一話:悪役令嬢の衝撃的な告白と、主人公の恥ずかしい名前
御香月まつりは杉並女学院に通う、いわゆる由緒正しいお嬢様の一人である。
系譜を遡れば教科書に載っていてもおかしくないような、有名な人物が先祖としてごろごろしている。
一方で、まつりの友人である神宮寺綾野は、祖父の代で財を成して上流階級の仲間入りをした、いわゆる成り上がりの家系である。
本来ならば反発してもおかしくない間柄であったが、不思議とまつりと綾野は馬が合い、友人と呼べる間柄になっていた。
「大変よ。大変なのよ」
「何が大変なのかは分からないけど、とりあえずこの水でも飲みなさい。顔が真っ青よ」
突然まつりを行き着けの喫茶店に呼び出した友人の顔色は蒼白で、尋常でない用件と判断したまつりは、いきなり呼び出された不満をひとまず投げ捨てて、友人を落ち着かせることに腐心する。
言われた通りにグラスの水を飲み干した綾野は、くわ! と眼を見開いて身を乗り出し、まつりの両手を握り締めてきた。
「実は、この世界は乙女ゲームの世界で、わたくしは悪役令嬢だったのよ!」
わけのわからないことを言い出した友人の正気を、まつりは割りと本気で疑った。
彼女なりの渾身のギャグなのか、それとも本気なのか。ギャグならば寒いが、本気だったらそれはそれでもっと問題だ。
反応に困ったまつりは、そっと綾野の手から己の手を引き抜き、身を乗り出している綾野の額に手を当てた。
「……熱は無いようね。春だからかしら」
いたって真面目な面持ちのまつりの行動に、綾野は顔を赤くして仰け反ると、一瞬意味が分からない様子で首を傾げ、一拍遅れて心外とばかりに怒り出す。
「それ、暗にわたくしのことを馬鹿って仰ってない!?」
「そんなことはないわ。気のせいよ」
興奮する綾野を、まつりは冷静に宥めた。
どうやら一応正気ではあるらしい。ならどうして突然こんな荒唐無稽なことを言い出したのか。
詳しい事情を知る必要があると感じたまつりは、目の前の友人を問い質した。
「順序立てて説明してくださる? 突然結論だけ突きつけられても、意味が分からないわ」
「ご、ごめんなさい。あの、わたくしの前世のことなんだけど」
まつりは頭を抱えたくなった。
よりにもよって前世とか、まるで笑い話だが、つまらなさすぎて笑えない。
「そう。それで?」
頭痛がしてくるのを堪えながら、綾野に話の続きを促す。
「わたくしは、前世ではゲーム好きだったの。乙女ゲームに限らず、色々なゲームを嗜んでいたわ」
まつりは困惑して眉根を寄せた。
知る限りでは、まつりとの会話に綾野がゲームの話題を出したことはないし、そもそも触ったことすらないはずだ。
「その割には、ゲームの話なんて一度もしなかったじゃない」
「だって、今までは前世を思い出していなかったもの。今はまつりさんさえ許してくださるなら、泊り掛けで語り合いたい気分だわ! いえ、語り合うだけじゃ我慢が出来ないわ。ゲームをするのよ!」
ぐっと強く拳を握りこんだ綾野が、力強い口調で宣言する。
願望だったのが、途中から完全に断言口調になっている。
お嬢様らしからぬことを言い出した綾野を、まつりは冷静に冷めた目で見つめる。
綾野には悪いが、まつりは別にゲームが特別好きというわけではないし、そもそも所持していない。それは綾野も同じはずだ。
「まあ、真偽は置いておいて。貴女がゲームをしたいからといって、ご両親はそれを許してくださるの? まずはそこからじゃないかしら」
「違うのよ! いえ、したいのは本当だけれど、本題はそこじゃないわ!」
鼻息荒く綾野が言い放つ。
ますます困惑を深めるまつりは、眉根を限界まで寄せる。いったい全体、目の前の友人はどうしてしまったのだろう。普段の上流階級然としたハイソな様子が微塵も見られない。
「わたくしは悪役令嬢で、この世界は乙女ゲームの世界なのよ!」
「……ああ、そこに戻ってくるのね。いいわ。それで?」
