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幼馴染の彼女にしておく  作者: トマトクン
第一章 『ネガティブハッピー・バイオレットエッジ』
6/77

5

 週末は快晴。月曜日も火曜日も雨ではなく。水曜日に天気が下り坂へ。灰色の雲がにわかに増えていく。そして、木曜日に雨が降り出した。ミストシャワーのような霧雨。約一週間ぶりの雨だ。


 僕はその間、屋上へ行ってない。屋上は雨の日に限る。これは自分ルールともいえる不文律。雨の日以外に屋上へ行っても情緒がない。一定のリズムを感じられないからだ。なので、メッセージの結果は未だ知らず。気にはなるけど。でも、雨の日に確認する。ここは譲れない線だと思ってた。それに普段は平穏な日常を送るべきだ。そう。そこまで雨のことばかりにかまけてるわけではない。いや、それでも雨が好きなことには変わりはないのだが。


 要するに、僕も一介の学生である。普通の学校生活。普通の人間関係。それを構築しようとする高校生。普通の高校二年生。進路に頭を悩まさないまでも基本軸は考える時期。朝礼の挨拶で校長先生はよく言う。二年は中だるみの期間だと。気をつけないと飲み込まれてしまうと。何に飲み込まれるのか。などという比喩的疑問は野暮なんだろう。そもそも、その考え自体に否である。そんなことはないと思うから。どの学年に位置してようが変わらない。心がけ次第。とはいっても、僕が生徒の模範となるべき殊勝な心がけでない。まず間違いなく。


「マク。今日は機嫌がいいでしょ」


 休み時間、翠が耳打ちしてきた。友達の女の子と連れ立ってトイレへ行ったはずなのに。いつ帰ってきたのか。いきなりで驚く。自分の席へ着く矢先のタイミングだ。


「機嫌がいいかは分からないよ。でも、そういう日は普通にあるんじゃないかな。バイオリズム的な感覚で」


 僕が適当にあいづちを打つ。すると、翠はそれに乗ってくる。


「バイオリズムか。でも、私知ってるの。マクは雨が降っていればオッケー。わりと上機嫌になるよね。どう? この推測当たってるでしょ」

「まあ、当たらずといえども遠からずだね」


 さすがに勘が鋭い。


「だからさ、雨雨、降れ降れ、もっと降れっていう気持ちなんじゃない?」

「演歌?」

「あーうん。私のお母さんは演歌が好きだからね。そこまでの歳ではないんだけど。だから、私も知らずに影響されるかも。てか、それはともかくだよ。首を縦に振らないか。マクが認めない限りあれだよね。マクは雨が好きだという事実にならないからなあ。なんだか悪魔の証明をしてる気分だ」

「翠、あれはべつの話だって。悪魔の証明は悪魔であるという証拠自体が存在しない一種の不可能理論だよ。つまり、言いがかりであってさ。言いがかり? いや、やっぱり僕も分からないな」

「そうだよね。自分で話題をふっといて失敗したと思う。なんだか難しいし」


 悪魔の証明。たしか、ミステリではタブーだと聞いたことがある。もっとも、ミステリには約束事が多い。ノックスの十戒やヴァン・ダインの二十則とか。犬が犯人を当てる行為ですら無効だったはず。ここはうろ覚えだが。


「まあ、私も悪魔の証明という言葉を使ってみたかっただけだしね。ところでマク。今年の五月は菫の造花を作らないの? さっき、英語の授業でバイオレットって習ったよね。あの単語を見て、思い出したんだけど」

「ああ、僕はその単語をバイオレントの綴りと間違えたんだ」

「それは暴力だから。さすがに、私でも知ってる英単語だし」

「正確には形容詞だけどね。暴力的な」

「うわあ、ややこしいや。とにかく、フラワーアレンジメントって言うんだっけ? あれ、私好きなんだよね。完成したのを見るだけでもさ。私はきっと出来ないと思うし」

「そんなことないぜ。翠は要領がいいから大丈夫。すぐにコツを覚えそうだ」


 だいたい、フラワーアレンジメントではない。そこまで専門的な技巧が必要な分野でもなく。単に折り紙を組み合わせて、花を作るだけ。手慰みとして出来た副産物である。なので、実際にコツさえつかめば容易い。


「そう言われても無理だよ。見るのとやるのでは大違いだから。それにマクのフィンガーテクニックは凄いの一言に尽きるしね」

「翠、その言い方は色々と語弊がありそうだ」

「あ」


 翠は僕の懸念した意味を察する。表情が急激に赤くなっていく。


「で、でもね、それはマクが不純なことを考えているからいけないのよ。具体的にはエッチなことを。私がこんなセリフに屈する必要なんかどこにもないんだからね。実際、マクは相当のフィンガーテクニックなんだし」

