十四話:悪役令嬢の驚愕と、主人公の消失
綾野の朝は早い。
早起きである綾野に合わせ、使用人たちも早めに起こしに来るのだが、それでも大抵は起こされるよりも早く起きていることが多く、その度に使用人は叱責を受けるのが常だった。
使用人が主人よりも遅く起きるのは許されないことだから仕方ないが、一般常識に照らし合わせれば少々前時代的と言わざるを得ない慣習であることも事実だ。
成金らしく綾野の両親は貴族的な生活を好み、通い、住み込み合わせてかなりの人数の使用人を雇っている。前世の記憶を持ちながらも、そんな両親の薫陶を受けて育った綾野もまた、貴族的な生活を当たり前のものとして認識していた。
だがそれ故に、まつりの父親である芳樹のマンションで過ごした時間は綾野にとってどこか懐かしく、なおかつとても新鮮だった。
例えるなら、まるで久しぶりに田舎に帰ってきたかのような不思議な安心感があった。
何事も自分でやらなければならないのに、それが苦にならない。
むしろ、今となっては自分の着替えでさえ使用人の手を借りなければならない生活は、綾野には少し窮屈に感じる。
だからか、綾野が起きるよりも遅れてきた女性の使用人に、綾野はさっさと自分で着替えながら何気ない口調で告げた。
「明日から、着替えの手伝いには来なくて宜しくてよ」
仕事が減ってさぞ喜ぶだろうと思っていた綾野は、使用人の反応に首を傾げる。
まるで、出社したら突然解雇を告げられたサラリーマンのような顔になったのだ。
「わ、私に何か至らないところがありましたでしょうか!?」
主人ではあっても直接の雇い主ではない綾野には、使用人がここまで慌てる理由が分からなかった。
実は、綾野を起こすという毎日の行為には、きちんと給料が支払われているのである。額は少ないが、毎日欠かすことが無い仕事であるので、月末の給料日にはそれなりに纏まった金額が支払われている。
さらに言えば、綾野の朝が早い分、早起きをしなければならない負担を見越して給料には色がつけられていた。
つまり、使用人にとって起こさなくていいという発言で、クビ=給料減額という図式が出来上がってしまうのである。
使用人といえど仕事には生活がかかっているため、簡単には辞められない。
さめざめと泣く使用人の女性を、綾野は胡乱な目で見つめた。
「至らないところなら、私より起きるのが遅いという致命的な理由があると思いますけれど……」
「うっ」
痛いところを突かれ、綾野に縋ろうとする使用人の動きが止まった。だらだらと冷や汗が流れる。
全く持って言い訳の仕様が無かった。彼女の朝の仕事は綾野を起こし、身支度を整えるという役目を果たすことなのだが、度々遅刻してその度に綾野が自分でやる羽目になっているのだ。むしろ今まで何事も無かったことの方が不思議だ。
だが、使用人の女性にも同情すべき点はある。
綾野の朝は早い。というか、少々早すぎた。早起きは健康の秘訣とはいうが、毎朝四時きっかりに起きるのは早起きの範疇ではない。綾野を起こすためには少なくともそれより早く、自分自身の身支度を整えるのを考えると、起きる時間は完全に真夜中になってしまう。
そう考えると、使用人の女性にも同情する余地はあった。最も、それも加味して給料の額は決められているので、どちらがより悪いかといえばそれは明らかなのだが。
「ああそれと、部屋の掃除とかも今日から自分でやるから、やらなくていいですわ。自分のことは自分でやります」
「そ、そんな! お嬢様、どうかお考え直しくださいませ!」
今度こそ使用人の女性は悲鳴を上げた。
彼女は綾野付きの使用人である。
綾野の部屋の掃除から綾野が命じる用事まで、全てが彼女にとって給料の発生する仕事なのである。
それらが全て必要無くなるということは、正しく彼女にとって職を失うことを意味した。
「そ、そうだ! 御髪を整えましょう! 綺麗な縦ロールに巻いて差し上げますから!」
「……そういえば、そればかりは私だけでは出来ないですわね。お願いしますわ」
首の皮一枚で文字通り首が繋がったことにホッとしつつ、使用人の女性は綾野の髪形をセットする。彼女は美容師免許を持っており、綾野の美容関係を整えるのも彼女の仕事だった。
「ねえ、今度、髪の巻き方を教えてくださる? 自分で出来るようになりたいわ」
「さ、左様でございますか」
げぇっ! と使用人にあるまじき悲鳴を上げそうになった女性は何とか表情に出すのを堪え、辛うじて引き攣った笑顔を浮かべた。教えて習得したが最後、即お役御免になりそうな流れである。主人の頼みとはいえど簡単には頷けず、相槌を打って誤魔化した。
(こ、これは旦那様に相談しなければ。私の給料が危ない)
女性はひっそりと決意を固めた。
そんな決意も知らず、綾野は女性に身を任せている。綾野が幼い頃から仕えている気心が知れた使用人なので、心を許しているのだ。働き始めた頃女性はまだ大学生であり、綾野は幼稚園児であった。時の流れとは早いものである。
「はい、出来上がりましたよ」
自信作を作り上げた女性が綾野を鏡の前に誘導する。
鏡にはいつもの縦ロール姿の綾野が映っていた。見事な仕上がりである。
