二十四話:悪役令嬢の引越しと、主人公の混乱
スーパーで綾野が何を買うのか少し興味があったまつりが一番に目にしたのは、やはり綾野の暴挙だった。
ボディーガードたち全員にカートを持ってこさせた時点で嫌な予感はしていた。
「それじゃああなたたち、ここに並んでるお弁当、端から順に買い占めてちょうだい」
「まてまてまてまて!」
まつりに制止された綾野は、振り返って小首を傾げる。
「何故止めるんですの?」
「いかにも不思議そうな顔をするんじゃない! 止めるわよ当たり前でしょうが! 何日分の弁当を買い込むつもりなのよ!」
綾野は不思議そうな顔で目を瞬かせた。綾野には、まつりが何故自分を止めようとしているのか分からないらしい。
「おかしなことを仰るのね。今日と明日の分に決まっているではありませんか。それ以上は今買っても腐ってしまうだけでしょう?」
「分かっているなら買い占めようとするな! どう考えても食べきれないでしょ!」
自分の親友が抱いている懸念にようやく思い至った綾野は、手を口に当ててくすくすと笑った。
「別に全部なんて食べませんわよ」
「は?」
「一口ずつ食べて、後は捨てますわ」
「どこの王侯貴族よあなたは!」
突っ込みすぎてぜーぜーと肩で息をするまつりを、綾野呆れたように見た。
「もうまつりさんたら。そんなに息を荒げるなんて、淑女らしくなくてよ」
「誰のせいよ誰の!」
しばらくまつりを困った顔で眺めていた綾野だが、やがて諦めたようにため息をつき、まつりに生暖かい眼差しを向けた。
ため息をつきたいのは、どう考えてもまつりの方である。
「仕方ありませんわね」
「良かった、分かってくれたのね……」
ホッとしたまつりの顔が、次の綾野の台詞で引き攣る。
「わたくしが一口食べたら、全部まつりさんに差し上げますわ。まつりさんなら無駄にはしないでしょう?」
「全然分かってなかった! しかも無駄に篤い信頼が痛い!」
まつりが頭を抱える横で、ボディーガードたちが命令された通りにてきぱきと弁当の買占めを行っていく。
その結果、まだ夕方にもなっていないというのに、弁当のコーナーはまるで閉店間近のように閑散としてしまった。
「ごめんなさい、私には止められませんでした……」
おそらくこれから弁当を求めてやってくるであろう客の驚愕と落胆を想像して、まつりは懺悔した。
隙間だらけになった陳列棚を見て落ち込むまつりの耳に、意気揚々とした綾野の声が入ってくる。
「さあ、次はデザートですわよ!」
「まだ買う気なの!?」
仰天したまつりは、慌ててボディーガードをつれて歩き出した綾野を追いかける。
追いついた時にはすでに、綾野はボディーガードたちに新たな命令を与えていた。
「それじゃあここのデザートも、全部買い占めてちょうだい」
「待ちなさい、さすがにそれはたとえ一口ずつでも、カロリー的な意味で危険よ!」
体型の変化を伴うことを思い出せば、いくら綾野でも思い留まってくれるだろうと期待したまつりの制止は、無駄に前向きで用意周到な綾野には通じなかった。
綾野は自信たっぷりに、ふんぞり返って言い放つ。
「その分運動すればよろしいのですわ! わたくし、こう見えてジムに通っていますのよ!」
「ダメだわこの子、言ってることもやってることも無茶苦茶なのに、説得できない!」
歯噛みするまつりに対し、綾野は上機嫌で懐から扇子を取り出し、ぱっと広げた。
黒塗りの本漆の親骨から薄紫の奥義面にかけて、悠然と佇む巨大な一本桜と舞い散る桜吹雪が彩られ、さらには金箔と銀箔で飾り付けられた高級扇子だ。
明らかにスーパーで広げるような代物ではないが、既に綾野の存在自体が場違いなので今さらである。
「ほほほほ、このわたくしを説得しようだなんて、まつりさん、ケーキよりも甘すぎでしてよ!」
