十六話:悪役令嬢の不在と、主人公の選択
時間は前日の夜へと遡る。
御香月家の屋敷に帰宅したまつりは、使用人に母親の貴美子が呼んでいると告げられ、貴美子の私室へと向かう。
「お母様。まつりです。ただいま帰りました」
「入りなさい」
入室許可を受けたまつりがそっと襖を開けると、上品な香の匂いが鼻腔を刺激した。
貴美子は部屋の隅にある文机に向かい、何かの資料を読んでいたところのようだった。
振り返った貴美子は、中央に座布団を二枚敷き、片方をまつりに座るよう勧めた。
「どのような御用でしょうか、お母様」
「今、好いている人はいますか?」
座布団に座って居住まいを正し、用件を尋ねるまつりに、貴美子は謎の質問を返してきた。
「その問いが、今回の用件に関係があるのですか?」
「関係があるから尋ねているのです」
帰ってくる答えはにべも無い。
抱いている感情が表情に出そうになるのを堪え、まつりは無表情で答えた。
「……今は、特にいませんが」
「それを聞いて安心しました。これを見てみなさい」
貴美子が自分の横に置いてあったものを、まつりに差し出した。
それは、額に納められた見合い写真だった。
「婚約……ですか?」
またかと思い、僅かに眉を顰めるまつりに、貴美子は諭すように続ける。
「向こうも大変乗り気なのよ。家柄、資産、将来性、どれを取っても非の打ち所がない家系よ。縁戚関係になって損はないわ」
「ですが、この方には、別に許婚がいたはずでは……」
いつの間にか、まつりの身体はガタガタと震えていた。
見合い写真に写っているのは、見慣れない、けれど見たことが無いわけではない青年の姿。
綾野の婚約者であるはずの、鷹河晃一郎だった。
「本位ではない婚約だったそうよ。こちらの婚約が纏まれば、すぐにでも破棄させると相手方は仰ってくださっているわ」
微笑む貴美子は、見た目だけならば格式ある家柄の当主としても、配偶者としてでも、相応しい気品と威厳を備えている。
まつりは貴美子と親子の会話と呼ぶには、どこか他人行儀な会話を続ける。
「そんな簡単に、一度決まった婚約を解消出来るものなのですか? 昨日今日の関係ではないはずですよ。それに、あの二人は、仲睦まじいものだと思っていましたけれど」
どこか貴美子を糾弾する雰囲気になってしまったことに気付き、まつりの後半の言葉は小さく窄まって消えた。
「神宮路家と鷹河家は元々近い間柄なの。私のお父様と鷹河家の今のご当主様は、親友同士の間柄でね。昔から、あなたと晃一郎君を婚約させないかって話がよく持ち上がっていたの。そこへ横槍を入れてきたのが神宮寺家よ。あの家は資産はともかく、家格は圧倒的に御香月と鷹河両家に劣っている。資産だって、どちらか片方の家に対抗できる程度よ。今後どう転ぶかなんて、誰にも分からないわ」
そう言って、貴美子は娘の内心を見透かすように、意味ありげな流し目をくれた。
まるで、この婚約を利用して鷹河家と手を組み、神宮路家を潰せと言わんばかりの態度だ。
「家格が下の神宮路家の方が婚約を申し込んできたそうよ。条件が良かったから受けたそうだけれど、やっぱり成金の娘を娶るのは嫌だったみたいね。こちらが同等以上の条件を提示したら、あっさり呑んでくれたわ」
貴美子の顔には、品のある笑顔が能面のように張り付いている。
「……なんてことを、してくれたのですか」
掠れた声で、まつりは声を絞り出した。そうとしかいえなかった。
(よりにもよって、どうして彼なのよ)
他の誰かならば諦めもついた。まつりとて上流階級に生まれた娘だ。政略結婚なんて物心ついた頃には受け入れる覚悟が出来ている。
でも、鷹河晃一郎だけは駄目だ。彼は綾野の思い人。彼女との婚約を破棄させて、新たにまつりと婚約を結ばせるなんて、娘の交友関係くらい把握しているだろうに、どうかしている。
