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幼馴染の彼女にしておく  作者: トマトクン
第一章 『ネガティブハッピー・バイオレットエッジ』
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8

 それから、ざっくばらんな話が続いていく。本当に話題は次々と移り変わる。とりとめもなくと言っていいくらい。積もる話があるわけではないのに。まるでストーリーテラーが導いてくれるかのようだ。後、三波の緊張は完璧にほぐれたらしい。なのに、不思議な受け答えは健在。あれは緊張が原因でない。個性なのかと思う。


 話を始めて一時間以上。すでに五時半をすぎている。もう少しで下校時刻。ただ、空は暗くない。六月の太陽が高いせいだろう。夏至なんて言葉もある。ちなみに、雨はもう止んでいた。雨上がりだが虹は見当たらない。


 僕と三波は給水タンクの横に並んで座ってる。すでに、庇で雨をしのぐ必要はなくなった。でも、ここを離れてはいない。心地良いから。閉所安堵症なんて呼称がいいかもしれない。恐怖症よりはずっといい。スペースは人一人分でなく二人分。人二人分のスペースが存在している。これは見方によってあっさりと変化した。スペース云々は単に主観で決定されるみたいだ。


「やっぱりさ、ああいう時は額に紙を貼るんじゃなくてね」

「はい」


 話は一周回って、三波のイタズラへ舞い戻る。


「肉って書く方がいいと思うんだ」


 まことに古典的だが。でも、古典は伝統である。受け継がれてきた精神性みたいなのが備わってる。


「肉ですか」

「そう。肉」

「しかしですね。そんなことを額に描いてしまったらあれですよ。どんだけ肉が好きなのかと確実に思われます。きっと、あだ名が肉になるでしょう。それも描かれた本人ではありません。描いた本人があだ名の対象となります」

「いや、それはないって。額に肉と書くのは約束事だから」

「え? そうなんですか?」


 三波はこの事実を知らなかったらしい。


「でもですね、やはり肉はいけません。肉というあだ名がついてしまったら大変です。人格そのものを否定される気分になりますよ。たとえ、その人が完璧な女の子だとしても。いや、そもそも完璧な人が存在しないように完璧な女の子は存在しませんが。それは完璧な文章が存在しないのと同じくらいに自明なことです」

「完璧な絶望はどこかに存在しているような気がするけど?」

「完璧な絶望ですか。そうですよね。ともあれ、私は肉と書くなら魚を描きます。お魚です。私はお魚の方が好きですから。私の第二の故郷は地中海に面していて、お魚がよく取れるのです」

「えっと、第二の故郷が地中海に面してるの? もしかしてヨーロッパの国?」

「あ、はい。そうですよ」


 言われてみれば、三波はどことなくオリエンタルな雰囲気を醸し出している。いや、正確にはオリエンタルだと意味合いが変わってしまう。この場合はヨーロピアン。でも、どこかオリエンタル的な異国風美少女だ。


「もっとも、その国はヨーロッパとアジアの境目ですが。どちらの区分に入るか。これは歴史上においても微妙だったりします。今ので分かりますか?」

「うーん。だいたい見当はつくな。もしかして、オスマン帝国が栄えたあの辺?」


 それなら、オリエンタル風味の容姿も納得がいく。


「はい、正解です。私の第二の故郷はトルコ。千之先輩は社会科も得意なんですね。びっくりしました。とにかく、私はトルコにルーツがあります。母親がトルコ人。だから、私は異邦人になりますね」


 異邦人。聞きなれない言葉だ。独特なイメージを抱く。


「そういうわけで、お魚が好きなのですよ。私の母親の故郷が地中海近くの都市でしたので。基本的に海の幸を使った魚料理が中心。とはいえ、日本ほど多くありません」


 そして、三波はトルコの伝統的な魚料理を語っていく。ただ、その名称は聞いたことがない。きっと有名ではないんだろう。本人も魚より肉の料理が多いと前置きしてた。ちなみに、僕が知ってるトルコ料理はシシケバフくらい。