ため息をついたまつりは、いったん綾野の話に乗ってみることにした。
いちいち否定するより、聞くだけ聞いてから一度に済ませる方が早い。
「その乙女ゲームはね、杉並学院っていう上流階級の子どもたちが通う小中高一貫の学校を舞台にしているの」
「私たちが通う学校と同じ名前ね」
気だるげな表情で、まつりは綾野の話に相槌を打つ。綾野には悪いが、こんな荒唐無稽な話を信じられるほど、まつりの頭はお花畑ではない。
「そうなの! それで、乙女ゲームの主人公は、藤園キャロラインっていう、外部の中学校からの進学生なんだけど──」
「ちょっと待ちなさい。藤園、その、何?」
思わずまつりは大きな音を立てて席から立ち上がる。
おおよそ日本人とは思えない名前を聞かされ、思わずまつりは口を挟んでしまった。
「藤園キャロライン。こんな名前だけれど、れっきとした日本人よ。それでね、この主人公と攻略キャラを取り合う恋敵役が神宮寺綾野っていう名前なのよ! わたくしは、婚約者を主人公に寝取られて婚約破棄されて家ごと没落させられる悪役令嬢なのよ。嫌よ、そんな惨めな未来は!」
一人で盛り上がっている綾野は、まつりの態度までおかしくなったことに気付いていないようだった。
我に返ったまつりは落ち着きを取り戻し、席に座り直す。
「そういえば、あなた婚約が決まったって先日喜んでいたわね」
「お父様に何度も頼み込んで、やっと結んでいただいたのよ。凄く嬉しかったのに……こんなの酷いわ」
とうとうシクシクと泣き出してしまった友人を、まつりは呆然としながら見つめた。
信じられなかった。
話の内容もそうだが、それ以上に一生隠し通すつもりだった恥ずかしい名前がいつの間にか綾野に知られていることが。
離婚した父親の姓が藤園であり、思い出すのも腹立たしいが、母親がつけた戸籍上の名前がキャロラインなのである。
まつりの本名は、御香月キャロライン。恥ずかしくて誰にも知られないように隠して学院に通っていたのに、どうして綾野にばれているのか。
思考の渦に飲み込まれそうになったまつりは、ハッと我に返った。
今は考えている場合ではない。
「で、でも、まだそうと決まったわけではないでしょう?」
「いいえ。残念なことに、わたくしだけでなく、お父様とお母様、それにわたくしの婚約者まで、乙女ゲームの登場人物と同姓同名なのよ。さすがに偶然の一致じゃ済まされないわ」
自分自身の願望すら篭ったまつりの反論は、綾野によって否定された。
綾野の話を信じるわけじゃないが、まつりには見逃せない点が一つある。
もし話が本当だとしたら、どう考えてもその乙女ゲームの主人公というのは、まつり自身に他ならないということだ。
だが、まつりは別に外部からの進学生ではなく、綾野と同じように小学校から繰り上がりで杉並学院に通っている。
本当にこの世界が乙女ゲームだったとしても、ストーリーは始まる前から破綻している。
事の真偽を確かめるよりも、綾野に本名をばらさないよう口止めしておく方が先とまつりは判断した。
「ねえ、綾野。私の両親が離婚していることは知っているわよね」
「知っているけれど……。普段は自分から話すことなんてないのに、どうしましたの?」
きょとんとしている友人に、まつりは爆弾を投下する。
隠し通したい秘密ではあるけれども、綾野相手ならばどうせいつかは知られる。というか、どういうわけか現在進行形で知られている。今はまつりの名前だと気付いていないようだが、それも時間の問題だろう。
ならば今言っても同じだ。むしろ良い機会だと思った方がいい。恐らく綾野は大騒ぎするだろうし、その対応が大変だろうけれど、変なタイミングでばれてしまうよりはよっぽどいい。
「私の父方の姓、藤園っていうの。綾野の話によると、どうも私は主人公らしいわね」
「ええーーーーー!?」
まつりの予想通り、綾野は素っ頓狂な叫び声を上げた。
