十七話:悪役令嬢の不在と、主人公の歩いた道
今まで車で通っていた道を徒歩で歩いたまつりは、駅に着いて足を止めた。
父親のマンションに行くには、ここからは電車に乗る必要がある。
学院に通う他の生徒たちに比べ、父親の影響がある分一般常識を身につけているまつりだが、さすがに電車に乗ったことは無かった。
知識としては知っているものの、初めてというのはやはり慣れないものだ。しかも現在時刻は夜である。
券売機に並んだまつりは、目を皿のようにして路線図を眺める。
(えっと、お父さんのマンションの最寄り駅までは、ここから八駅……結構かかるのね)
今までは車で送り迎えしてもらっていたから実感が湧かなかったが、こうして見てみると、御香月家の屋敷と芳樹のマンションはかなり離れている。
やがてまつりの順番が来て、まつりは覚束ない手つきで切符を購入した。
切符を持って自動改札口を通ろうとしたまつりは、切符の挿入口が見つからず戸惑う。
「ちょっと、早くしてよ」
「す、すみません」
後ろにいた女性に急かされ、まつりは切符を握り締めて慌てて改札口を通り過ぎようとする。
とたんにブザーが鳴り響き、ストッパーがまつりの行く手を阻んだ。
「きゃっ」
驚いたまつりは、後退り、切符と自動改札口を見比べる。やはり挿入口はない。
「何やってるのよ……」
まつりの手元を覗き込んだ女性は、隣の改札口を指差す。
「切符はそっち。こっちはICカード専用だから使えないわよ」
女性が指差した改札口を見たまつりは思わず「あっ」と声を上げた。
確かに、隣の改札口にはしっかりと切符の挿入口が存在していた。
「ありがとうございます。列を塞いでしまってごめんなさい」
無事に改札口を通過できたまつりは、隣の改札口を通ってきた女性に頭を下げる。
女性はまつりの服装をじろじろと見た。
「それぐらい別にいいけど……っていうか、あなた高校生? 夜遅くまで遊んでないで、早く家に帰りなさい。親御さんが心配するわよ」
注意しながら、女性は違和感に首を傾げた。
服装は夜遊び常習犯の少女としては大人しすぎるし、生地も上等なものを使っているように見える。
「はい。これから帰るところなんです」
実際は帰る家を追い出されるに近い形で飛び出してきたまつりだったが、詳しい説明をするのも憚られたので咄嗟に話を合わせた。
「ふーん。あなた、家はどこ?」
尋ねられ、まつりは困ってしまった。まさか正直に御香月家屋敷の住所を告げるわけにもいかない。そもそも、屋敷の最寄り駅はこの駅だ。正直に言えば、嘘がばれてしまう。
迷った末に、父親のマンションがある住所を告げる。御香月家の屋敷に今更戻れるわけもないので、あながち間違いでもない。
「そう。なら、私の家も近くだから送ってあげる。最近物騒だし、女の子の一人歩きは危ないわよ」
「いえっ、そこまでしていただくわけには……!」
辞退しようとしたまつりの額を、女性は人差し指で弾いた。
「こら、遠慮しないの。電車に乗るのも戸惑うような世間知らずは放っておけないわ。これでも教師なのよ、私。高浦高校で教鞭を取ってるの。知ってる? あなたの家の近くの高校なんだけど」
まつりは思わず女性にしては長身の彼女を見上げた。
化粧っ気のない顔に銀色のフレームの眼鏡をかけ、やや釣り目がちの彼女は、まつりに教え諭すような口調もあってか、なるほど教師に見えなくもない。
(高浦高校……確か、高志君が通ってる学校だ)
杉並学院と比べると、学校としてのランクは明らかに下がるが、それは杉並学院が異常なだけであって、高浦高校はどこにでもあるようなごく普通の公立高校である。
駅のホームに上がると、ちょうど電車が滑り込んでくるところで、中からぽろぽろと人がまばらに吐き出されてくる。
「ほら、乗るわよ」
