーショップとかに行ったとき、たまに利用する程度でしかない私より、慣れてない感じじゃなかった?」
疑わしそうな目でまつりが綾野を見ると、綾野は皮肉っぽく肩を竦めた。
「前世の記憶にはあっても、実際に訪れるのは初めてでしたもの。それにわたくしの主観で何年前の記憶だと思っていますのよ。印象的なもの以外はとっくに風化していますわ」
もっともな理由だが、それにしては覚えている知識が偏っている気がするまつりだった。
「その印象的な記憶が、綾野のいう原作知識っていうのが、少し納得いかないんだけど」
半眼になるまつりに、綾野は思い出したように身を乗り出す。
「ああ、そう、そういえば、これも言っておかなければいけませんわね」
思わず背筋を逸らしたまつりに、綾野は真剣な表情で言った。
「まつりさん。貴女、いつの間にか新井高志さんの攻略ルートに入っていますわよ」
「……は?」
どうやらまつりを取り巻く恋愛事情は、そう簡単にはいかないらしい。
■ □ ■
姿勢を正した綾野は、改まった態度でまつりに相対する。
「ゲームについて詳しく話すのは久しぶりですわね」
しみじみとした口調で語る綾野に、まつりも頷く。
「そういえばそうね。前にも少し聞いたことはあったけど、こうして腰を据えて本格的に聞くのは初めてね」
「正式な攻略ルートは攻略キャラ一人につき十通り用意されていますわ。そして彼の告白は、彼を対象とする各ルートでは共通イベントですの」
「ちょっと待ちなさい」
おもむろに話し始めた綾野にまつりは即座に突っ込んだ。
話を止められた綾野が頬を膨らませて不満げな顔をする。
「もう、何ですの? 話の腰を折らないでくださる?」
「いやだって、多すぎない? ゲームのことはよく知らないけど、限度っていうものがあるでしょう」
まつりとて詳しいわけではないが、それでも一本の製品を作るのに、莫大な労力と費用が掛かるであろうことは想像がつく。
「普通のゲームならその通りですけど、このゲームにおいては、これが普通ですわよ」
「これが普通なの……? 本当に?」
父親の部屋でしかゲームをやらないまつりは、もちろん乙女ゲームなどしたことはない。よって乙女ゲームの普通など知らず、綾野の言葉の真偽が判断できない。
「そもそも、攻略対象の中には女性も含まれていますから。そして主人公であるまつりさん、あなたは相手が女だろうが男だろうが構わず食べてしまう魔性の女ですわ」
綾野はさらっとまつりにとって聞き捨てならないことを言った。
「私にその気はないわよ!?」
自分がバイだと言われたに等しいまつりは、慌てて綾野に否定する。綾野との友情をことさら大切にしているまつりだが、さすがにそれを恋愛感情と間違えはしない。
「その点についてはご安心ください。多くのパターンにおいて、恋慕の情を抱くのは攻略対象が先ですから」
「全然安心できないわ!」
血の気が引いた顔でまつりが叫んだ。
綾野の言葉を信じるなら、知らぬ間に、自分は同性に恋愛感情を持たれていた可能性がある、ということになる。
まだ可能性の話でしかないのが救いだが、怖いものは怖い。
「動物もいますわよ」
「相手が人間ですらなくなった!」
そのゲームの主人公であるまつりは、恋愛についてだいぶ節操がないようだ。狂気の沙汰である。血か。血のせいなのか。
「プレイヤーに無限の選択肢を、というのがゲームの趣旨でしたから。NL、GL、BL、ALなんでもござれですわ」
「またよく分からない単語が出てきたわね……」
聞き覚えのない単語を羅列され、まつりの額に皺が寄る。
「それぞれノーマルラブ、ガールズラブ、ボーイズラブ、アニマルラブの略語ですわよ」
「心底知識を得たことを後悔したのは、生まれて初めてよ……」
基本的に勉強などで自分の知識を増やすのが喜びだったまつりは、初めての経験に心の底から項垂れた。
「まあ。それは貴重な経験ですわね」
「嬉しくない!」
否定しながら、まつりは心の中で己に暗示をかける。
所詮はゲームの話。現実ではない、フィクションだ。実は全て綾野の作り話だったという可能性すらある。
無理やり思い込もうとしたまつりに、綾野がジト目を向ける。
「まつりさん、現実から目を逸らしてはなりませんわよ」
どこか疲れが見える目をまつりは綾野に向けた。
「だって、そうでも思わないとやってられないわよ、普通は」
意外なことに、綾野はそれを否定せず、肯定する。
「当然ですわね。わたくしだって、前世の記憶が妄想でない本物だと確信するのには、だいぶ時間がかかりましたもの」
「なら……!」
言い募ろうとしたまつりは、続いた綾野の台詞に二の句が告げなくなった。
「一つや二つの一致ならともかく、ここまで一致する理由については、偶然で片付けるには出来すぎていますわ。わたくしの名前はどのルートでも出てくる悪役令嬢のキャラと一致しますし、まつりさんが実は主人公の名前になる可能性があったことはすでに調べが着いています」
思わずまつりは両手で顔を覆う。
「ああ、だから私のあの名前を知っていたのね。恥ずかしいから隠していたのに」
「可愛らしい名前じゃありませんの。キャロラインちゃん」
「その名前で呼ぶのはお願いだから止めて。お母様に言われるがまま、全てを無邪気に受け入れていた昔のことを思い出して鳥肌が立ったわ」
本気で嫌そうな顔をして二の腕を摩るまつりに、綾野は生暖かい目を向ける。
「黒歴史ですのね……」
「同情するなら掘り返さないでくださる?」
綾野をにらむまつりの目はやさぐれている。
その時、まつりのスマホが着信音を奏でた。
女の子らしくない侘びさびの利いた尺八の音色がスマホから流れ、妙な沈黙が訪れる。
「その、ずいぶんと個性的な設定をしていますのね?」
「いいじゃない。好きなのよ、和楽器」
真意を悟らせない曖昧な笑顔を浮かべる綾野に、まつりは憮然とした顔で答え、スマホを手に取った。
画面には登録したばかりの『新井高志』という文字が表示されている。
「あら、件の彼からですわ」
綾野の目がきらきらと輝いた。
見るからに、野次馬する気満々である。
「簡便して……」
タイミングの悪さに、がっくりとまつりは項垂れたのだった。