「翠。声が大きいって」


 僕は困り切った表情で言う。


「翠がその言葉を人前で連呼すると、あらぬ誤解が生む可能性があるんだ。たとえ一パーセントでもそんな誤解をされたくないね。僕と翠は純粋な幼馴染なんだからさ」


 言っていることに間違いはない。なのに、翠の機嫌がほんの少しだけ悪くなった気がする。それは翠の表情を見ていれば、よく分かること。翠はお天気屋でもない。だから、機嫌が悪くなったのに明白な理由がある。


「こんなことを言われると、おいおいスミレの造花も作れなくなるよ」

「それは無理なんじゃないの? だってさ、マクにとってはフラワーアレンジメントが、絵を描くことの代替行為なんだから」

「…………」


 翠の言葉が僕の肺腑をえぐる。


「たしかにね」


 自分の気持ちがすうっと冷めていくのを感じた。


「今のマクはさ、憤慨しているよね。自分自身に。それも表へ出さず。心の中で」


 幼馴染の翠には全てお見通しだった。心憎いほどに。昔から言い合いはよくした。もちろん、理由の分からない言い合いとは違う。互いに正しいと思うことをぶつける。でも、今は主義主張が見えない。いつのまにか隠れてしまった。そう、絶対的で最強の空気感がなくなりつつあるのと同様に。つまり、真意を察せないのがいけないのか。空気を読めないのが。


「マ、マク」


 そして、翠が折れてしまう。制御できないのは翠も一緒だった。いつのまにか、表情がくしゃと変化してる。これは泣き虫の翠がよく見せるしぐさ。あまり良い傾向ではない。むしろ、絶対に避けたいこと。僕は翠にそんな顔をさせたくなかった。


「大丈夫、翠。自分自身に憤慨したのは一瞬だけ。とにかく、絵の話は止めよう」

「うん」 


 絵を描くことには因縁がある。それはもう割り切れないほどに。僕の一生を変えてしまった。そんな修正不可能な間違いだ。僕は未だにトラウマを克服できない。だから、できるだけ意識しないように努めるだけ。やり過ごしてるといってもいい。罪障感でいっぱいになるので、絵を描くのを止めた。あの出来事が起こった二年半前――嫌な思い出がフラッシュバックする。台風。事件。誰もいなくなった。僕が絵を描いたから。そして、筆とチューブが全滅。パレットも色彩辞典も。赤い絵の具だけが生き残った。描いてた途中の絵には『人殺し』の文字。滴る血のように赤い言葉。凄惨で劇的で視覚効果は絶大。『人殺し』『人殺し』『人殺し』。文字のゲシュタルトが崩壊する。『人殺し』が絶え間なく埋め尽くす。ドップラー効果が勝手に頭の中であふれていく。やっぱり一生描かないと思う。どんなに技術が伴ってても、すでに絵は必要ない。人生からは切り捨てた。否、切り捨てなくてはならなかった。


「ごめんマク。なんか、頭に血が上ったみたい。私余計なことを言ったね」

「いいよ。僕が悪いんだから」

「そんなこと言わないでよ。私がたいしたことないのに怒ったからいけないんだし。ほら、違う話をしよう。えっと、ええっと」


 翠がこめかみに手を当てて考える。


「あ、そうだ。さっきの話の続きだけどさ。バイオレットとバイオレントって似てるよね。フィンガーと憤慨って言葉も似てない? ついでに、マクと繋げればもっと面白いよ。マクガフィンっていう言葉の響きとも似てるし。どう思う?」

「そうだね。似てるよ。でも、翠はマクガフィンの意味を知ってるの?」

「え?」


 と、翠は首をひねった。どうやら知らないみたいだ。どこで聞きかじってきたのか。


「マクガフィンはね――」


 マクガフィン。物語を構成するために仕掛けられる陳腐な舞台装置。仮に僕が物語の主人公だとする。ならば、そのために与えられた仕掛けは二年半前の出来事だ。つまり、僕はそのことを神様に憤慨しなくてはいけない。いるかどうかも分からない神様に。











 翠は切り替えが速い。あっけぴろげであっけらかんとしてる。おかげで、すぐに空気が戻った。さすがは翠だ。僕はその性格に救われてる。そして、そのうちにチャイムが鳴った。翠は僕から離れていく。


