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十八話:悪役令嬢の不在と、主人公の決断

 起きると、芳樹はすでに出勤した後だった。


「……我ながら寝坊しすぎでしょ、さすがに」


 時計の針が十時を指しているのを確認したまつりは、掠れた声で呟く。

 昨日の一晩で色々なことがあり、まつりの環境は様変わりしてしまったから、まつりが気付いていなかっただけで心身ともに負担がかかっていて、いつもより深い眠りを欲したのかもしれない。

 芳樹が使っていた布団は綺麗に畳まれてすでに仕舞われており、代わりにいつものちゃぶ台が居間の真ん中に鎮座している。

 ふらふらと居間を横切り洗面所に入ったまつりは、洗顔を済ませてまだ残っている眠気を吹き飛ばす。


「よし。ちょっと遅いけど朝ごはんにしよう」


 軽く頬を叩いて気合を入れると、台所に移動して食パンを焼き、野菜炒めとスクランブルエッグを作り、ウインナーを炙り、胡瓜とトマトをスライスして皿に盛る。

 皿をちゃぶ台に置こうとしたまつりは、置かれているメモに気がついた。

 メモには見慣れた芳樹の筆跡で、仕事帰りに貴美子と今後について話し合うから遅くなる、夕食は外で済ますから自分の分は用意しなくていいという内容が綴られていた。


「やっぱり、捨てられたのよね、私」


 衝動的とはいえ、自分から飛び出してきたせいか、まつりには自ら御香月家を捨てたという感覚の方が強く、あまり実感が湧かない。でも、昨夜芳樹が連絡を入れたにも関わらず、すぐさま連れ戻しに人を寄越さないということは、そういうことなのだと納得している自分も、まつりの中には存在している。


「いただきます」


 一人でもそもそと朝食を済ませたまつりは、父親が流しに置きっぱなしにしている食器も含めて朝の洗い物を済ませると、今日の予定を立て始める。


「掃除は……週末やったばかりだわ」


 今日は月曜日。最後に掃除機をかけたのは土曜日である。まだ二日しか経っていなかった。


「でも暇だし、一応やっとこうかしら」


 納戸から掃除機を引っ張り出し、ざっと掃除を済ます。たいしてゴミもないのであっという間に終わってしまった。


「……どうしよう。手持ち無沙汰過ぎる」


 御香月家ではまつりのスケジュールは習い事などで分刻みで予定が立てられていたし、週末は私生活がダメダメな芳樹が散らかした部屋の掃除と芳樹の世話であっという間に時間が過ぎるので、することが無いというのは、まつりにとってあまり経験したことのないことだった。

 何かをして時間を潰そうにも、無為に時間を浪費するのもまつりはもったいないと思ってしまうので、まつりにとっての時間の潰し方は習い事や家事、買い物などといったことに限定される。

 テレビゲームで遊ぶという手もあるが、他人と一緒に遊ぶのが楽しいのであって、まつりは一人きりの時にやろうとは思えなかった。


「買い物は……午後でもいいか。この時間じゃ朝市は終わってるし、特売はまだだし」


 奇しくも午後の予定は立ったが、それまでの過ごし方がいまいち決まらない。


「うん。やっぱり勉強しよう」


 普段なら今頃は、杉並学院で授業を受けているはずである。

 出来上がっている生活リズムをこれ以上崩すのは良くないと考えたまつりは荷物を漁って参考書を取り出した。重さの関係上各教科一冊ずつしか持って来れなかったが、まつりは学生の本分は勉強であることを忘れておらず、きちんと自習する手段を用意していた。

 しばらく集中して問題を解いていたまつりは、ふと顔を上げて時計を見た。時計は一時を指している。


「あ、もうこんな時間か」


 冷蔵庫には週末にまつりが買った食材の残りが少しと、後はビールとつまみしか無い。


「お昼はうどんにしようかな。確か一玉残ってたはずだし」


 呟きながら冷蔵庫から材料を取り出し、手早く肉うどんを作り、食す。


「ご馳走様でした」


 大した量でもないが、洗いものを済ませると、まつりは出かける支度を始めた。買い物である。

 食品だけでなく、欲しいものは生活雑貨を含めて色々ある。一応最低限は持ってきてあるが、さすがに予備は無いからだ。それに、まつりはもっと参考書が欲しかったし、可能な範囲で習い事の自主練習もしたいので、その準備も必要だった。