思わず立ちすくんでいたところを教師の女性に急かされ、まつりは慌てて電車に乗り込んだ。
車内は空いているが席に座れるほどではなく、まつりと女性は隣同士で吊り革に掴まり、お互いを盗み見た。
まつりは女性の好意をそのまま全て額面通りに受け止められるほど能天気では無かったし、女性はまつりが話した家に帰るところだという話をあまり信じてはいなかった。夜中に遊び歩くような問題児にしては、明らかに服装が上品過ぎるから、そういう問題は無さそうだが、外出先からただ帰るだけにしては荷物が多い。いくらなんでもスーツケース丸ごと一つの上にリュックが一つ乗っているのは多すぎである。海外旅行にでも行っていたのかとても思うような量だ。
「あなた、休日を利用して旅行にでも行っていたの?」
「いえ、別にそういうわけじゃありませんけど……あ」
思わず女性の質問を正直に否定してしまったまつりは、己の失敗に気付いて口を噤むが、遅い。
「旅行でもないのに、ねぇ」
女性の視線はまつりが持つ荷物に注がれている。
もう二度と屋敷に戻らないつもりで出てきたのが仇となった。まさか周到に準備しすぎて怪しまれることになろうとは、まつりは予期していなかった。
「まさか、家出じゃないわよね?」
「ち、違います!」
そのものずばりを言い当てられて、引き攣りながらもまつりは平静を装って否定する。
まつりと女性を乗せて、電車は駅へと滑り込んだ。
■ □ ■
女性を伴い、まつりは夜道を歩く。
昼間に歩く道と比べ、物音が途絶え暗闇に包まれた道はまつりが思っていた以上に気味が悪い。
ところどころに立っている街頭が頼りなく路面を照らしているが、うすぼんやりとした光は返って夜道の不気味さを助長している。
まつりは密かに女性が着いてきてくれたことに感謝した。
完全に警戒を解いたわけではないが、今のところ女性にまつりをどうこうしようというような不穏な気配は感じられない。
「あ、ここです」
見慣れたマンションの前でまつりが立ち止まると、女性も足を止めてマンションを見上げる。
「……なんだ。本当に近所じゃない」
ほっとしたような、拍子抜けなような、微妙な表情で、女性はため息をついた。
もしかしたら、まつりが何か事件に巻き込まれたりしてこんな夜中に一人でいるのではないかと、心配だったのかもしれない。
「私の家、この三軒隣よ」
女性はすぐそこの一軒家を指で指し示す。
思ったよりも、世界は狭いらしい。
礼儀正しく、まつりは女性に向き直り、深く頭を下げた。
「送ってくださって、ありがとうございます」
「気にしないで。じゃあ、私は行くわ。あまり夜更かししないようにするのよ」
年長者らしい小言を残して、女性は去っていった。本当に三軒隣の家に入った女性を見て、奇縁というのは本当に存在するんだなぁと、まつりは埒も無いことを思う。
マンションのエレベーターに乗り込んだまつりは、父親である芳樹の部屋がある階のボタンを押し、閉のボタンを押した。
数瞬の後、僅かに身体が浮き上がる感覚とともに、エレベーターの表示が上へと移動していき、扉が開いた。
エレベーターを出て廊下を歩いたまつりは、芳樹の部屋の前で立ち止まり、チャイムを鳴らそうとして思い留まる。
現在時刻は午後十一時。芳樹はもう床に着いているかもしれない。
そう考えたまつりは懐から合鍵を取り出した。毎週通っているので、芳樹から合鍵を渡されていたのだ。
そっと鍵を開け、中へと忍び込む。なるべく音を立てないようにスーツケースのキャスターを握って持ち上げ、車輪を仕舞い音がしないようにして移動する。そうでなくとも、路上を移動したスーツケースの車輪を出したまま転がして上がり込むわけにはいかない。部屋が汚れてしまうからだ。
居間では父親がテレビを見ていた。
「……お父さん」
声をかけられた芳樹は、振り向いた先に娘がいるのを見て目を見張った。