 教師が来て、授業が始まる。学生の本分は勉強。ただ、今日の僕はなかなか身が入らない。原因は屋上に想いを馳せるから。そうしていると時間の経過は速かった。体感としてはコマ送りのようなスピード。


 そういうわけですぐに放課後へ。僕は翠の視線をかいくぐって屋上に向かう。屋上へ続く階段は数が多い。これは学校の七不思議が影響してるとかではない。純粋に建物の構造が立体的に長いせいだ。少ない面積をふんだんに利用してる。などといえば、聞こえがいい。でも、実際は土地計画にずさんがあったと思う。足りない平地の分を上へつけ足したとか。おかげで弊害も多いが、際立った特徴も散見される。それは屋上からの眺めがいいこと。おそらく、近隣の高校随一だ。


 屋上への階段を上りきる。ドアノブをゆっくりと捻っていく。押し開ければ、一面に広がる外の景色。屋上の解放感に天気は関係ない。もちろん、雨は降り注いでる。ミストシャワーのような霧雨。それが少しだけ強くなってた。


 雨が降っても、南西にある山々の稜線がくっきりと見える。そして、その手前の小高い山は地元のハイキングコースとして有名。散策コースは専門雑誌にも紹介されてる。自然が満喫できて、初心者には程良い標高だと。難易度はあまり高くないらしい。いつか、機会があれば登りたいと思う。


 僕は焦る気持ちを押さえて定位置へ向かう。人一人分のスペース。給水タンクの横。探せばどこにだって存在してる。いつだって。雨の音は一定のリズム。今日は微かな音。霧雨の音。でも、五月の雨の旋律は変わらない。心身の安定に欠かせないリズムが聞こえる。


 すでに、今日が三度目の来訪。違和感は完全になくなった。間違いなくフィットしている。おかげで、あの感覚が蘇りだす。それはノスタルジーとも呼ぶべき悠久の哀愁。雨の音。小さな空間。どこか懐かしい想いとともに。


「さて」


 僕はいつもの瞑想を開始する。心身は雨の音に委ねた。腰を据えて体育座り。この姿勢にするとなぜか落ち着く。不思議だ。胎児の時の姿勢だからか。


 瞑想を終えた後、ポストイットを探す作業へ。ここが本題。またメッセージがあるか。ここ一週間はそればかりが気になってた。僕は前にあった場所を中心に視線を巡らしていく。


「あった」


 難なく発見。あっさり見つかった。給水タンクの壁にポストイット。色は前と同じピンク。大きさもほとんど一緒だ。捜索時間は五秒も経ってない。これは場所の目星をしっかりとつけたおかげ。ただ、相手の心構えも影響してる。なぜなら、見やすい場所にポストイットが貼られてた。それに書いてある文字も大きい。前は筆圧が弱くて目を凝らしながら見た。そんな記憶がある。


 ともあれ、相手は間違いなくスタンスを変更。見つかってもいい。見つからなくてもいい。そういう意味合いでなく。確実にメッセージを送ってきた。つまり、相手がスタンスを変えたのだ。そして、こっちは同様のスタンスを取るという指針。これで僕も変更を余儀なくされる。結果として、このポストイットにメッセージを残す選択へ。それは相手の質問に答える形だった。




『高いところは好きですか?』




 僕は徽章付近の内ポケットから黒いペンを取り出す。ペンは普段から持ち歩く。先が尖ってるから応用が利く。


 キャップを外す。貼ってあるポストイットもはがす。ぺりっと音がした。ポストイットは裏返して壁に押さえつける。こういうのは両面使えるから便利。ただ、用途としては正しくないかもしれない。


 とにかく、文字はしっかり書く。達筆ではないが、分かりやすい筆圧。書いた後は糊のつく方へ戻して貼り直す。完成。ここまでの行程で特に問題なし。ちなみに、内容はこう記した。




『低いところよりは好みです』




 裏側なので、書いた文字は見えない。相手は気がつかない可能性もある。ただ、前回と同じく貼る場所を変えた。だから、メッセージを見たという証は示してる。だとすれば、あの文字に気づくのは容易なはず。これで気がつかないなら仕方がない。普通に考えれば、気がつくと思う。


 返事の確認は雨の日。これは確定事項で間違いない。きっと、また返事がある。そんな謎の確信みたいので満ちていた。


「それにしてもなあ」


 なんだかわくわくする。心が躍りだす。このまどろっこしいやり取り。昔懐かしい手段。秘密めいた通信だ。これが心地よい。会話や電話、メールや手紙にもない魅力。今、この瞬間だけは罪障、無力、喪失といった感情を忘却の彼方へ置き去りにしてくれるのだった。

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