「つまりですね、千之先輩。私は肉よりお魚の方が上手く描けると思うんです。こちらを見てください」

「え?」


 三波は僕が驚いてるうちに絵を描き始めた。どうやら大きな勘違いをしてる。それも根本的な次元からして。額に書くのは絵ではなく漢字。なので、その事実を教えるべきか。などと悩んでいたら絵は完成していた。文字を書く時と同じくらいの早業だ。


「どうですか? 千之先輩」


 自信満々に絵を見せてくる。


「このレベルなら、額には肉でなくお魚を描きたくなると思いますよね」

「うん。まあそれは無きにしも非ずというか」


 たしかに上手い。しかも、デフォルメでなく写実的な絵。細部にまで浸透してる。特に魚の尾鰭はすごく丁寧。ここで描く必要性など全くないのに。これが噂だったらかなり誇張された話だろう。尾鰭をつけただけに。


「あの、千之先輩。私、妥協せずにがんばってみました。やっぱり、額に描くならこれくらいはしないといけませんよね」

「……」


 全力で間違った方向性に突っ走ってると思う。それも脱線しそうな勢いで。技術は申し分ないが額に書いたらシュール。ここは三波の認識を正す方向でいくべきだ。


「三波後輩」

「なんですか? 千之先輩」


 三波は一点の曇りもない表情で見つめる。蒼の瞳は美しすぎて胸が痛い。


「そもそもね、額には実物の肉とか魚を描くんじゃなくて」

「え? どういう意味ですか?」


 不思議そうに首を傾げた。どうも分からないみたいだ。


「書くのは漢字だよ」

「え? かんじ?」


 驚いたらしい。幼子のようにつぶやく。


「そう、漢字」

「かんじ。かんじ。あ」


 ようやく理解が追いついたか。


「漢字、ですか。はい、漢字ですね。漢字漢字。かんじー。考えてみれば、すぐに分かりそうなことで。どうやら私、壮絶な思い違いをしてたんですね。絵なんか描いてお恥ずかしい限りです。本当にごめんなさい」

 

 三波の顔が赤くなっていく。それも見る見るうちに。びっくりするくらい恥ずかしがってる。今にも舌噛んで死んじゃいたいとか言いそうだ。これは由々しき問題である。ただ、本当の問題は三波の表情がすごくかわいいこと。かわいくて図抜けている。かわいさの極致を見たような感じだ。


「えっと、千之先輩。このたびは私の華々しい勘違いにお付き合いくださってありがとうございました。深くお詫びします。なので、許していただけないでしょうか。一応、罰を受ける覚悟はできてますが」


 僕が黙っていたせいだろう。三波は変な覚悟を固めていた。でも、そこまで謝ることではない。三波の変な自虐癖が発動していた。


「あのさ、三波後輩。そこまで謝る必要はどこにもないんじゃないかな。それに恥ずかしがる必要だってないと思う」

「そうなのですか?」 


 三波が涙目で見上げる。涙目かわいい。保護欲をかき立てられるしぐさだ。


 やはり、僕は涙に総じて弱い。涙を流されることも涙目なことも。もちろん、双方には別々の効果がある。だから、厳密には違った意味での弱さだが。


「うん、なんというかそうだね。三波後輩の気持ちはよく分かる。謝りたいのも恥ずかしいのも。さっきの僕だって、先輩と呼ばれて異常に恥ずかしかった。でも、やっぱり気にしないのも大切なんじゃないかな。物事は深く考えない。全てにおいて単純化すればいい。偉人や大富豪がそんな言葉を残してたよ。って、それが出来たら人生全く苦労しないんだけどなあ」


