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豪邸。こう呼ぶに相応しい家が目の前に。平屋で典型的な日本風。大御所の小林先生宅はいつ来ても驚く。広い敷地と風流な庭。もちろん、すばらしい家。すごいの一言だ。立派な池や鹿威しなんて考えられない。
「井原先生は、いつでも新鮮な表情で驚きますよね」
迎えに来てくれた担当が言う。
「うん。たしかにね」
いつも目をまん丸にしてるような。でも、仕方がないと思う。人生経験の少ない私にはすごすぎる。だから、おしゃれな喫茶店の方が落ち着くんだって。
「ただ、ここへ来るたびに違った表情を見せてくれるんですよ」
「ほうほう。そうですか。それは作家ならでは感性ですかね。さすが」
「おべっかしすぎ」
「恐縮です」
さわやかイケメンに謝らせるのはいい気分。なんだか、自分が偉くなった錯覚に。こうやって、小林先生も増長していったのかな。まあ、あの方は本当にすごい人なんだけどね。
「ところで、おつまみを買ってきてよかったんですか? 奥さんが機嫌悪くなさなければいいのですが」
「大丈夫ですって。そこまで狭量な人ではありませんよ。小林先生の奥さんなんてやっていけません。癖の強い人物の相手はなんでも受け流される人でないと」
「それもそうですね。いらぬ心配でした」
「全くその通りで。いらぬ心配ですよ。そもそも、奥様は旅行でいません。ある意味、お互いに羽を伸ばしてるのではないでしょうか」
「だから、夕方に酒盛りなのか」
「いえいえ。それはいつものことでしょう」
「あ、そうでしたね」
担当がインターホンを押す。私の躊躇を気遣ってくれたかな。そうだと嬉しい。なんか、門構えの立派な家は気軽にチャイムを押せない。本当の意味で敷居が高いと思う。
「こんばんわ井原先生。小林先生がお待ちしてますよ。お入りください」
一拍置いて、門が開く。この古めかしい雰囲気で自動開閉。いつ見ても笑える。面白い。
「井原先生。ぼーっとしてないでいきましょう」
「ちょっと清水さん。ぼーっとなんかしてません。私はこの門構えを見てただけですから」
ぼーっとしてたけど。すごいなあって。
門を抜けても家はまだ先。その前に素晴らしい庭が出迎えてくれる。秋の花が咲き誇って美しい庭。私は風流に疎いからよく分からない。咲いてる花も知らないし。でも、わびさび系な雰囲気は感じる。池とか鹿威し。後、枯山水っていうのかな。京都の名所みたいなやつ。あれと同じのまであった。
「私ね、ここの執事さんの声が渋くて好きなんですよ」
「あれ? 井原先生は声フェチですか?」
「ううん。違う違う。自分の仕事を全うしてる感じの声が素敵だと思って。なんていうか、光り輝くカラーを持っているみたいで」
担当はくすりと笑う。しかも、歳の離れた妹を微笑ましく見る視線。井原先生はまだ子どもだなあ。なんてフキダシが欲しいくらい。子ども扱いしないでくれー。とか思ってるうちは大人じゃないかも。
「あの、表情に出てますよ。私の成長を温かく見守るような目で見ないでください。そんなことしなくても勝手に成長しますから」
「おっとっと。分かりましたか。女性の方は鋭いですね。どうしてでしょう」
「そっちが分かりやすいと思いますね。あ、小林先生だ」
玄関前で小林先生が待ってた。担当と私は早足で駆け寄っていく。ただ、急ぎすぎてこけそうに。この飛び石め。恥ずかしいじゃないか。
「若いお嬢様を連れてきましたよ。小林先生。これで機嫌を直してくださいな」
担当もドナドナみたいに言うでない。私は自分の意志で訪れたんだ。
「おお、レイコちゃん。久しぶり」
「お久しぶりです。でも、私をお気に入りホステスの名前で呼ばないでください。私の本名にすごくニアピンしてますけど」
そういえば、自分の名前をまだ言ってなかった。私の名前は――。
「ギャー。お尻触られたあ。いつのまにか背後に。セクハラですよ。止めてください」
「俺じゃないから。んなことするのはこいつ」
それは分かってる。こいつは私の天敵。というか、小林先生宅における最大のネック。人間の女性が好きな犬だった。
