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二十五話:悪役令嬢の弁当と、主人公の夕食

 綾野と部屋の前で別れ、まつりは芳樹の部屋に入った。

 まつりが毎日整理整頓に勤しんでいるので、普段に比べると部屋の中はずいぶん片付いている。寝巻きや洗濯待ちの服が散乱しているようなこともないし、シンクに使用済みの食器が大量にたまっていることもない。


「ただいま帰りました」


 この時間に家主である芳樹が帰っているはずもないことをまつりは知らないわけではなかったが、つい癖でそう口にしてしまう。

 静寂が返事となって、まつりは自然と口に苦笑を浮かべた。


「駄目ね。いい加減慣れないと」


 これが休日ならば何の問題もなく過ごせるだろうが、平日に芳樹の部屋で過ごすというのは、妙な違和感をまつりに感じさせた。歯車が噛み合っていないとでもいうのか、普段出来ていた意識の切り替えが上手くいかない。

 必要ないというのに、まつりは御香月家にいる時のような張り詰めた緊張感を身に纏っている。高浦高校で新しい級友に見せていたような柔らかな表情はなりを顰め、怜悧とも呼べる冷たく凍りついた表情を浮かべている。

 母親である貴美子の前で隙を見せることをまつりは嫌っていたから、いつからか自然と御香月家で過ごす平日はそんな雰囲気を纏うようになってしまったのだ。母親ににしてこの子あり、などと陰口を叩かれないように、まつりは御香月家では御香月家に相応しい令嬢らしく振舞う必要があった。

 それはすなわち、貴美子に失望していた御香月家の使用人たちの心を掴むためには、彼らの主である祖父のように、または学生の頃の貴美子のように、相応の品と威厳を備えなければならなかったことに他ならない。まつりの子どもらしい無邪気な時期は、風のごとく瞬く間に過ぎ去ってしまっている。

 今ではそれらが無意識のレベルで染み付いており、急激な生活の変化にまだついていけていないのだ。

 学校では高志たちや綾野のおかげで明るく振舞えたが、一人になるとこうして地が出てしまう。本来なら地ではなかったはずだが、今のまつりにとってはこちらの方が簡単に振舞えてしまう。慣れというのは怖いものである。

 制服から私服に着替えたまつりは、部屋の窓から夕焼けに染まる空を見上げる。


「とりあえず、洗濯物から取り込もうかな」


 洗濯籠を持って玄関を出たまつりは、左隣の部屋から綾野とばったり出くわした。


「あら、まつりさん。何処に行きますの?」


「どこって、そこの物干し場まで、洗濯物を取り込みに」


 用件を聞いた綾野は、まつりが下働きの人間がするような仕事をしていることに眉を顰めた。


「まあ、そんなことはわたくしのボディーガードを使ってくれてよろしいのに。まつりさんなら、直接命じられてもよろしくてよ」


「そういうわけにもいかないでしょう。あなたが良くても、神宮路とは関係のない私が神宮路家の使用人を勝手に使うわけにはいかないわ」


 今にもボディーガードを連れてこようと腰を浮かしかけた綾野を、まつりは止める。

 親しき仲にも礼儀あり。

 いくら綾野に心を許していても、まつりはそういう線引きはきっちりとする性格だった。


「大丈夫です! わたくしのお友達なんですから、まつりさんなら問題ありませんわ!」


「いいえ、問題よ」


 自信満々に言い放つ綾野に、まつりは冷静に思い直すよう言い聞かせた。

 まつりの心情は複雑だ。友人としてそこまで思ってくれるのは嬉しいのだが、お互いの家のことを考えると好意に甘えて綾野にぶら下がるわけにもいかない。第一、まつりは友人だからこそ、綾野にこんなことで借りを作る気はない。綾野ほどではないが、一応これでも御香月家の令嬢だったから、相応にプライドは高いのだ。


「こんなこと、まつりさんがするようなことではありませんわ」


 不満そうにぶつぶつ呟いて座り直す綾野を他所に、まつりは干された洗濯物を手際よく取り込んでいく。皺にならない程度にざっと折りたたまれた洗濯物が洗い籠の中に増えていく。本格的にたたむのは部屋に戻ってからだ。