 思わず、あいまいな言葉で濁してしまう。


「そうですね。出来ないから大変なんです」

「そうだよな」


 話してるうちにこっちまで恥ずかしくなった。べつに恥ずかしくはないはずだ。何も特別なことは言ってないから。なので、もちろん理由は分からない。でも、こういうことは度々起こりえる。翠と話している際にも度々と。ふとした瞬間に相手の感情をトレースしてしまう。つまり、相手に当てられる。


「やっぱり、私は恥ずかしくて。本当にどうしようもないくらいに」


 顔はまだ赤い。両手も扇みたいに動かす。パタパタと。


「……」


 とりあえずかわいい。三波の恥ずかしがっている姿は本当にかわいい。僕が三波にこんな表情をさせたいと思うこと。それは間違ってるか。一般的な表現を使うと辱めさせたいという感情になる。もっとも、この表現は少しえげつない。でも、大方間違いではないと思う。それに男子なら女の子の恥ずかしがる姿を見たいはず。なぜなら、普通のかわいいとは違う。別次元のかわいさが存在する。なんていうか適当な言葉が見つからない。とても残念だ。


「ところでさ、三波後輩」


 とにかく、今の雰囲気を払拭するべきか。話を変えてみる。


「三波後輩は母親と仲がいいんだな」


 先ほどの会話には母親がよく挿入されていた。かなり仲がいいと感じるくらいに。三波は母親の話をするたびに嬉々として語ってくれた。これは羨ましい話だと思う。人に語れる思い出の共有。本当に素晴らしいこと。そして、こう感じるのはあれだろう。今の僕は家族に罪障感しか抱いていないせい。罪障感が全てを上塗りさせてしまった。思い出も感謝もその他諸々も。


「話の節々からそれを感じたよ」


 と、僕は複雑な胸中で言葉をつけ加える。


「千之先輩」


 ただ、三波の方も複雑そうな顔。何か事情があるかもしれない。


「でも、過去の話なんですよ。どこまでも決定的に。私は異邦人であっても時間旅行ができません。どこかの美しい詩みたいにですね。だから、憧憬でありノスタルジーの範疇に含まれる事柄なのです」

「だとすれば、今は母親と仲がいいわけではないってこと?」


 脊髄反射的に出た言葉。あまりいい質問ではない。瞬間でだめだと感じた。


「千之先輩。それは違いますよ」


 三波もやんわりと否定する。


「私と母親の仲は悪くありません。むしろ、良かったと思います。ただ、私の母親はもういない。それだけの話ですよ。これはですね、私の母親が地球上に存在していないことを意味してます。無論、私の知らない世界に存在してる可能性はありますが」

「……そっか。ごめん」


 思えば、あの言い方は遠い昔の人を語るかのようだった。どうして気がつかなかったのか。とにかく、三波の母親は存在していない。そのことには同情の念を禁じ得ない。ただ、ある意味で僕と同じ境遇。だから、嬉しい感情がないわけでなく。ないと言ったら嘘になる。どうも、心の奥底では喜んでいるらしい。三波に仲間意識みたいな感覚を芽生えさせて。これは相当に後ろ暗い感情だと思う。