「知ってますよ。ここへ来ると必ずやられますし。対策を立てようにもありません。相手は言葉が通じませんので。だから、小林先生に言ってるんです。ちゃんとしつけてください」
「しつけ? うーん。そんな真似はできないな。まず、こいつが俺を下に見てやがる。つまり、序列ではララの方が上。犬に負けるなんてな。厳しい世の中になったものだ」
「寝言はお休みのときに言ってください」
「厳しいこと言うねえ」
ちなみに、ララというのは犬の名前。なんたって少女趣味だと思う。小型犬ではあるけどね。しかし、犬にこういう名前をつけるのは流行りなのかな。陽子の友達の犬もこんな名前。
「でも、そこが素敵だ。うん」
軽くあしらわれた。しかも、担当まで笑ってる。
「よしっ。結婚しようレイコちゃん。いや、ミズホちゃんだったかな」
「重婚です。日本の法律では禁止なので。後、両方とも名前が違います。せめて片方だけでも当ててください」
「へえ、そうですか。名前を当てればいいと。では、僕と結婚してください。井倉先生」
へんな茶々を入れるな。担当のばかちん。しかも、名前でなく名字間違えじゃないか。
「やっぱり、二人は結託してたんですね。分かってましたよ。ここはアウエーってことですか」
「ううん。そんなつもりはないって。ほら、レイコちゃん。駆けつけ一杯。いいお酒だから」
目の前にお盆とコップが差し出される。量はほんの少し。ないに等しい。とっくりに入ってても少ないと思う。
「あのー、井原先生。僕の返事はどうなりましたか」
「では、いただきますね。小林先生」
「無視しないでくださいよ」
担当の情けない声を肴に飲み干す。アルコール度の高さもそんなにない。とても飲みやすかった。
「それと一応、もう一度言っておきますね。私はレイコじゃないですから。私の名前は――」
「行け、ララ。貴様の力を見せつけるんだ。ミズホちゃんを丸裸にしてしまえ」
「わー。ちょっと。なんでわざわざ焚きつけるんですか」
なんだろう。この見えざる神の力。私の名前を言わせない圧力が働いてる。
「しかも、忠実に言うことを聞いてくるし。ぎゃー。私に突っ込こんでこないで。後、担当もにやにやしないで助けて」
逃げる私。追いかける犬。鬼ごっこじゃないのに。
「井原先生。僕の胸に飛び込んできて。そうしたら助かる」
担当も大概にしてくれ。飛び込んだら、べつの餌食になってしまう。
「こんな優男なんかだめだよ。俺の胸に飛び込んでこい」
「えー。なんでそうなるのさ」
結局、私はララの餌食で妥協した。
「小林先生。やはり、あなたがしつけてるんですね。犬がセクハラするように。奥様からもそんなお話を聞きましたし。証拠だってあがってるんですよ」
小林先生は両手を上げてる。降参のポーズ。とはいえ、その瞳はイタズラしそうな気配だ。
「ミズホちゃん」
「瑞貴です」
「ああごめん。ミズキちゃん。でもね、俺はララを人懐っこい犬にしようとしつけただけ。それ以外の意図は何もないんだ」
弁明も甚だしい。実際に私へ襲いかかるように指示したよね。
「あれは君の聞き間違いじゃないかな。ほら、気にしないことだ。とりあえず飲んで。こっちもいいお酒だから。あ、ところでおつまみ買ってきたんだっけ? 何買ったの?」
もはや、聞いてもいなかった。ただ、勧められたお酒は飲んでおく。おいしい。なんか喉ごしが良く飲みやすい。
「小林先生。おつまみは適当ですからね」
買ってきたものを広げる。もちろんグレイトだ。
「グミに冷凍ピザ。インディアン風タコスとトマトジューズ。この組み合わせはなんだね」
「お気に召しませんでしたか? その他のおつまみも買ってきましたが」
その他は一般的なおつまみ十種類。
「いいや。そういう問題じゃないな。どうしてこれを買ったのか。小説家として考えてたんだ」
小林先生は急に真剣な表情へ。そのタイミングでララが吠える。
「おお、俺の念が通じたか。ララの好きな食べ物だからな。グミと冷凍ピザとインディアン風とトマートジュースは」
そんなことないよね。それにトマトジュースを飲ませて大丈夫か。
「しかし、本当に遠隔操作の領域ですね」
担当が口を挟んだ。