「これを機に、友達付き合いも改めなさい。御香月家の者として、恥のないようにするのです。神宮路のような、成り上がり風情の家柄の娘と関わるなど、もっての他です」
まつりは胸の奥が、マグマが煮えたぎるように熱を持つのを感じた。その感情の名を、まつりは知っている。紛れもなく、それは怒りだ。
「……お母様が、それを言うのですか。一度はお父様と結婚された、あなたが」
辛うじてまつりが言葉を搾り出すと、初めて貴美子の表情が変わった。
固い表情を浮かべ諭すようにまつりに語る。
「あの時はそれが一番だと思ったのよ。でも、私も彼も、価値観の差というものを甘く見ていた。結婚生活というものに夢を見過ぎていた。いい? まつり、よく聞きなさい。私たちのような人間が幸せになるにはね、結局は家柄や資金力が吊り合う相手に嫁ぐのが一番いいの。そういう意味では、あの人との結婚は間違いだった。その点で言うなら、晃一郎君はあなたの婿に申し分ない。どちらの家を残すのかという課題はあるけれど、きっと私たちが勝つわ。だって、あなたは私の優秀な娘ですもの」
初めて内心を吐露した貴美子を、まつりは理解できないものを見る目で見つめた。自分の母親ながら、まつりは貴美子の考えていることが理解できなかった。
いや、予想することはできる。だが、娘の前で結婚を間違いと断じた貴美子には、あまりにも情がない。理解しようとすると、理性が拒む。
「……お断りしてください。私にはもったいない相手です」
意味の無い抵抗だと思いながらも、まつりは辞退を試みる。既に外堀は埋められているだろうけれども、それでも反抗せずにはいられない。
「生憎もう、段取りはついてるのよ。向こうがとても乗り気だって言ったでしょ? これは決定事項なの。あなたはただ頷くだけでいい。それで全ては如際無く進むわ」
「……そこまでして、私と綾野の仲を引き裂きたいのですか?」
声が、僅かに震えた。
それをまつりの感情の揺らぎと捉え、貴美子の眼差しが厳しくなる。
「あら、何を言っているの? 憶測で物を語るなんて、あなたらしくもない。仕方ないでしょう。御香月家と神宮路家の娘が仲良くなること自体に無理があるのだから」
熱くなってはいけないと分かっていながらも、綾野との関係そのものが間違いだったと否定されては、まつりとて黙ってはいられない。
「そんなことはありません! 現に、わたしの派閥の子達だって、綾野の派閥の子と仲良くしています!」
「その結果、学院で御香月家の派閥がどうなっているかご存知? 学院の最大派閥だったはずが、取り込みが進んで今では神宮路家に逆転されている。このままいけば、近いうちに完全に吸収されてもおかしくないわ。当のあなたは、碌な対策も打てていないようだし。これでは、将来私たち大人の派閥関係すら変わってしまいかねない」
即座に切り返してきた貴美子にまつりは言い返すことができなかった。
貴美子の言うことは正しい。確かに、まつりが学院で派閥を率い始めたばかりの頃に比べると、綾野と仲良くなってから今までの期間で、派閥は徐々に、されど着実に勢いを減じている。まつりが成金の家系である綾野と仲良くするのを嫌った子が派閥を離れたせいもあるし、まつりと綾野の関係のせいで、垣根が取り払われて派閥間の融合が進みつつあるせいもある。
別に、まつりはそれはそれでいいと思っていた。まつり自信、自分が派閥を率いるのに向かない性格であることは自覚していたし、どちらかというとナンバーツーくらいの位置にいる方が性に合っている。綾野にはまつりに無いリーダーシップがあるし、これまでの付き合いから、派閥を乗っ取るよう画策してまつりと付き合うような人格でもないことを知っている。