「ありがとう。それと、さっきの前言はやっぱり全部撤回しますわ。あなたの仕事を取ったら悪いものですものね」
呆けた顔の姉とも呼べる女性に、綾野はにやりと微笑んでみせた。
何もかも承知の上で行った確信犯であった。
そこまで来て、ようやく女性は今までのやり取りが綾野なりの冗談であったことに気付いた。
「び、びっくりした……」
とりあえずは路頭に迷うことはなさそうだと、女性はホッと一息をついた。
■ □ ■
綾野が杉並学院に登校すると、まつりの席は空席だった。
「あら、まだ来ていませんのね。まつりさんにしては珍しいこと」
挨拶をしてくる自分の派閥の生徒たちに挨拶を返しながら、綾野は腕時計で時間を確認する。
現在の時刻は朝の八時十五分。普段ならまつりは八時頃には登校しているので、綾野が登校した時にまつりがいないという状況は珍しかった。
「まあ、たまにはこんなこともありますわね」
珍しいとはいえど今まで一度も無かったわけではないし、まつりとて失敗することもあるだろう。
綾野は深く考えず、集まってくる派閥の生徒たちの相手をした。
しばらくすると、教室の出入り口近くにいた生徒が綾野を呼びに来る。
見れば、廊下に綾野の婚約者の姿があった。
「綾野ちゃん。ちょっと来てくれないかい」
「鷹河様? いかがなさいましたの?」
杉並学院三年の、鷹河晃一郎。以前綾野がまつりに話していていた、やっとの思いで父親に縁を結んでもらった、綾野の婚約者である。線の細い中々の美男子で、優しそうな風貌をしている。
「君と結んだ婚約のことなんだけど、僕は君に謝らなきゃならない」
目立たない廊下の隅まで晃一郎に誘導された綾野は、きょとんとして晃一郎を見上げた。
「どういうことですの?」
「悪いけど、君との婚約は白紙に戻ることになった」
晃一郎の台詞に、今度こそ綾野は呆然となった。
「婚約破棄ですの……? 一体、どうして」
震える綾野の前で、晃一郎は沈痛な表情を作る。
「僕の父と君のお父上との間で取り決められた縁だったけど、母は乗り気でなかったんだ。もっといい家を見つけたから変えろと迫る母に、入り婿の父は断れなかったみたいで。本当に済まない」
深く頭を下げた晃一郎は、迷いを振り切るかのように足早に去っていった。綾野たち上流階級の子女にとって、結婚は家の事情が大きく絡む。家柄が高くなれば高くなるほど、己の感情よりも家同士の結びつきを優先するようになる。
綾野は渋る父親をなんとか説き伏せて意中の相手と婚約を結ぶことができたが、無理を言った以上、よりよい条件の婚約があればそちらが優先されるのは仕方がないことだ。
落ち込んだ綾野は自然とまつりの席に目をやった。相変わらず、その席は空席だ。もしまつりがこの場にいれば、きっと綾野を慰めようとしただろう。むしろ不甲斐ない晃一郎を怒鳴りつけようとしたかもしれない。見た目は貞淑だが、頭に血が上ったまつりは結構過激だ。
やがてチャイムが鳴り、担任が入ってくる。
朝のホームルームが始まってようやく、何故まつりが来ないのかという綾野の疑問は晴れた。
「急な話だが、御香月は転校となった」
担任が告げた事実に、綾野は頭を殴られたかのようなショックを受けた。
転校なんて話をまつりの口から聞いたことはない。昨日だって、別れるまでまつりはいつも通りだった。何かを隠していたとしても、付き合いの長い綾野なら僅かな差異を感じ取れる。前兆が何もなかったということは、昨日の夜にまつりを転校させるほどの何かがあったということか。
脳裏を、何故、どうしてという言葉が駆け巡っては消えていく。
ふと、綾野は教室の一角が静まり返っているのに気付いた。その辺りには、何人かまつりと派閥を同じくする生徒たちが固まっている。
(急な話だから、まつりさんの派閥の子たちはそれこそわたくし以上に寝耳に水だったのでしょうね)
これからの混乱を思うと綾野は彼女たちに同情を禁じ得なかったが、よく彼女たちを観察してみて気付いた。
他の生徒たちとは違い、彼女たちは全く動揺していない。それどころか、まつりがいた頃にナンバーツーだった女生徒を頂点に、早くも新たな秩序が構成されているようだった。
(どういう、ことですの?)
いくらなんでも立ち直りが早過ぎる。前向きなどというレベルではない。まるでこうなることを前以て知らされていたかのように、彼女たちはまつりの転校を受け入れていた。
おそらくは、彼女たちだけは事前に知らされていたのだろう。もしかしたら、まつり本人から連絡が行っていたのかもしれない。突然派閥を放り出してそのままにしておくほどまつりは非常識ではないから、引き継ぎだけはしっかりとこなしていったようだ。
そういうところは真面目なまつりらしくて綾野は嬉しくなったが、その反面一番の親友であるはずの自分に何も言わずにまつりが転校してしまったことは、綾野にとって大きな不満だった。
また、休み時間になるたび、綾野の傘下にいる生徒たちがまつりの転校について綾野に聞きにくるのも、綾野を閉口させた。そんなことは、綾野が一番知りたいくらいなのだ。
綾野はじりじりと進む時計の針を見ながら、晃一郎に振られたショックに浸る間もなく、放課後を待ち続けた。