 何軒もお店を回り、買い物を済ませる。全て買い終わる頃には夕方になっていた。


「ちょっと買い過ぎたかな……」


 両手に持つ買い物袋が重くて、まつりは何回かに日にちを分けるべきだったかと後悔した。それでも買ってしまった以上は自力で運ばなくてはならない。

 奮起したまつりの目に、道路を走る車の列が目に入った。

 何台もの車がまつりと次々すれ違っていく。

 一瞬その中に見慣れた高級車が見えた気がして、まつりは思わず振り返るが、姿は見えない。


「何やってんだろ、私」


 さすがに少し落ち込んで、まつりはため息をついた。いくら高級車が走っていようと、それがまつりと関係あるとは限らないのに、まつりは反射的に警戒してしまったのである。今学院の知り合いに会うのはさすがに気まずい。一見して、今のまつりの状況は都落ち、没落という言葉が非常によく似合う。

 自分で選んだとはいえ、なんだか情けなくなるまつりだった。



■ □ ■



 その日の夜、いつもより四時間ほど遅くに芳樹は帰ってきた。


「お帰りなさい」


「ただいま。先に寝てても良かったのに」


 ネクタイを緩めながら居間に入ってくる芳樹は、十一時近いのにまだ起きていたまつりを見て、困ったように頭をかく。


「そうしようかとも思ったんだけど、眠れなくて」


「なら仕方ないね。寝てたら明日にしようと思ってたんだけど、どうせなら今結果を聞くかい?」


 スーツのジャケットをハンガーにかけ、芳樹はまつりに尋ねた。

 気になっているだろうし、本人も早く知りたいだろうと予測したのだ。


「いいの?」


「ああ。まつりだって自分のことなんだし、気になるだろう」


 芳樹は貴美子と会ったことをまつりに伝えた。

 結果は芳しくなかったが。


「やっぱり、御香月家には戻れないのね」


「済まない。貴美子じゃ埒が明かないから、直接本家の当主様に直談判してみるよ。まつりにとってはお祖父さんだね」


 意外な人物が話題に出て、まつりは思わず芳樹を見た。


「お爺様に?」


「ああ。貴美子と離婚した時も、わざわざ本家から出向いて下さった。凄い剣幕で貴美子を叱り付けていたけど、あれは怖かったな」


「……お爺様には悪いことをしてしまったわ。期待してくださっていたのに」


 落ち込んでいるまつりの問いに対して、芳樹は肩を竦めてみせる。


「まつりのお爺様は貴美子の決定を認めないと思うよ。今の貴美子は問題があるからね。自分の娘とはいえ、そういう線引きはきっちりする人だから」


 話を聞いたまつりは、御香月家でいつも強大に見えていた貴美子の影が、急激に小さくなっていくのを感じた。


「……私、お母様に反抗して家に残ってた方が良かった?」


「その場合は貴美子が怒り狂うだろうけどね。まあ、まつりはまだ子どもだから選択を間違えても仕方ないさ」


 宥めるように頭に手を載せられ、まつりはくすぐったそうに身を捩らせた。


「お爺様は、私を助けてくださるのかしら」


 母親である貴美子との思い出はよくも悪くもたくさんあるが、祖父と顔を会わせた記憶は、まつりにはほとんど無かった。辛うじて、年末年始や盆の時に一族の集まりで見たことがあるくらいだ。もちろん、実際に会話をしたこともない。見合い写真はよく送られてきたが。


「きっと助けてくださるよ。目に入れても痛くないほど可愛がっていた娘の子どもだからね。可愛がった結果があれだから、まつりに対する干渉は控えているみたいだけれど、あれでも孫好きな方なんだよ」