だからまつりに言わせてみれば、これは取り込みではなく、融合なのだ。神宮路家と御香月家を頂点とした、新たな巨大派閥が誕生しようとしている。まつりはナンバーワンには拘らないし、矢面に立たないで済む方が色々画策できて都合がいいのだが、それが貴美子には癪に障るのだろう。
唇をかみ締め、もはや取り繕うことも出来ず、反感に満ちた目で睨んでくる娘に、貴美子はため息をついてみせる。
「まあでも、断るのならそれはそれでいいわ。どの道、御香月家の娘であり続ける限り、あなたには断り続けることなんて不可能だもの」
「……は?」
母である貴美子の口から非常識な言葉が漏れて、まつりは思わず聞き返してしまった。
あまりにまつりにとって常識外なことを言われて、すぐには意味を理解し切れない。
貴美子の言葉を反芻し、まつりは乾いた声で貴美子に問いかけた。
「どういう……意味ですか?」
まさか、貴美子は実の娘であるまつりに、鷹河晃一郎との婚約を強制するつもりなのだろうか。綾野との仲を知らないはずがないのに。だって綾野は御香月家に遊びに来た事があって、貴美子も顔を会わせたことがあるのだ。
「言ったでしょう? 御香月家と鷹河家が縁戚関係になるのは決定事項なのよ。そこにはあなたの意志など介在しない。昔の私がそうだったように。本当はあなたの意思で決めて欲しかったけれど、嫌なら仕方ないわ。母が娘であるあなたに命じます。御香月家の看板を今後も背負うつもりならば、この話を受けなさい」
今度こそ、まつりは開いた口が塞がらなかった。娘が拒否するのは分かった、だが頷けとは、一体どんな理屈が働けばそうなるのか。
「……お母様。私は何度でもお断りしますよ。友人のためでもありますから」
丁重に、しかしきっぱりとまつりが断ると、貴美子は溜息をついた。
「そう。ここまで言っても断るの。強情ね、あなた」
「きっと、同じように強情だった誰かに似たのでしょう」
自由恋愛が叫ばれる現在、本人たちの意思が重要視されるようになり、恋愛結婚が増えて見合いは減った。
けれどそれは上流階級には当てはまらず、まつりの周りは未だに見合い結婚の方が圧倒的に多い。
「ここまでは言いたくなかったのだけれど、仕方ないわね。まさか私が親の身で、これを娘に言うことになるなんて」
顔を伏せた時はどこか気落ちした様子の貴美子だったが、再び顔を上げるとそこには厳しさしか浮かんでいなかった。
「従えないのならば、今後御香月の姓を名乗ることも、二度と屋敷の敷居を跨ぐことも許しません。御香月とは関係のない藤園の娘として生きていきなさい」
思わずまつりは呆然とする。
予想外過ぎて、最初何を言われたのか、まつりには理解出来なかった。
我に返ったまつりは、慌てて声を荒げた。
「そ、それは横暴というものです!」
声を大きくするまつりに合わせ、貴美子の声も鋭く、厳しくなる。
「当然のことです。御香月に生まれた者としての義務を全うせずに、権利を行使できると思って?」
聞き捨てならない貴美子の台詞は、まつりの頭に血を上らせた。
今までまつりは、自分の意思を殺して御香月家の令嬢としての責務を自分なりに果たして生きてきた。
目立った反抗はせず、たくさんの習い事も不平を言わず続け、父親の元で過ごす週末以外は、常に良家の子女として完璧に振舞い続けた。尊敬など出切る筈もない母親に対しても、自分を産み、僅かな期間だけだったとしても愛情を注いでくれた存在として、敬って生きてきた。
だからこそ、その発言は、まつりの地雷を踏む。
「お母様がそれをいうのですか!? お父様と駆け落ちしたお母様が!」
「ええ。ですから私は援助は断りましたし、離婚して家に戻るまで、一度も家に帰りませんでしたよ。私のことはいいでしょう。さ、選びなさい」
選択を迫られ、まつりは狼狽する。