 つまり、僕の内奥には悲しいと嬉しいの感情が両方備わっていた。でも、この二つは相克してない。互いに上手く両立してる。ものすごく歪で不健全極まりないが。


「千之先輩。謝る必要はないですよ。気にしないでください。私の母親が地球上に存在しないというだけですから。ちゃんと然るべき場所で存在してますし」


 三波は表情を引き締めて言う。やはり、幼くて大人っぽく見える。三波の不思議な特徴だ。


「で、三波後輩」

「はい」

「それはどういう意味?」

「月にいるんですよ」


 間髪入れずに答えが返ってきた。


「きっと、月で優雅に暮らしています。私の母親ですから。その際に父親と娘から大切な何かを盗んでいきましたけど。でも、月へ行くためには犠牲を伴わなければいけません」


 意味深なセリフである。よく分からない。ただ、三波はそれを察したらしい。さらにつけ加えた。


「要するに、私の母親は神様みたいな存在なんです。ちなみに、今のは千之先輩がした質問の答えにもなりますよ」

「え?」


 今まで三波と一時間以上話した。そのせいでやり取りを忘れていた。だから、急に振られてびっくりしてしまう。


「私なら、神様は月にいると考えます。太陽ではなくて。もっとも、月はいろんな見え方がされるから適切なのかもしれませんね。神様にも膨大な数の解釈がありますし」

「そっか。月ね」


 今になって思い出した。やり取りはこうだ。太陽か月に神様がいるとしたら、どちらがいいと思うか。


「言われてみればそうだよね。その方が正しいかもしれない。ただ、この問いに答えはないんだけどさ。これは太陽と月のどちらに神聖を見出すかという話。雲の形を見てロールシャッハテストとは意味合いは違う」

「ああ、そうですか。千之先輩。だとすれば、私は月に神聖を見出したんですね。ただ、私は雲も神聖めいた存在だと思います。ランダムにいろんな形で現れてますから。もしかしたら、何かのメタファーではないか。時々、そんなふうに思ってしまいますね。なので、私は真剣に雲を眺めてると気が遠くなってしまうんですよ。どこか気後れしてしまって。でも、心地よい感覚が味わえるのでありなんですが」


 と、三波は笑う。照れくさそうに。とても魅力的な笑顔。


「もちろん、月も同じですよ。むしろ、月の方がいいですね。私の文化的背景からしてもそうですが。とにかく、さらに心地良い感覚が味わえます。なんていうかな。月からは否定的な幸福を感じるんですよ。そう。あの暗闇の中に映える月。それを見ている自分。この対照的な様子で自分がものすごく矮小に考えてしまう。なのに、その否定的な感じがとても幸福なんです。皮肉なことに」


 三波はさらに続ける。


「そして、この否定的な幸福というのが厄介なんですよ。一度魅了されると容易には抜けられません。なぜなら、あまりにも美しすぎて甘美だから。とても儚くて心地良いんです。それは世界の不確かさを凝縮して抽出させたような感覚。だから、肯定的な幸福を鬱屈に感じて、否定的な幸福に身を委ねてしまういます。私は闇夜に浮かぶ月に絶対性を見出しているんでしょう」


 僕は言葉が出なかった。理由は言うまでもない。


「さしずめ、ネガティブハッピーと呼称すればいいのでしょうか。否定的な幸福。ネガティブハッピー。あまりしっくりはこないですが。ともあれ、最初に屋上で見た千之先輩は雨に否定的な幸福を見出してました。しかも、とてつもない絶対性と神聖を伴って。本当にびっくりしたんですよ。私が月に見出すのと同じ光景でしたから。千之先輩は雨に対して、どこまでもたおやかな表情だったのです。それはもう不思議なくらいで。だからですよ。私はメッセージを書いてました。気がつけばです。意思に反した特別なプログラムを実行するかのように。いえ、この場合は意思を超越させたと言っていいかもしれません」 

「…………」


 沈黙。今の言葉にはなんだか不思議な酩酊感があった。まるで言葉で相手を酔わせている感覚。僕はそんな錯覚に陥ってしまう。でも、それは三波の言う通りだからに違いない。なぜなら、十分に心当たりがあった。普段感じる罪障、無力、喪失といった感情。即ち否定的な幸福。ネガティブハッピー。その総本山として雨を担ぎ出してる。月でなく雨に。ここが三波と違う点。ただし、構造は全く同じだ。


 つまり、僕が泣けない理由がここにあった。雨が泣いてくれるわけではない。ましてや、翠が泣き虫のせいでもない。これは幻想だ。そういうことではけっしてなく。本当は悲しんでいない。悲しくなんかない。単に否定的な幸福の舞台装置として機能してるだけ。しかも、それをむしゃぶりつくすように味わう。本当にとんでもないからくり。だから、僕は泣いてない。否、泣く必要がない。この話は間違いなく屈折してると思う。解析していくときついものがあった。

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