「そうなんだ……」


 記憶の中ではいつも顰め面をしていた老人が実は子煩悩だったことに、まつりは静かな衝撃を受ける。


「彼ならきっと、いつでも帰って来いと仰ってくれるよ。貴美子が拒むなら、自分で迎えを寄越すかもしれない」


「私……戻れるの?」


 芳樹が言葉に詰まる。


「……きっと戻れるさ。まつりが望むならね」


 返答には間があった。

 希望的観測。つまりはそういうことだ。

 まつりはしばらく考え込む。

 御香月家での暮らしは物質的な不自由は無かったが、精神的な不自由さがあった。理解はしていたし納得もしていたけれど、閉鎖的な御香月家の考え方にいささか窮屈な思いをしていたのも確かだ。

 自分は戻りたいのだろうかと、まつりは自問する。


(……戻りたい。その理由は?)


 家のため、義務を果たすためという気持ちは確かにある。けれど、それ以上に。


(綾野との友人関係を、失いたくない。そうなのね)


 御香月家との繋がりがなくなるのは仕方ないけれど、それでも、綾野と疎遠になってしまうことを、まつりは恐れている。

 きゅっと何かを我慢するかのように、自分の服の裾を握るまつりに、芳樹が言った。


「ただ、しばらくは別の高校に通わざるを得ないことは確かだ。この件はそれなりに長引きそうだからね」


 口を開こうとしたまつりは、続いて告げられた芳樹の言葉に首を傾げる。


「丁度いい機会だから、転校して一度一般人としての生活も体験してみなさい」


「毎週末お父さんのところに通ってるんだから、それで間に合ってると思うんだけど」


 きょとんとした顔のまつりに苦笑し、芳樹は話の意図を説明する。


「そういうのじゃなくて、きちんと腰を据えて、同じ目線に立ってみるのも大切だよ。頭からつま先まで上流階級にどっぷり漬かり切った結果、貴美子はああなっちゃったわけだから。まつりだって、ああはなりたくないだろう」


「……なるほど。それもそうね」


 自分の母親ながら、思わず納得してしまうまつりだった。

 考え込んだ末に結論を出したまつりは、改めて父親である芳樹を見上げた。


「お父さん。私、転校する」


 娘の宣言に、芳樹は微笑んだまま静かに頷く。


「それがいいと思うよ」


 まつりは父親の芳樹を見上げ、はにかんだ。


「今回の一件で、分かったことがあるの。私、綾野とか御香月家のおかげで知り合えた友達のことは好きよ。でも、御香月家そのものは、あんまり好きじゃない、気がする。気がする程度で、正直、自分でもよく分からないけど」


 まあそうだろうなと、芳樹は心の中で同意した。今まで御香月家で暮らしてきたまつりはその権力相応に、不自由さを押し付けられてきた。未来は狭められ、家のために政略結婚を是として生きていかなければならないことを当然として育った。

 それが当たり前だったのだ。その不自由さが、もはやまつりの日常なのである。


「だから、しばらく離れて、頭を冷やそうと思う。そうすれば、私が何を望んでいるのか、分かるはずだから」


「お父さんはまつりの選択を応援するよ。となると、転校が必要だね。まあ、まつりは頭がいいから、どこの学校でも試験については心配いらないかな」


「……うん」


 にこにこと微笑む芳樹の横で、まつりは俯いた。

 やっぱり、このまま綾野と別れるのには未練があった。だが、今戻るわけにはいかない。父親に叱られたとはいえ、貴美子は自分の考えを変えようとは微塵も思わないだろう。

 自分の母親がそういう女性であることは、娘であるまつりが一番良く知っていることだった。


「転校の手続きは僕も手伝うよ。この近くに公立高校があるから、そこの転入試験を受けるかい?」


「うん。そうする」


 いつまでもくよくよしていても仕方ない。

 そうと決まったら、まずは電話で欠員が出ているか聞かなければ。

 まつりはぐっと拳を握り締めた。

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