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『こんにちは。千之先輩。まずは新しいポストイット。これを買ってくださって、ありがとうございます。しかし、なんとも風変わりな代物ですね。色はオレンジですか。後、こんなにたくさん書けるのは初めて見ました。とても大きくていいです。私、伝えたいこともたくさんありますし。あ、ごめんなさい。最初の出だしを間違えましたね。でも、消してしまうのもあれです。なので、このまま書いていきましょう。
暑中お見舞い申し上げます。厳しい暑さが続きますね。いかがお過ごしでしょうか。なんちゃって。どうです? 私、このフレーズを使ってみたかったんですよ。こういう形でないと使えませんしね。対面では違うでしょう。とはいえ、ポストイットでもどうかと思います。普通はハガキですしね。時期だってずれてるかもしれません。その辺のところはよく分かりません。
さて、千之先輩。七月に入ってから、雨が降りませんね。おかげで、お話しできなくて寂しいです。夏って結構雨が降るイメージ。そう。ゲリラ豪雨的なやつです。あ、そうか。だから、会えないんですね。納得しました。一定期間の雨が降りませんから。ていうか、すでに雨は関係ありませんでした。いいお天気でも会ってましたし。でも、最近は千之先輩に大切な用事が入ってると。もちろん、そちらを優先してください。六月は雨の日以外でも、待ち合わせが多すぎました。この辺で調整です。
ところで、あれは六月の初めくらいだったかな。私がはじけちゃって、へんなダンスを披露した日のこと(今、思い出すと踊りだしたいくらい恥ずかしいですが)。あの日、千之先輩は私にプレゼントをくれました。私に内緒で。そうです。菫の造花。あの時、私は本当に嬉しかったんです。なんてお話はたくさんしましたよね。とても感動したと。最終的にはしつこいとまで言われましたね。
それでその菫なんですが、やっと置き場所が決まりました。部屋の窓際で月が反射する場所。絶好のポジションなんです。これが月明かりに照らされてきれいに輝きます。もう不思議なくらいに。私の家が普通とは違う。ここも影響していそうですね。斜光の角度に工夫が凝らされてる家なので。
とにかく、私は自分の好きな菫の花を見つめられて幸せです。しかも、月明かりとマッチングする置き場所まで見つけました。もう鬼に金棒ですよ。金棒は鬼にもたれたら、最強になります。向かうところ敵なし。つまり、私はそんな心境なのです。誰も私に太刀打ちできないというか。ごめんなさい。意味分からないですよね。なんとなく、察してくれたらと思います。適当なフィーリングで。また始まったか。などという気持ちを抱いてもいいですよ。だって、その通りですから。
というわけで、この辺でお暇させていただきますね。こんなに書いてもポストイット二枚分。すごいです。それでは、千之先輩にご加護がありますように』
自室のイスに座って、全文に目を通す。へんな末文にほくそ笑んだ。相変わらずの三波節。不思議な感覚を抱く。まさしく、始まったと表現できてしまう。
「にしても、本当に手紙みたいな使い方ができるとは」
僕はもう一度、本文を読み返しながらつぶやく。
大きなポストイット。色はオレンジ。ラッキーアイテム的な気持ちで買ったやつだ。まさか、ご登場願うとは思わなかった。ただ、事情も事情である。幼馴染のストーカー対策の件。僕と佐々木くんが、翠と下校すれば、仕方がない。放課後に屋上で会えなくなるから。他に連絡を取る方法がないと思う。いや、正確にはいい方法がある。たとえば、携帯番号を教え合うとか。屋上以外で会うのもいい。ただ、それはおかしい気がした。自然の法則から外れるような違和感。なぜだろう。三波と屋上以外の場所で待ち合わせてはいけない。もし仮に会うならば、三波を下から上へ引き上げる。この作業をしないとだめ。そんな強迫観念にまで昇華していた。
ともあれ、このやり取りは久しぶりだ。最近はもっぱら屋上で歓談。雨の日が基本で晴れの日も会ってた。だから、一ヶ月近くも離れてる。文章が書けるか。三波に合わせれば、結構な文量。でも、思いついたことを書いていい。ポストイットとはそういう使い方だ。そんなに気負う必要はないかもしれない。
『暑中お見舞い申し上げます。三波後輩。
メッセージは読ませていただきました。三波後輩の変わらない不思議さは健在ですね。って、なんだか、遠くの友人みたいなあいさつ。実際は二週間会ってないだけですし。それにやり取りだってしています。僕と三波後輩が出会う前はこれが基本でしたよね。でも、またポストイットを使うとは思いませんでした。ちなみに、このポストイット。ラッキーアイテム的な気持ちで買ったんですよ。使う予定はあったかな。なんて使いつつも思ってます。だから、不思議で仕方がありません。
