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幼馴染の彼女にしておく  作者: トマトクン
第三章 『センチメンタル・アマレットシンドローム』
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15

「三波後輩。調子は大丈夫か?」

「はい。なんとか。ただ、空気は薄いような気がしますけど」

「そっか。とりあえず、こまめに水分補給をしておこう」

「分かりました」


 空気は澄んでいる。でも、薄くないと思う。というのも、標高自体が高くない。なので、三波の気分的な問題。間違いない。


「うーん。さっきまで絶好調だったのに。今はホントにきつい感じがします。ランナーズハイみたいなのはどこにいっちゃったんでしょうね」

「たしかにね。意識しても上手くいかない?」

「いえ。さすがに同じことを二回意識するのは面白くない気がして」

「ふーん。だったら、逆のバイアスがかかってるかもしれないな。調子が悪くなる方へ。どうも、三波は起伏が激しい状態を好んでるみたいだから」

「そうですね。好んでます。怖いですけど。千之先輩はどうです?」


 三波が聞くので考える。


「やっぱり分からないなあ。いや、でもあれか。僕はフラットの方が好きかもしれない。感覚的な問題だけど」

「はい。感覚的な問題ですよね」


 と、三波が言う。そして、ペットボトルのふたを開ける。立ち止まって一口。のどをしっかり潤す。その瞬間、首に一筋の汗が伝った。


「あっ」

「どうしました? 千之先輩」

「いや、三波後輩。さっきの違和感に気づいたんだ。この飲み物の」

「え? そうなんですか? 珍しいラベルとかではなくて?」

「そうだよ。違和感はこれ。このペットボトルさ、やけにここが膨らんでるんだ。てか、全体的に膨らんでるかも。うん。そうだ」


 やっぱり膨らんでる。ペットボトルの飲み口の少し下が。ただ、不自然とは言い切れない。自然とも言える。どちらにも当てはまる程度の膨らみだった。


「しかし、ホントですね。うん。言われてみないと気がつきませんでした。これは気圧の関係ですか?」

「うーん。分からないな。缶の膨張は知ってる。ただ、ペットボトルはどうだったか。クエスチョンマークがつく」


 そもそも、気圧で膨らんだか。それすらも定かでない。


「とにかく、気になってたことが判明できたな。良かったよ」

「ですね。千之先輩はわりと引っかかるタイプみたいですし」

「言うなあ。まあ、実際にそうなんだけどね」


 水分を取ってから、三波は調子を取り戻す。やはり、水分の摂取はいい影響を与える。なのに、昔は運動時の水分が認められてなかったらしい。これはどうなんだろう。


「あの、千之先輩。目的地まではどれくらいですか? 残念ながら私、この雑誌を見てもさっぱり分かりません。きっと、現在地を把握できないせいですが」

「どれどれ。ちょっと見せて」

「はい。どうぞ」


 休憩処で約半分。でも、ここから険しくなっていく。とはいえ、今回は初心者向けのハイキングコース。そこまで大変ではないはず。しっかりと休憩を取れば、乗り切れる程度の山。よほど、体力に不安がない限りは。それにもしだめなら、交通手段を使えばいい。少し道をずらすとケーブルカー。これで頂上まで一足飛び。もっとも、三波の目的は達成されないが。


 渡された雑誌を見て場所に目星をつける。今はだいたい七割。後、三割だ。


「これ見ると、傾斜が高い道と低い道があるよね。あ、たぶんさっき見た看板と同じだ。傾斜の高さで距離の長さに違いが出てくるんだよ」

「やっぱり、傾斜の高い方は距離が短いですよね」

「もちろん。距離で傾斜を低くしてるんだから」

「ですよね。で、こちらだと午前中に着きますか?」


 三波は傾斜が高い方を指し示す。


「午前中か。どうかなあ。たぶん、正午くらいだと思う。だから、午前中に着く保証はないな。ただ、こっちだと午前中には着かないよ」


 僕は傾斜が低い方を指し示す。


「そうですか。それなら、傾斜の高い方にしましょう。私、がんばりますので」

「オッケー。がんばろう。無理でもケーブルカーを使えばいいだけさ」

「あう、千之先輩。それは絶対に使ってはいけない最後の手段ですので」


 三波はここから見える電線を睨む。車両は見えないので、パンダグラフの動きを目で追う。


「三波後輩はそこまで覚悟してるんだ」

「はい。そうです。結果はどうなっても構いませんが、最善は尽くします。これは自分の中の賭けみたいなものですし」

「そっか。で、それは僕がもらえるプレゼントと密接に絡んできたり?」

「え? あ、えっと。そこはどうでしょうか?」


 あからさまで分かりやすい。三波は明らかに動揺してる。誰が見ても分かるほどに。


「ホント、三波後輩は面白いなあ。魅力的でいじりがいがあるよ」


 まさしく、責任のない楽しみ方。


「うう、やっぱりいじわるしてたんですね。あーもういいです。私は頂上でプレゼントを渡したいと思ってますから。今、断言しました。これで文句はないでしょう」

「えっと、三波後輩。ちょっと躍起になってないか? また、テンションが振り切れてると思うんだけど。まあ、とにかく期待してるよ。後、僕はもらう立場だ。文句なんて一つもない」