家を取るか、友人関係を取るか。答えは分かりきっている。御香月の娘としての義務を果たさんとするならば、今が正にその時だ。まつりと綾野は仲が良いが、それは当人同士の仲が良いだけであって、御香月と神宮路両家の関係が良いわけでは決してない。むしろ、成金と旧家という関係上、関係は悪いと言える。
だが、まつりは家のために綾野を切り捨てられるほど、そこまで割り切ることが出来なかった。元々父親を捨てて男に溺れる母親に対して少なくない反発心を抱いていたし、思春期を迎え、家の意向に唯々諾々と従わねばならないことに対する疑問もあった。
それでも、今までのまつりならば、心を殺して従っていただろう。
特大の地雷を貴美子に踏み抜かれる前ならば。
「私は……家を、出て行きます」
「そう。好きになさい。赤峰の手を借りることは許しません。自分の足で出て行くことね」
娘の決断に眉一つ動かさず、貴美子は淡々とまつりに退室を促した。
貴美子の部屋を出たまつりは、顔を覆って項垂れる。自然とまつりの口から声にならない笑いが漏れた。
衝動的に後先考えず選んだのは自分だ。全てが自業自得。なのに、まつりはショックを受けている。
「……今まで築いてきたもの全てを、壊してしまったわ」
御香月家の令嬢であるために、どれほど苦心を重ねてきただろうか。
悪名高き貴美子の娘として見られる色眼鏡を跳ね除け、御香月家を背負う者として相応しい存在なのだと、ずっと示し続けてきたのに。
たった今、今までの努力が無に帰した。
「自分の選択じゃないの。今更落ち込むなんて、馬鹿みたい」
泣きそうになる自分に自嘲しながら部屋に戻り、まつりは家を出る準備をする。
しばらくは、父親のもとで暮らすしかないだろう。勘当された以上学院にも通えなくなるだろうから、転入先も探さなければならない。
「綾野に連絡しなきゃ……」
電話に手を伸ばしかけた手を、まつりは引っ込めた。どう説明すればいいのか分からなかった。まつりが勘当されても、綾野の婚約の解消が覆されるわけではないのだ。まつりほど優秀ではないにしても、一族を探せばまだ御香月家には婚約に足る娘はいる。どの道、御香月家の圧力によって、綾野は婚約者を失う。止められなかった時点で、まつりは綾野に会わせる顔がない。
それに、惨めな自分の姿を、まつりは綾野に見せたくはなかった。まつりは綾野と対等で居たいのだ。そのためには、まつりには「御香月家の娘」という肩書きが必要だった。それを投げ捨てたのは自分だ。
(ごめんなさい、綾野。お母様よりも、感情のままに動いた私こそが、愚かだった)
ようやくまつりは気付く。自分は今までの努力と一緒に、綾野との関係まで切ってしまったのだと。ただのまつりでは会えない。会いたくない。連絡すれば、きっと綾野は会ってくれるだろうし、それが筋というものだ。事情を話せば、綾野は憤ってくれるに違いない。
でもそこまでだ。事情を話して、綾野に憤って貰って、何になる? 神宮寺が御香月家と鷹河両家よりも下である以上、綾野には何もできることはない。二人の道がそれ以上交わることもない。話して、泣いて、そして諦めて、関係に区切りをつけてそれで終わりだ。
だって世界が違う。世界が違えば常識だって変わる。無理に関係を続けたところで、話題はいずれ噛み合わなくなる。お互いに遠慮が見え隠れするようになり、次第に言葉に詰まるようになるのは目に見えている。やがて疎遠になり、それぞれ別の友人を新しく作っていくだろう。そうした先に待つのは、関係の自然消滅だ。世界が違うとは、そういうこと。まつりと綾野の住む世界は、別たれたのだ。
連絡すれば関係が終わりに向けて動き出すと分かっているが故に、まつりには受話器を取ることが、どうしても出来なかった。
結局まつりは電話をせず、一人きりで屋敷を出た。いつもは車で通る道を、己の足で歩く。
初めてではないはずの道は、何故か知らない道のようで心細かった。




