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タイミング良く電話が来て。そこでしっかりと覚悟を決められた。からくり屋敷の表札を見れば、名前は樋口。ビンゴだ。つまり、あの危ない彼も樋口。三波の肉親。おそらく、お父さん。そんなふうに推測ができる。
さて、この後の行動はどうすべきか。翠と佐々木くんへ連絡。そして、二人が来るまで待機。これがセオリー通りだろう。なのに、僕の心の中は渦巻く。焦りに似た不安。さらに、すごく嫌な予感。今すぐ行かないと。なんていうへんな感情だ。胃の辺りがきゅっとする。
ともあれ、二人に連絡はしておく。三波の家と思しき場所を発見したと。たぶん、対策も立ててくるだろう。類まれなる集中力で、超人的に頭が働く翠が。僕の幼馴染はきっと上手くやる。
「誰か、誰かぁ!」
突如。からくり屋敷から人が出てきた。辺り一帯にこだまする叫び声。何が起こったんだ。中で異変か? 真っ青な女性が僕に駆け寄ってくる。血の気が失せた表情。尋常じゃないくらいの脂汗。体も震えが止まらない。とてもじゃないけど、正気には見えなかった。
「なにが、なにがあったんですかっ」
門でへたり込む女性。顔を背けて、屋敷を指差す。扉は開けっ放し。まるで侵入者を誘い込むかのようだ。
「け、警察。呼んで。三波お嬢様にナ、ナイフが。もう息してなくて」
なんだよそれは。そんなことってありか。
「嘘だろ。ナイフ? 息してない? そんなことあるわけないじゃないか」
女性は首を振る。問いただしてもその動作だけ。埒が開かないので携帯を女性へ。これで彼女が警察に連絡を取るはず。その前に、僕は三波のところへ行かないと。ナイフがなんだ。息してないって知ったことか。それに三波を引き上げなくてはいけない。下から上へ。とにかく上へ。強い重力を回避して、下へ引っ張られないように。そうやって堕落を防がないといけない。
「三波後輩はどこに?」
「ち、地下。ずっと奥で。床一面は血だらけ」
片言の言葉が断片的な情報を伝える。これだけでは何も分からない。すぐに行かなくては。
「とにかく助けないと。助けないと。助けないと。絶対に。絶対に」
ああ、リズムが乱れていく。雨が足りない。雨が欲しい。心を平静にするあの音。今の僕に必要なんだ。しかも、僕の中に潜む罪障、無力、喪失といった感情が暴れてる。こんなタイミングで。だから、今は止めてくれよ。負の感情でいっぱいにしたくないんだ。
とはいえ、これは僕が二年半前に家族を助けられなかったせいか。父も母も妹の加絵も。死ななくて良かったのに。絵を描いたのがきっかけ。僕がなにも考えずに絵を描いたせい。おかげで、パレットや色彩辞典などが無くなり。極めつけは赤いチューブ。中身が全部消えていた。さらに、画用紙へ描かれた人殺しの文字。人殺し人殺し人殺し。人殺し連鎖。赤い人殺し。
屋敷の中は薄暗い。おかげで、夜みたいな錯覚を抱く。でも、そこは気にせずに下へ。地下と形容できる細い階段を下りていく。ただ、その階段は降りても降りた気がしない。なぜだろう。不思議だ。これがメビウスの輪? 幻惑でもされてるのか。
「こんなんじゃあ困るんだよ。三波を助けられないじゃないか」
バンっと壁を叩く。すると、その拍子だった。なんと、壁がスライドしていく。そして、その場所から細い道ができあがる。
「なんだこれは」
迂闊に侵入したのは間違いか。などと思っても後の祭り。てか、そんな場合でない。まずは三波を助けないと。もし失敗したら、僕がいけない。今日、山で手を離してしまったのも遠因。あそこから歯車が狂いだした。
進んだ道は段々細くなっていく。しかも、ぐるぐると螺旋状。平衡感覚を失いそうに。どれくらい歩いたか分からない。その感覚がなくなりつつある。童話みたいに、道しるべの目印をしておけば良かった。
とはいえ、やがて一つの扉にたどり着く。ここは明らかに隔離された場所。印象としては隠れ部屋といってもいい。普通では辿りつけないと思う。ただ、今回は偶然が重なってここまでこれた。まるでそういうふうに仕組まれたかのようだ。そんな気さえしてくる。
「あれ?」
急に鼓動が速くなる。明確なリズムが刻めない。バラバラで整わない。第六感というべき感覚。僕には備わってないはずなのに。へんなエマージェンシーが訴え出す。ここを開けてはいけない。開ければ、取り返しが着かなくなってしまう。
すでに、最初の勢いは消えてしまった。それもそうだ。あんだけぐるぐると漂わせられたから。平衡感覚もおかしくなる。
「三波後輩?」
僕は呼びかける。あの女性は何を言ってたか。とても重大な情報を聞いたのに。断片的にしか覚えてない。いや、断片的でさえも頭の中へ入ってない。とにかく、三波を助けないと。彼女を助けて引き上げるんだ。そのために一歩踏みだし、扉を開ける。
「うっ」
開けた瞬間、部屋に充満する臭気が流れだす。
「……」
この臭いは知っている。というか、覚えてる。忘れたかったけど、そうはいかない。体に染み着いて離れない血の臭い。昔の衝撃的な光景が蘇ってしまう。