「いやあ。そこまではまだだよ。あんなことできるのは小説の中だけさ」
「小説でも、小林先生くらいの整合性は取れませんよ」
「またまたぁ。清水は口が上手いね」
「そうなんです。彼はいつもこの調子で」
私はここぞとばかりに主張する。
「だよな。こいつは曲者だ。気をつけた方がいい」
「ですね。小林先生」
ちなみに、ララは別室へ閉じこめた。鍵まで開ける優秀な犬なので大変だ。扉におもしを置いてフォローしておく。
「本当に楽しそうですね。二人とも。やっぱり正解でしたよ。どうぞ、小林先生」
担当が小林先生にお酌。本来ならば、自分がしなければならないかな。一番の下っ端だし。機を見てやっておこう。小林先生にも担当にも。
「お楽しみところ失礼します。旦那様の要望で軽食を作ってまいりました。ぜひ、みなさんで召し上がってください」
なんと。さすがはいい声の執事さん。タイミングが素晴らしい。ちょうどおつまみを切らしたところだった。
「すまないね。ありがとう。後はもう大丈夫だ。二人を送迎する時までゆっくりしておいて」
小林さんも威厳のある声で応対。こちらもなかなかだ。
「あの、私がなにか買ってきても」
「ミズキちゃんはお客様だぜ。だから、最初に頼んだのは余興さ。何を買ってくるかを楽しみにしてただけ。そういうこと。それと彼にも出番を与えないとね。俺が出不精で女房が旅行。これじゃあ仕事にならない」
おつまみを買わせたのは余興か。でも、たいして頭を悩ませなかったような。むしろ、その方が分析にはいいかもしれない。よく分かんないけどね。
「さあ、軽食も来た。ここでミズキちゃんの打ち合わせをしようか」
「え? 小林先生の打ち合わせは終わったんですか?」
「なあに、そんなのはとっくに終了したよ。俺と清水では、こっちが主導権を持ってるからね」
たしかにそうだ。打ち合わせという名の事後報告かも。
「今回はミズキちゃんの応援。ここぞとばかりに、好きなプロットを見せればいい」
「それは困りますよ。小林先生。こっちも仕事なんですから」
「そんなことで、作家の才能を潰したらどうする? 担当として目も当てられないからな」
「あの、私は自分にそこまでの才能は感じませんが」
私は気まずそうに言う。だって、浪人生の時に書いた小説が運良く通っただけ。勢いで新しい切り口を提供できた。正直な話、ビギナーズラックだと思う。売り上げだって一番いい。だから、今は生みの苦しみを味わってる。。もう小説家になって二年。いろいろと考えて書けるようになった。でも、変わった小説は書けるだろうか。その辺の自信はない。
「こらこら。ミズキちゃん。才能なんか俺だってないぜ。必要なのは運と運と運。それとあれだ。いつだって変わらずに書き続けられるかだな」
「運ですか」
「そうらしいですね」
たしかに、ビギナーズラックも運の範疇に入るかな。
「大御所が言うのだから間違いないでしょう」
「そうだ。その通り」
小林先生は日本酒を飲み干す。ちょうど、コップが空になった。私がお酌する。
「おお、ありがとう。ミズキちゃんは気が利くね」
「いえ、担当を見て気がついただけですから」
「謙遜だねえ。そんなことはないよ。よし。お礼にいいことを教えてあげよう。小説というのはなにか。そんな話だ。いいかい」
私はこくりと頷く。隣では、担当が私のコップにお酒を注ぐ。それを見て、お互いに杯を合わせた。
「いただきます。小林先生」
「おうよ。ミズキちゃん。それでは始めようか」
これまでこんなに深い話はしてなかった。いつもは楽しく迎え入れてくれて終わり。小林先生の話は面白い。とはいえ、それは日々の発見やうんちくに関する話。たとえて言えば、刹那的な楽しさかな。もしかしたら、あまり頭に残らないかもしれない。でも、今回はなんだか違う。そんな雰囲気を感じる。
「そうだね。まずは仮の話をしよう。たとえば、自分の頭の中にあるストーリーをきれいに整理できる装置があったと。そうしたら、ミズキちゃんはそのアイテムを使うかね」
「それはうん。やっぱり使いますよね。だって、いつも迷うんです。書きたいことがどんどん増えていくから。そうして、必要以上に膨れ上がってしまう。だから、上手くまとまらない」