「お願いだからこんなしょうもないことで威張らないで!」
まつりの訴えにも耳を貸さない綾野は、パチリと扇子を畳んで懐に仕舞い込み、すかすかになったデザートの棚を後にして、また次の獲物を探す。
「さ、さすがにもう綾野が買い占めたくなるようなものは無いはず……綾野がトイレットペーパーとかを欲しがるとは思えないし」
後を追いながら、半ば己に言い聞かせるように、まつりは呟く。
だがまつりは失念していた。綾野は引っ越してきたばかりで、色々物品が足りていないのだということを。そして、綾野は普段高価な買い物ばかりしているので、スーパーの商品は皆、捨て値のお買い得品にしか見えないのだということを。
「トイレットペーパーとボックスティッシュ……。石鹸と洗剤も必要ですわね。シャンプーとリンスも買わないと。いざという時のために買いだめしておいて損は無いですし、一年分くらい買い込んでおこうかしら」
「災害に備えるにしても、多すぎるわよ!」
綾野はスーパーの在庫をことごとく買い尽くすつもりなのだろうかとまつりが思うくらい、綾野の買い物は個数の桁が違った。
ボディーガードたちのカート一つ一つに限界まで詰まれた商品の山を見て、会計をする店員の顔が引き攣っていたが、意に介さず綾野は買い物を終えた。
買った品物は、ボディーガードたちが手分けして運ぶのだ。
まつりと綾野は、芳樹のマンションに辿りつこうとしていた。
■ □ ■
マンションの中にまで綾野はついてきた。
「お見送りですわよ? 近頃は物騒ですしね。まつりさんが変質者に襲われたら大変ですわ」
まつりが何か言う前に、綾野が理由を伝えてくる。
まだ夕方なのにそうそう変質者には出くわさないと思ったが、何事にも例外はある。せっかくなので、まつりは綾野の好意に甘えることにした。
エレベーターにまつりとともに乗り込んだ綾野は、振り返って己のボディーガードたちに告げた。
「同乗するのは一人だけでよろしくてよ。それ以上はエレベーターが手狭になってしまいますわ。階段で上ってきてくださいまし」
サングラス越しで分かりづらいが、綾野が購入した大荷物を持っているボディーガードたちが青ざめた。
さらっと何でもないことのように命じているが、その実綾野は彼らにとてつもない労働を強いていた。
ボディーガードたちを気の毒そうに見たまつりが綾野に目をやった。
「鬼ねあなた……。お父さんの部屋、八階なんだけど」
このマンションは八階建てで、まつりの父親である芳樹の部屋は最上階にある。
つまり、八階まで階段を上って来いと、綾野は言っているのだ。
「では、次のエレベーターを待てば良いですわ」
綾野にとっては嫌がらせでも何でもなく素で命じたことだったので、まつりの指摘を受けて素直に前の命令を取り下げた。
一部のボディーガードたちが露骨にホッとした顔をした。
「私が部屋までお供いたします」
エレベーターに乗り込んだボディーガードは、いつぞやの女性のボディーガードだった。まるでプロレスラーのような体格をしているが、女性であるせいか声は丸みを帯びており柔らかい。
八階に移動するエレベーターの中で、まつりはボディーガードが両手に持つ買い物袋を見た。
物がぱんぱんに詰まった袋はまるでバーゲンで大量に買い込んだ主婦のようになっているが、これが二つだというのに、さすがというか、ボディーガードの女性は重そうな様子も見せずに軽がると持っている。
「それにしても、ずいぶんと買い込んだわね……」
まつりは呆れる思いだった。今日だけでいったいいくら使ったのだろうと、そんな無駄な心配をしてしまう。
本来ならまつりも綾野と似たり寄ったりの金銭感覚に育っていただろうが、まつりは母親を反面教師に、そして独り身ながら堅実に家計をやりくりする父親をお手本にしているので、比較的庶民に近い金銭感覚を身に着けている。散在するだけの余裕が今のまつりに無い、という事情もあるが。