 休日にいつもやっているからか、まつりの動作は迷いがない。


「何だか、手馴れていますわね……」


 ちゃぶ台の前で肘をつき、手のひらで顎を支えた姿勢で呆れる綾野に、まつりは何でもないことのように言った。


「毎週末はここで過ごしているもの。もう慣れたわ」


 もとよりまつりと芳樹の二人分しか干していないので、洗濯物の量などたかが知れている。

 洗濯籠を抱えたまつりは、不満そうにしていた綾野がいつのまにかもじもじしているのを見てきょとんとした。


「……どうしたの?」


「あの、良かったら、夕飯をご一緒してもよろしいかしら? もちろんわたくしの分は自分で用意しますから」


 むしろそれは当たり前である。あの無駄に大量に買った弁当を今日消費しないでいつ消費するというのか。


「別にいいけど。……もしかして、初めての一人暮らしで心細いの?」


 思い当たったまつりは思い切って尋ねてみた。一人暮らしではないが、まつりにとっても覚えがあるので他人事とは思えない。

 恥ずかしいのか、綾野は頬を染めて俯き、目を逸らした。本人は答えないが、態度がまつりの質問を肯定している。


「いいわよ。じゃあ、上がって。ボディーガードの人には、あなたから連絡を入れておいてね」


「すぐに済ませますわ!」


 承諾されたのがよほど嬉しかったのか、綾野は隣の部屋だというのにわざわざスマートフォンを取り出して電話をかけ始めた。短い会話の後、綾野はスマートフォンを懐にしまう。

 それを見たまつりが目を丸くする。


「あら。綾野は持ってたのね」


「むしろわたくしはまつりさんが持っていないことの方が驚きでしたわよ」


「だって杉並に通っている間はそもそも使用禁止だったじゃない」


 まつりは唇を尖らせた。

 杉並学院ではスマートフォン自体が持ち込み禁止だったし、どうしても電話をかけたければ学院の固定電話を無料で使えた。もしもの時に役立つGPSなどの機能も、GPS付きの防犯ブザーなどで代用できる。

 だから、まつりは持ち歩く必要性を感じなかったのだが、綾野は違ったようで、どうしてまつりが持とうとしないのか不思議な様子だった。


「それは学院にいる間だけでしょう。持っていかなければいいだけの話ですわ」


「……それもそうね」


 まつりは大真面目に校則を守っていた昔の自分に対して苦笑すると、綾野を伴って、再び芳樹の部屋に戻った。冷たい御香月家の令嬢は、もうそこにいなかった。



■ □ ■



 芳樹の部屋に唯一存在するちゃぶ台の上には、綾野が買い込んだ弁当が山となって積まれている。

 十食分以上あるその量に呆れながら、まつりは横に座る綾野に目を向けた。


「で、どうするのよ、これ。さすがに多過ぎるでしょう」


 これらの弁当は綾野が自分のボディーガードに待機場所となっている二軒隣の部屋から持ってこさせたものだ。


「食べられる分だけ食べればいいのですわ」


「残りはどうするのよ」


「別にどうもしませんわ。まつりさんが欲しいなら差し上げますし、必要ないならわたくしのボディーガードに下げ渡しますわ。要ります?」


 もともと一度こうと決めたら綾野はひたすら突っ走る娘である。考えを改める気は微塵もないようだ。

 まつりは綾野の非常識っぷりに、炊事をするのが馬鹿らしくなってしまった。父親である芳樹には申し訳ないが、たまには手抜きする日があっても罰は当たるまい。メニューを考えるのだって楽じゃないんだからと、まつりは心の中で言い訳をする。