「千之先輩、そこはしっかり主張しないとだめですよ。私があげない可能性もあるんですから」

「え? そんなパターンもあるの?」


 僕はおおげさに驚く。


「もちろんあります。あげないパターン。でも、いつかは絶対に渡したいですね。私が納得できるタイミングで」


 そこは三波なりのこだわりがあるらしい。


「あ、そうだ。私、いいことを思いつきました」

「んん?」


 三波の思いつきはおかしな可能性がある。だから、思わず身構えてしまう。対する三波は、こっちの様子などお構いなし。自分のバックをさぐってる。そこから何が出てくるのか。まさか、鳩とか飛び出したりはしないだろう。


「あったあった」


 三波が取り出したもの。それは小型のトランシーバー。などと思っていたらラジオだ。にしても、やけにトランシーバー似のラジオ。一見しただけは分かりにくい。


「千之先輩。これ、預かっておいてください」

「このラジオを?」

「はい」


 三波が頷く。


「もしかして、前に一人で山登りした時に持ってちゃったやつ?」

「その通りです」

「でも、なんで?」

「あ、そうでしたね。実はこのラジオ、私にとっては、赤ちゃんの毛布掛けみたいな存在なんですよ。つまり、それくらいの覚悟でプレゼントするという意思表示。私の中の賭けは必ず成功する。成功しなくてもべつのタイミングで渡す。ここまでの意気込みです」

「へえ、そっか。だったら預かっておくよ。うん」


 僕は三波からラジオを受け取る。丁重すぎるくらいに。なぜなら、これは三波にとってかけがえのないもの。そんな存在。だから、僕は三波の魂の一部分を受け取った気がする。











 十一時半少し前。急に気温が上がりだす。それも肌で暑さを感じるくらいに。天気予報はおそらく外れてる。なぜなら、ここまでの暑さは予想してない。今年の冷夏に相応しくない暑さだ。


「はー。はー。あの、千之先輩。傾斜って相当堪えますね」


 すでに消耗戦。三波の体力はだいぶ奪われた。この暑さと高さに。僕は三波の手をつかんで引き上げていく。下から上へ。低いところから高いところへ。なんとしても越えなくてはいけない。それがなんなのかは明確に分からないけど。でも、どうしても突破する。そういう意地みたいのを糧にして、体を動かす。


「なんだか、下へ引っ張られてる気分です。かの有名な蜘蛛の糸のお話ではないですが」

「ああ、地獄の釜に引きずられるやつか。しかし三波後輩。そこまでいくと大げさじゃないか?」

「いえいえ」


 三波はぶんぶんとかぶりを振った。


「そうしないと、どんどん引きずり込まれていきます。下へ下へ。砂だらけの蟻地獄へはまっていくように。そして、しまいには取り返しがつかなくなるんです。これが強迫観念だとしても、考えは変わりませんよ」


 今のは、僕と三波が屋上でした話と同じ。あのへんなダンスを踊った日、三波は自分を引き上げてほしいと叫んだ。助けだって呼んでいた。さらに、自分でも最善を尽くすと誓った。でも、どこかで引きずり込まれていく自分を肯定。つまり、堕落の認め。それはとても怖いことだけど。そうなるなら仕方がない。そんなスタンスだと語ってくれた。


 だからこそ、僕は三波を引き上げたいと思う。そう。二年半前はただ単に流された。一年前は拒絶した。たとえ、その当時は選択の余地がなかったとしても。自分から進んで行動は起こしてない。流動的で主体性を失って。おかげで、ずっと心の内側に潜む囁きに気を取られた。罪障、無力、喪失。こんな凝り固まった感情。ただ、最近はわりと感じてない。それは三波が引き上げてくれたから。


「よいしょっ。よいしょっと」


 僕は三波を引き上げる。その拍子に視線を夏の空へ。一瞬だけ月が見えた気がする。本当にほんの一瞬。もしかしたら、錯覚かもしれない。だって、真昼の月はそうそう見られないんだ。この時間帯はいつだって太陽の影響力が強い。