「思っていたよりもずっと安かったので、つい買いすぎてしまいましたわ。安過ぎて、使い心地が少し心配ですけど。……やっぱり、家から持ち込んだ方がいいのかしら」
なんとも言えず、まつりは苦笑を浮かべたまま黙り込む。
普段と同じ質を求めるなら、もちろん高価なものを使った方がいいことに変わりは無いが、このマンションは高級マンションではないので、神宮路家から持ち込んだ物品はさぞかし浮くに違いない。
「まあ、一応は携帯用のものを少し持ってきていますし、合わなければ変えればよろしいですわね」
その場合、大量に買い込んだ品々のほとんどは無用の長物と化すのだが、綾野はそれを分かっているのだろうか。
(うん。気に留めてないわね、きっと)
神宮路家の娘である綾野にとっては、この程度の金額ははした金なのだ。綾野自身の小遣いで十分賄える額である。
まつりは綾野の小遣いの額を正確に知っているわけではなかったが、御香月家で自身が貰っていた額を考えると、自ずと想像はつく。
ちなみに、御香月家で暮らしていた頃のまつりは、基本的にお小遣いで諭吉以外の札を貰ったことがない。それも一枚ではなく、複数枚が基本である。
一般家庭とは桁が違うが、高級志向の人間が多い杉並学院では、消費する額も必然的に多くなる。利用する分には無料とはいえ、実際には寄付金という形で毎日指定した口座から纏めて引き落としになるため、実家に財力が無いと話にならないのである。
また、寄付金の額が大きいということは、そのまま実家の財力が大きいということにも繋がり、学院内での権力も増すことを意味する。実際、派閥を率いていたまつりと綾野の実家である御香月家と神宮路家は、寄付金としては五本の指に入る額を納めているのだ。まつりの与り知らぬことだが、貴美子の意向でまつりが高浦高校に転入してからも、いつでも戻ってこられるように寄付金は払い続けられている。色々問題のある女性だが、あれでも母親だ。娘は可愛い。
神宮路家は綾野が他校に転入したのが一時的なものなので、そもそも中断する理由が無い。金持ちにとって、浪費は権力を誇示する一種のステータスなのである。
エレベーターが八階に着き、まつりと綾野はエレベーターを降りた。荷物を持ったボディーガードの女性が綾野に続く。
部屋の前に着いたまつりは、鞄から鍵を取り出し、部屋の扉の鍵を開ける。
綾野に向き直り、まつりは礼を述べる。
「見送りありがとう。助かったわ」
綾野は手をひらひらと振りながら、おもむろに鍵を取り出して左隣の扉の鍵を開けた。高志が住む新井家は芳樹の部屋の右隣なので、ちょうど反対側になる。確か、まつりの記憶では左は二部屋ほど空き部屋が続いていたはずだが……。
「いいんですのよ。どうせ隣ですもの」
「……はい?」
唖然とするまつりの前で、女性のボディーガードがさらにその左隣の部屋の鍵を開けて、中に入っていく。
「お嬢様。荷物はいったんこちらに置いておきますね」
「ありがとう。今日の夜番は何方かしら?」
尋ねた綾野に、きびきびと動きながら女性のボディーガードが答える。
「このまま私が担当します。明日は高木が担当する予定です」
「そう。分かったわ。申し訳ないけれど、しばらくよろしく頼みますわ。何か差し入れでもしましょうか?」
「いえ、これが仕事ですので、お気遣い無く」
まつりの目の前で、当たり前のように綾野と女性のボディーガードの会話が流れていく。
ここまで来て、まつりにもようやく事態が飲み込めてきた。
どうやら綾野はわざとまつりの隣に部屋を借りたようだ。
「……もう。そうならそうと早く言いなさいよ」
「あら。何の捻りもなしに明かしたらつまらないでしょう?」
苦笑するまつりに、綾野はいたずらっぽく笑ってみせた。