「寝取るの? 親友の振りをしておいて、裏ではこっそりわたくしの婚約者を寝取る腹積もりだったの? 虫も殺せそうにない大和撫子な顔のくせして、実は原作以上の腹黒だったの?」
濡れ衣を着せられたまつりは、にっこりと満面の笑みを浮かべて綾野を見つめた。
「やってもいないことを、すでに確定したことのように語らないでくださる? っていうか、どうしてまだ会ったこともない貴女の婚約者に懸想しなきゃいけないのよ」
笑顔とは、本来威嚇に使われるものだとか何とか。
真偽のほどはまつりにとってどうでもいいことだが、まつりの目の前の綾野は、まつりの笑顔を見てうっと言葉を詰まらせた。
「そ、そうよね。嫌だわわたくしったら。お友達を疑うなんて、何を勘違いしていたのかしら」
綾野はスカートの裾を押さえ、上目遣いでまつりを見上げながらもじもじしている。
そんなしぐさがいちいち可愛い。普段のそれこそテンプレを踏襲した悪役令嬢のような高飛車な綾野しか知らない男子が今の綾野を見れば、まず間違いなく放っておかなくなるだろう。だがまつりは女だ。容赦なくスルーする。
ため息をついたまつりは、テーブルに肘をついて足を組み、半眼で綾野を見つめる。本名を暴露したまつりは、すっかりやさぐれ気分だった。
無かったことにすらしたかった名前を、自ら告げたのだ。綾野のせいではないとはいえ、不機嫌になるのは仕方ない。
「それで、結局綾野はどうしたいのよ」
「まつりさんは、恋人を作らないの?」
質問を質問で返され、まつりは片眉を跳ね上げた。
「私の恋人の有無が、綾野と関係があるの?」
不審そうな表情のまつりに、綾野は顔を赤くすると俯いてそわそわと落ち着きなく視線を逸らす。
「だって、今はわたくしの婚約者が好きじゃなくても、まつりさんが本当に主人公なら、未来に好きにならないとは限らないじゃない。わたくしだって安心したいのよ。それに、まつりさんはわたくしの大切なお友達ですもの。気になりますわ」
困惑して眉を寄せたまつりは、上目遣いで様子を窺う綾野に向け、ため息をついた。
「そんなこと言われても、本当に誰も好きな異性なんていないし……今は綾野の方が好きなくらいよ」
急に背筋をピンと伸ばした綾野は、真剣な表情でしばらく考え込み、やがて席を立つと優雅に歩いてまつりの前に立つ。
「なら、わたくしがまつりさんの恋人になればいいんだわ!」
名案だ! とばかりに表情を輝かせ、綾野はまつりに飛びついて抱きついてきた。
優雅とはいったい何だったのか。
「待ちなさい。その理屈はおかしい」
論理を遥か彼方に飛躍させて大暴投した親友を、頬同士をくっつけられてすりすりされながらも、まつりは必死に嗜める。
「考え直しなさい。私も綾野も別に同性愛者じゃないし、そもそもあなたには婚約者がいるでしょう。自分から婚約破棄の原因を作ってどうするの」
「……はっ! そうでした! 危うく原作と同じ轍を踏むとことろでした。まつりさん、ありがとうございます」
自分の席に戻り完璧な形で淑女の礼をした綾野を、まつりは胡乱な目で見つめた。
そういうところの所作は今まで通りなのに、どうして綾野はこんなに残念な子になってしまったのだろうか。依然は我がままが目に付くところもあったが、ここまでアホの子ではなかった。
今では我がままっぷりは鳴りを潜めたが、代わりに頭の螺子が一本か二本緩んでしまっているように見える。まさか、本当に前世の記憶とやらの影響なのだろうか。何それ前世怖すぎる。
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、まつりは問う。
「でも、どうしてそんな大事なことを私に話したの? 軽々しく他人に言えるような内容でもないでしょう」
まつりには、綾野が秘密を打ち明けた理由が分からない。まつりは綾野ほど荒唐無稽な秘密を抱えているわけではないが、それでも全てを綾野に打ち明けているわけではない。秘密にしていることはたくさんある。
「さっきも言いましたでしょう? まつりさんはわたくしの一番大切なお友達ですもの」