「まつり? どうしたんだい、こんな夜遅くに。忘れ物でもしたかな」
きょろきょろと回りに視線を巡らせた芳樹に、まつりは近付いて首を横に振る。
「ううん、そうじゃないの。……御香月家のお屋敷、追い出されちゃった」
娘の告白を聞いた芳樹は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をすると、表情を真剣なものに改める。
「何かあったのかい?」
まつりが頷くと、芳樹は立ち上がり、台所でホットココアを作って戻ってくる。
「もしお父さんにも話せることだったら話してみなさい。出来る限り力になるから」
そっと差し出されたマグカップを受け取ったまつりは、ホットココアに一口だけ口をつけた。夜道に冷えた体に、温かいココアが沁みた。
ココアで緊張を解したまつりは、ぽつぽつと事情を語り始めた。
母親である貴美子が縁談を持ってきたこと。その縁談の相手がすでに相手がいる婚約者で、よりにもよってその婚約者が自分の親友であること。
事情を聞いた芳樹はそっと自分の眉間を押さえた。低く、唸るような声が漏れる。
「あいつは一体何を考えてるんだ……」
芳樹は自分のスマートフォンを手繰り寄せると、電話をかけ始めた。
相手が電話に出ると、おそらくは使用人であろう人物に、芳樹は喋り始める。
「藤園です。娘がこちらに尋ねてきまして。はい、そのことについてお話を伺いたいのですが、貴美子に繋いでいただけますか」
電話の相手が貴美子に代わったのか、芳樹は事情を問い詰め始めた。話が進むに連れ、芳樹の眉がどんどん下がっていき、渋面になっていく。忙しなく瞬きをする場面もあった。
やがて通話を切った芳樹は、どこか疲れた表情でまつりを振り向く。
「貴美子の奴、ムキになってるな。……本当にお前に出て行かれるとは思っていなかったみたいで、泣いてたよ」
「嘘よ」
むっつりとした表情で、まつりは即座に断定した。
まつり自身もすっかり意固地になっている。そんなこと絶対にあるはずがないとでも言いそうな顔だ。
こういう強情なところまで母親に似なくていいのにと、芳樹は顔に疲労を滲ませながら思った。
「一つだけ聞かせてくれ。まつりはもう、本当に御香月家に帰るつもりは無いのかい?」
「戻りたくても、今のままじゃ無理だわ」
項垂れるまつりの頭に、芳樹は手を置いた。
「そうか。なら今日は荷物を置いて寝なさい。まつりの今後については、お父さんが何とかするから」
「ごめんなさい。迷惑かけちゃって」
暗い表情で俯くまつりに、芳樹は苦笑してその頭を撫でた。くすぐったそうに身動ぎするまつりに、穏やかな口調で諭すように語りかける。
「いいんだ。まつりは僕の娘なんだから。娘のことで父親が骨を折るのは当たり前のことだよ」
父親は許してくれたが、出戻ってしまった形のまつりは少々居た堪れない。
「お父さん。着替えてくるね」
「ああ。行っておいで。その間にまつりの分の寝床を整えておくから」
脱衣所で寝巻きに着替え、歯磨きを済ませたまつりは、ベッドの布団が取り払われ、変わりにまつりの布団がマットの上に敷かれているのを見た。
「明日仕事でしょ? 私、下で寝るから気にしなくていいよ」
「いやいや、気にしなくていいから、遠慮なくまつりはベッドで寝なさい」
芳樹が頑として譲らなかったので、仕方なくまつりはベッドに横になる。別にまつりは芳樹の匂いは嫌いじゃないが、エチケットとして芳樹は布団を変えたようだった。芳樹が使っていた布団は、変わりに居間の床に敷かれている。
「それじゃあ、電気消すよ」
「うん。お休みなさい」
芳樹の手が壁のスイッチに伸び、パチリという音がして照明が消えた。暗闇の中で、ごそごそと芳樹が自分の布団に潜り込む音が聞こえる。
まつりも目を閉じ、睡魔に身を委ねることにした。