「あっ!」

「千之先輩っ!」


 なぜか、繋いでた手が離れる。三波が足を滑らせたのか。なんだか嘘みたいに。下へ引きずられていく。僕だけを取り残して。


「み、三波!」


 スローモーション。アニメの駒送りを見てる感覚。現実感がまるでない。あれ? デジャヴだ。なんか、どこかで同じ体験をした。どこなんだろう。わりと最近の出来事。あるいは夢の中で起きたか。とにかく、感覚だけが残ってる。具体的なエピソードは思いつかないのに。


「三波後輩、大丈夫かっ!」


 僕は急いで下へ降りていく。すぐに、三波の近くへ駆け寄りたい。早く声を掛けるべきだ。そして、動揺をなくさせよう。そればかり考えていた。


「千之先輩。来ないで」


 だから、三波のかすれた声は左から右へすり抜けていく。


「お願い。お願いだから来ないでください。私を見ないで」




 ――この瞬間は後になって思う。僕と三波の関係における分水嶺だったと。あの時、僕がもう少し冷静ならどうだったんだろう。ここまでの状況にはなってなかったか。それとも、運命の必定的なものから逃れられなかったか。すでに、議論の余地はないことだが。三波はいないから。




「み、三波後輩……」

「千之先輩。だから見ないで、と」

「ごめん。うん」


 上から下への落下。結構な衝撃だ。そのせいで薄手の白い服が破けてる。痛そうな傷跡。


「でも、その傷は今できたやつじゃないよね」


 めくれ上がった太ももの付け根近くに無数の傷。傷、傷。自然な擦り傷でなく人為的な傷。巧妙に隠された場所へたくさんあった。おびただしいほどで痛々しい。


「……」 


 沈黙の中、僕は悟る。制服のスカートの丈が長い理由も。罰を受けることは、幸せだという三波のへんな話も。こういうのはすべて密接に繋がっていたと。


「いやですねー。千之先輩。びっくりされるのは分かりますが。でも、たいしたことないんですよ。だって、これはお父さんの愛情ですから。お父さんいつも言ってますよ。痛みの罰は愛情。だから、問題ありませんって」


 この期に及んで、加害者を守ろうとしてる。加害者は間違いなく父親だろう。


 三波の蒼い瞳が僕を射抜く。自分の言葉を肯定してほしい気持ちで見続ける。とはいえ、それはできない。できるわけがなかった。


「三波後輩」


 しかし、僕の口からこの後の言葉がでない。これは迂闊なことを言えない意識のせいか。まるで口を縫いつけられたかのようだ。


「とにかくさ、今の怪我は?」


 そして、逃げてしまった。なのに、三波はほっとしてる。おかしいなと思う。


「怪我。はい。大丈夫です。少し痺れてるだけ。たぶん、時間がたてば元に戻ります。二、三分くらい。ただ、この服は修繕不可能でしょうね。それと千之先輩。あまりセクシーではなくてごめんなさい。もう少しチラリズムの極意を勉強しておきます」


「いや、そこは問題にしなくてはいいから」


 ともあれ、三波は怪我の状態を把握。このことから恒常的に危害を加えられてる可能性を想像。嫌な感覚が駆け巡っていく。なのに、三波はこの事実をなかったことへ。冗談でごまかそうとする。はたして、そのストーリーに乗っかるべきなのか。考えても分からない。どちらにも正解はなさそうだ。いや、そもそも正解なんてない。


「えっと、三波後輩。とりあえず、予備のズボンを貸す。それを上から履いてさ。いや、違うんだ」


 やっぱり、見て見ぬ振りはできなかった。


「その前にだよ。その怪我。怪我は大丈夫なの? なんか手助けすることない? なんでもいいから。どんなことでも構わないから言ってくれ」


 僕は二重の意味で聞く。現在の状況とこれまでの状況。むしろ、現在よりかは隠された部分の実態が知りたい。知ることで役に立てる可能性があるから。


「千之先輩。ご親切にありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。先ほど言ったとおりですって。すぐに治りますから。そうしたら山へ登りましょうね」


 なのに、三波の答えは拒絶。僕に残されたすべはなかった。


「そっか。うん。でも、無理しなくてもいいから。ほら、近くにロープウェイもある」


 一応、念押ししておく。もちろん、否定が返ってくると思ったが。


「そうですね。はい。これ以上のことがあって、迷惑が掛かるといけませんし。ここは無難に行きましょう。賭けも負けちゃったことですしね。プレゼント渡しは次の機会にします。だから、私のラジオはもう少し預かっておいてください」

「……分かったよ」

「ありがとうございます。千之先輩」


 三波が眉根を寄せて笑う。でも、どこか寂しそうな表情だった。

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