事も無げに言った綾野を、まつりは絶句して見つめた。
見つめられた綾乃は頭上に疑問符を浮かべ、まつりの態度を不思議そうな顔で眺めている。
「全く、この子は素面で何を言うのよ」
面と向かって言われると、聞いているまつりは恥ずかしくて照れてしまう。
自分でも頬が赤くなるのを感じて、まつりは己の頬を手で押さえた。押さえた頬は、やっぱり熱かった。
これ以上話を続けるとさらに顔が赤くなるようなことを言われそうな気がして、醜態を見せることを嫌ったまつりは話をすり替えに走った。
「せっかく来たんだから、何か食べて帰りましょう。綾野は何にする?」
「そうね……ああ、見て、まつりさん。新作パンケーキが出たみたいですわよ。わたくしはこれにしますわ」
「へえ。なら私もそれにしようかな。蜂蜜かシロップかで選べるみたいだし」
恋話に花を咲かせば姦しいとはいっても、まだ二人は少女。十分に食い気が勝る年齢であり、二人の話題はスイーツの話題にシフトする。
「そういえば、駅前に美味しいケーキ屋さんができたらしくてよ。お母様が絶賛してらしたわ」
「へえ。綾野のお母様が褒めるってことは、よっぽど美味しいのね。今度買ってみようかしら」
エキセントリックな性格で、セレブ妻を地で行く綾野の母親は、舌が肥えていて食べ物には煩い。その彼女が太鼓判を押すのだから、おそらくその店は当たりなのだろう。まつりも気が向いて、機会があったら買ってみようかと考える。
「わたくしも食べてみたいですわ。そうだ、今度一緒に食べましょ? お家に招待しますから」
「ありがとう。なら、お土産にそのお店のケーキを買っていくわ」
さっそく機会がやってきたようなので、まつりは綾野に微笑んで申し出た。
綾野はまつりの微笑みを見ると、一瞬表情を硬直させ、手慰みに開いていたままのメニュー表を閉じ、テーブルの脇に片付ける。
僅かに蒸気した綾野の頬を見て、まつりは綾野が喜んでいることを敏感に察した。長い付き合いの友人なので、それくらいのことは分かるのだ。
何せ、性悪、ツンデレ、性格がきついと嫌な三拍子が揃ってしまっていた以前の綾野と友人関係を築いていたから、綾野の内心は読み慣れているのだ。
むしろ、今の綾野は読み易いくらいである。
案の定、結果的にまつりに手土産を催促するような形になったことで、綾野がそわそわしだした。
「そんな気を使わなくていいのに。ケーキくらいわたくしが用意してもいいんですのよ?」
「いいのよ。招かれる身としては、何か持っていくものがあった方が気持ちが楽だわ」
遠慮しながらも、綾野は期待しているのが丸分かりで、まつりはくすりと笑みをこぼす。
雑談をしているうちに、パンケーキが運ばれてきた。
それぞれの前に運ばれたパンケーキに、蜂蜜とシロップがかけられる。
自分の皿のパンケーキを見てごくりと喉を鳴らした綾野は、次にまつりのパンケーキに目を移す。
「まつりさんは蜂蜜にしたのね」
「好きなのよ。蜂蜜。あるとつい頼んじゃうのよね」
ナイフで切り分けた欠片をフォークで口に運び、口角を持ち上げてゆっくり味わうまつりを、綾野がじっと見つめた。
「まつりさんは、やっぱり蜂蜜が好きなんですのね」
「何よ、改まって。初めて知ったわけでもないでしょうに」
意味有り気な微笑を向けられ、まつりは少し戸惑う。
蜂蜜の濃厚な甘みが、まつりは昔から好きだった。
小さい頃から好きなので、付き合いの長い綾野も、まつりが蜂蜜を好んでいることは知っているはずだ。
「もちろん存じていますわ。美味しいものはついつい食べ過ぎてしまいますものね」
にこりと微笑んで痛いところを突いてきた綾野に、ささやかながらまつりも反撃する。
「後で体重計の前で後悔しないようにしなきゃ。綾野もね?」
「ぜ、善処しますわ……」
ああ、これはすでに一度後悔した顔だな。
顔を引き攣らせた綾野を見て、まつりはそんなことを思った。