「だよな。小説を書く人はだいたいそう。書きたいことがない人は書かない。要するに、書き続ける素養はある。ただ、まとまらない」
「はい」
そうだなと思う。一番難しいのは取捨選択。必要な話を見分ける能力だ。これは書く文章が増えるにつれて、大事だと感じた。
「でもね、そんなことを考えてもだめなんだよ。本当に。だから、書きたいことは好きなだけ書けばいい。書くうちに膨れ上がった話も過不足なく使う。そういうもんだ。それに君が書かないとその物語は死んでしまうんだぜ。つまり、誰も知らない物語。誰も知ることのできない物語になるんだよ」
誰も知らない物語。私にはそんな話がいっぱいある。でも、ストックとは違う。だいたいは捨ててしまう。思いついた話を磨き上げる努力もせずに。そういえば、デビュー作は書くことがないってくらい書いたっけ。もっとも、そこまで話が思いつかなかったせいだけど。ただ、あの感覚が戻ってくると違うのかな。などと少し考えてみた。
「計算なんてしてるうちはだめだ。文章は計算と真逆だから。まあ、これは否定されるかもしれないけどな。とくに論理で小説を構築していく人には。逆に感性の人は感性のまま書けばいい」
小林先生は持論を語る。
「で、ミズキちゃんは感性だよね。編集者から見てもそうだろう?」
担当に話を振る。さて、どんな返答するか。考えるまでもないよね。
「間違いなく感性ですね。エピソードはたくさんありますよ」
「おお、それは面白そうだ。酒の肴にしよう。これが終わったら後で話してくれ」
「はい。分かりました」
くそう。担当め。大御所の機嫌を取るために私を売るのか。って、まあいいけどね。べつに不都合なんて一つもないし。私は私の感じるままでいればいい。
「で、ミズキちゃんには誰も知らない物語があるか? 今すぐに思い浮かぶ話。いろんな事情があって書いてないやつだ」
私の中にある話。誰も知らない物語。もちろん存在してる。それもタイミング良く思い出したんだ。最近は本当に忘れてた。窓際で見ていた彼の話。いろいろと不都合があって取りやめたんだっけ。おそらく、大衆受けしないだろう。あのアンストッパブルカラーな彼の蹉跌。
「蹉跌」
私はぽつりと呟く。
「さてつ。砂の鉄のことかい?」
「違います。小林先生。挫折の方の蹉跌です」
「ほうほう。それはまた。深い話がありそうだねえ。うん」
腕組みをして、満足げな表情を浮かべる。何かを期待してるようだった。
「深い話ではないのですが。でも、私にだって誰も知らない物語があります。私自身でさえも忘れてて。ただ、今はどうしても書きたい話なんですね。題名はアンストッパブルカラーの蹉跌。彼の苦悩と挫折についてです」
私は鞄から資料を取り出す。正味、三十分程度でまとめた話。これは普通にまとめすぎた。だから、何の見栄えもしない話になるんだ。しかも、その話には申し訳程度で彼が登場。特徴的なカラーを抜いて脱色した彼である。
「井原先生?」
ビリビリビリ。ビリビリビリ。
「これは止める。書きたいことじゃないから」
資料をすべて破く。これ見よがしな行為といってもいい。担当も驚く。でも、構わないよね。酔いだってことにすればいいし。だいたい、書きたい話じゃない。そんなのは誰も知らない物語でいいはず。でも、書きたい話は誰も知らない物語にしてはいけない。大御所の小林先生が言ってるんだから。
「いいねえ。しかし、ミズキちゃんがパフォーマーだったとは。君はなんか魅力的だな。そこまでかわいいとか美人ではないけど」
「小林先生。面と向かってそんなことを言わないでくださいね。それと、担当は爆笑しすぎですから」
「あー、すいません。井原先生」
まだ笑ってる。やっぱり、私は二人のおもちゃかな。まあ、分かりきったことだけど。
「ともあれ、井原先生。今の資料を破いたってことは期待していいんですね?」
「いいですよ。ただ、さらに清水さんの協力が必要になりますからね。話をより良く表現するためには。覚悟しておいてください」
「はい。分かりました」
書きたい小説。たぶん茨の道かな。でも、たしかな道だよね。などと不確定に思う。おいしいお酒を飲みながらも。