「……綾野が弁当なのに私とお父さんの分だけ作るのもなんだし、今日は弁当でいいか。綾野、代金は払うから、二つ分けてくれる?」


「もちろん構いませんわよ。代金も別に必要ありませんわ。好きなものを選んでくださいまし」


「そう? ありがとう」


 ここでごねてもかえって綾野の機嫌を損ねるだけなのを知っているまつりは、素直に綾野の好意を受け入れた。

 綾野の許可を得て、まつりは改めて弁当を吟味する。

 片っ端から買い込んだだけあって、本当に種類が多い。よく見るといくつか同じ弁当もダブっている。


「お父さんには、お肉中心のがいいかな」


 ダブっている弁当から、まつりはいくつか選び出す。候補を三つに絞り込んだ。しょうが焼き弁当、カツ重、おろしメンチカツ弁当の三つだ。


「……どれにしよう」


 ある程度市井の生活に慣れているとはいっても、さすがにまつりは弁当の良し悪しにまで詳しくはない。


「綾野、何がいいと思う?」


「分かりかねますわね。老舗の専門店でとんかつとメンチカツをいただいたことはありますけど、さすがにそれと同じとはわたくしも思いませんし」


 たくさん買った割には、綾野は特に弁当には執着が無いようで、興味なさげな顔をしている。

 ただ買い占めたかっただけなのかもしれない。


「しょうが焼きは?」


「食べたことすらないですわね。家で食卓に上がるのは、フレンチなどの洋食が中心ですから」


「こっちとは逆ね。私は料亭みたいに上品な和食ばっかり食べさせられてたわ。まあ、不味くはなかったからいいけど」


 御香月家の厨房を預かる板前が、自分が作る和食に絶対の自信とこだわりを持っている人物で、洋食を毛嫌いする頑固爺だったのだ。偏屈でも御香月家に雇われるだけあって、彼が作る和食は見た目が繊細でとても美味だったのをまつりは覚えている。帰ることができない今は、当分食べられそうにない。


「帰ってきてから本人に選んでもらえばよろしいのではなくて?」


「……それもそうね」


 悩むまつりを見かねて、綾野が口を挟んできた。最もな意見に、まつりは反論せずに頷く。


「まつりさんは何になさいますの? わたくしはまずはこれに決めましたわ」


 手に取った弁当を、綾野がまつりに見せびらかす。


「特上幕の内弁当……他より値段が高くて豪華だからそれにしたでしょ」


「当然ですわ。ですが、これでも安過ぎるのが少し不安ですわね」


「まあ、所詮はスーパーの弁当だしね。一つ千円もしないものがほとんどだし」


 ちなみに杉並学院の生徒たち一般の感覚では、一つ千円の弁当は安値である。彼ら彼女らが食べる機会のある弁当は、きちんとした料亭の仕出し弁当が多く、一食最低でも三千円、最高値では一万円の大台を超えることも少なくない。料金が高いのは弁当の値段の他に仕出し料金も加算されるためだが、それが杉並学院では逆にステータスとなる。杉並学院で弁当といえば、スーパーや弁当屋で買うような弁当ではなく、仕出し弁当を指すほどだ。

 結構長い間考えこんでいたらしく、まつりがふと顔を上げるともう夜になっていた。


「いけない。お父さんが帰ってくる前にお風呂の用意しておかなきゃ。綾野はそのまま寛いでて」


「そうさせていただきますわ」


 居間に綾野を残し、まつりは風呂掃除を済ませる。

 お湯張りをして戻ってくると、綾野は弁当をちゃぶ台に積んだままテレビを見ていた。


「何見てるの?」


 横から覗き込んだまつりは、綾野がアニメを見ているのを見て目を丸くする。


「へえ、意外。綾野ってこういうのが好きなんだ」


 引かれたと思ったのか、綾野が振り返って慌ててまつりに言い訳する。


「別に好きじゃないですわよ! 前世からの習慣で、つい時間があると見てしまうだけですわ!」


「それって世間一般では好きっていうんじゃないかな」


 いまさらこんなことで驚くようなまつりではないが、慌てる綾野は可愛い。可愛いは正義なので敢えて教えてやろうとは思わないまつりだった。


「別に、今のわたくしにとって面白いかと聞かれれば首を傾げるんですけれど……。前世のわたくしはこれを好んで見ていましたから、続きが気になるのですわ」


 本人にとっては恥ずかしい趣味という自覚があるのか、綾野の声は小さい。


「そういえば、前世の綾野ってどんな人だったの? 今の綾野とちょっと想像つかない。比べれば全然違う人間なのは何となく分かるんだけど」


 今更頭ごなしに否定するつもりはないが、そう簡単に信じられることでもない。ちょうどいい機会なので、まつりは本人に尋ねてみることにする。


「えっ、そ、それは、別に聞いても楽しくありませんわよ?」


 目を泳がせる綾野にまつりはにっこりと笑って告げた。


「大丈夫。楽しいかどうかは聞いてから私が判断するから」


 面白がるまつりとは対照的に、綾野はよほど話したくないことなのか、嫌がっている。

 何かトラウマがあるなどの理由で本気で拒否するなら止そうかとも思ったが、綾野はただ前世を詳しく語るのが恥ずかしいだけのようで、顔を赤くしてもごもご口を動かし、声にならない言葉を紡いでいる。まつりは続行することにした。

 その時、玄関のドアが開け閉めされる音がした。


「残念。話はまたの機会のようね」


 芳樹が帰宅したようだ。

 玄関を振り返り、まつりは残念そうにため息をつく。

 話が流れたことで、綾野は露骨にほっとした顔をした。

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