目が部屋の暗さに慣れてきた。何も見えない暗闇から、少し視認できる状態へ。でも、見えなくて良かったんだ。なぜなら、僕が目の前の現状を把握してしまうから。そうでないと現実逃避ができない。こんな事実は認めたくないんだ。なぜ。なんで。どうして。遅かったのか。そんなはずないのに。こうもタイミングが重なるなんておかしい。また、助けられなかったのか。僕が。思いつく限りの疑問が募っていく。
「ああ、三波後輩」
三波は素性を明らかにしなかった。高校生でないのに、高校生のように振る舞って。僕が通う学校の屋上で会合。放課後限定で。しかし、それがどうしたっていうんだ。僕と三波は明らかに繋がっていた。否定的な幸福を糧にして楽しく過ごした。結局、これはどこで崩れたんだろう。言うまでもない。山へ登って、三波の手を離したから。僕にとってはあそこが明らかに分岐点。とはいえ、三波は前から続いてたと思う。虐待されてる事実を愛情だと考えてしまうほどに。
僕は三波に近づく。彼女は部屋の奥で壁に体を預けてる。すでに弛緩しきってて、生命の息吹を感じられない。さらに、白を基調とした服が真っ赤。いや、むしろどす黒い。本当にえげつない色彩。まだらにワンピースを染めている。刺さったナイフも現実性がない。たちの悪い芸術みたいだ。本当に嘘のような状況。いまだに信じられなかった。
「僕は、僕は。やっぱり救えなかったのか」
そして、こんな状況なのに涙一つ出てこない。なんて枯れているんだろう。とても悲しくて悔しくて。衝動的に叫びたいほどなのに。僕の感情を司る機能はどうなってるんだ。全然意味が分からない。三波。三波。三波。君の不思議な魅力をもっと感じていたかった。蒼い瞳の輝きを知りたかった。君の状況にもっと早く気がつけば。たとえ、君が望んでいなくてもそれが正解だったんだ。
ここでどれくらいぼーっとしてたか。さっぱり分からない。さまざまな感情が浮かんでは消えていく。時間の感覚はここに入ってからずっとない。完全に喪失。すでに、部屋の臭いも感じなくなってきた。それがこの場所にずいぶんと留まってる証左だ。
近くには魂のない三波。なのに、ただ眠ってるみたい。こう考えると、睡眠とは一時的な死。仮の死そのもの。などと考えても仕方がない。でも、こうしないと後悔ばかりが募っていく。後悔で押しつぶされて、足下から崩れてしまう。僕は三波を助けられなかった。その事実が重くのしかかる。
「マク! しっかりしてよ! マク」
「三波後輩?」
「三波じゃないよっ。私は翠。鮫島翠。マクの幼馴染。三波さんはもう死んじゃったの。マクの隣にいる彼女は生きてないの。自分で自分の心臓にナイフを刺して、生を絶ったの」
三波……もとい、翠が必死に説明してくれる。気丈に振る舞いながらも、両目からは大粒の涙。ああ、翠だ。彼女は泣き虫だった。表情を見ても堪えきれてない。涙がぽつぽつと床に落ちていく。でも、それを見てさらに悲しくなった。
「なあ、翠。僕はどうしていつもこうなんだろうな。今回もまた救えなかったよ。二年半前も一年前も。いつも大事なところで手遅れになってしまう。どうしてかな。いつだってそうだ。これからもずっと変わらないのかな。なんか、そんな気がするよ」
翠に思いの丈を話す。すると、翠がまた大粒の涙を生産。しかも、その涙をこすりつけるように抱きつく。泣き顔を見られたくないんだろうか。そんな悠長なことを考えてる自分がてんでおかしい。ものすごく薄情者な気がした。
「マク。それは違うよ」
すぐに離れた翠が、僕を見る。視線を固定。完全につかまってしまった。
「絶対に違う。私が断言する。単にマクはね、荷物を背負いすぎてるの。ほら、前に私へ言ったでしょ。私に自分の荷物を預けるつもりはないって。その時、私はマクの言葉に従った。でも、それじゃだめだよ。そんなのはいけない。もっと軽くしないと」
「ふざけんな。そんなこと言ったって、全然だめじゃないか。もう、僕の家族はいないんだよ。それに山内先輩とだって、道を踏み外しかけた。しまいには、三波後輩も助けられなかったんだ。なあ、翠。そこにいる三波後輩は僕が助けられなかった結末だぜ」
八つ当たりなのは分かってた。それも言いがかりとも取れるレベルで。なのに、どうにも止まらない。感情の抑制が利かないようだ。とにかく、いろいろとありすぎた。しかも、超特急で信じられない展開。
「だから、それが違うの。マクの考えすぎ。罪悪感を持ちすぎだって。ねえ、知ってる? そういうのはサバイバーズ・ギルトって言うの。マクみたいにさ、周りの人が死んじゃったのに自分が助かった状況。彼らのほとんどはこう言っているよ。助けられた命を見捨てたと」
「そんな……でも、僕は」
「ううん」
翠が大きく首を振る。そして、なだめるように言う。
「二年半前もあの状況では不可能だった。一年前もマクが助けられなかったわけではない。そしてさ、今回だってマクは仕方なかったんだよ。そう。誰のせいでもない。誰かが責任を負うこともない。しいて言うなら、そんな運命にさせた神様がいけないよ。そういうふうに決まってるストーリーが悪いの」
「神様か」
「ね。マク。三波さんのことを忘れてなんて言わない。でも、もっと客観的な見方をして。お願いだから」
話しながらも、大粒の涙を流す翠。僕はどうするべきなのかを分からない。