さて、菫の造花をポケットに忍ばせたのも一ヶ月前のこと。いまだに置き場所を定めてなかったとは。三波らしいエピソードだなと。大事にしてくれるのは嬉しいです。ただ、そんなにいいものではありませんよ。むしろ、お礼のストラップの方が希少価値がありそうで。デフォルメされた愛らしいニワトリのキャラクター。携帯につけてたら、幼馴染に羨ましがられました。彼女はニワトリではなく、ネコが好きなんですけどね。
あ、そうだ。三波後輩。また、ポストイットに描いてください。あのニワトリを。君の絵は写実的でとても上手です。最初に肉の絵を描いた時も驚きましたよ。もっとも、漢字でなく絵を描いたことも含まれますが。できれば、描いてる瞬間も見たいですね。その方がより絵の凄さを実感できますから。
ただ、そのためには直接会わないといけません。ですが、用事の見通しがまだついてなくて。屋上へはもう少し先になりそうです。なので、何回かはこういったやり取りを楽しみましょう。三波後輩も書いてましたよね。六月の分の調整ということで。
それではまた。三波後輩にもご加護がありますように』
ポストイットは給水タンクに貼っておく。とりわけ、同じ場所に。感覚では寸分違わぬつもりだ。人二人分のスペースの手前。目につきそうで目につかない。気をつけないと分からないと思う。色がピンクやオレンジでも関係ない。本当に意識しないと、ただの風景として埋もれてしまう。
『お返事ありがとうございます。千之先輩。
というわけで、秘密のやり取りが復活ですね。休載期間はわずか一ヶ月。スピード対応です。にしても、久しぶりのやり取り。会ってお話しするのとは違う良さを実感しました。電話やメールなんかと異なるのもミソですね。待ってる時間だって、適度な頃合いのような気がします。また、楽しみましょう。
今日はリクエスト通りに絵を描いてきました。三枚目にたくさん描きましたよ。ご期待に添えられる絵かどうか分かりませんが。とりあえず、私の好きなものを並べてみました。菫、睡蓮、蝸牛。もちろん、鶏も。しかし、こうして並べると滑稽ですね。関連性がまったくありませんから。いえ、一応ありました。私が好きなものという関連性。あってないような関連性ですけれど。
ところで、千之先輩。先輩は絵に造詣が深かったりしますか? 前に私の絵を見てた時も、的確な指摘をしてくださいました。私の絵の特徴も一発で見抜きましたね。写実的だと。ただ、こうなったのは親の影響が大きいと思います。正確な設計のデッサンを間近で見てますから。そして、千之先輩も似たような香りがします。どうなんでしょうか。もしそうであれば、千之先輩の絵も見てみたいと思います。あれだけ器用ですし、絵を描くの上手いのでしょう。私と違ったタイプの絵が見られそうな予感がします。
などとおねだりしたところで、一つ昨日のお話を。
実は昨夜、星を見に行きました。ラジオとおもちゃみたいな天体望遠鏡を持って。私が嫌いだと公言してたあの地元の山です。屋上から山の稜線が良く見えるあそこ。本当に衝動的な気持ちで向かったんです。ちなみに、ハイキングコースとしてはうってつけ。でも、私は高い所まで行けませんでしたね。上へ行くための力がなくて。私は女の子。上へ上へ。必死に足を進めました。でも、重力が強くて敵いません。まるで下へ縛りつけられてるみたい。そんな錯覚すら抱いてしまいます。
結局、適当な場所を見つけて諦めたんです。ただ、そこは星が見える場所で。最近のいい天気も味方しましたね。おかげで、よく見えたんです。なのに、不思議とへんな感覚も芽生えてきました。なんでしょうね。太陽と月ほどに魅力は感じない。だって、彼らは固定してる。太陽と月は動く。実際はどうなのか分かりませんよ? たぶん、動いてるんでしょう。でも、星は私が焦点を定められないから分かりにくい。すべて固定に見えてしまう。無論、これは星の知識がないせいかもしれません。理科は苦手です。フレミングの法則も怪しいのですから。
ともあれ、私は期待したほどの満足感は得られませんでした。考えたよりも山を上れなかった。これも影響してると思います。悲しいことに。あの衝動的な感情だってしぼんでしまいました。一つ新たな発見をしたおかげで。不思議ですよね。でも、そういう事柄って多いような気がしませんか? 知っていくほど冷めてしまう。知らない方が断然いい。なんだか、それこそが真理のような気がします。ひとくくりにしてしまうのはよくないですが。ただ、たくさんの体験と知識を身につけて。気がつけば、心は摩耗してる。必要以上に擦り切れていく。なんてことが起こりそうで怖いです。あまりにも幸せだと恐ろしい。これと似ていますね。
そんなことを月に照らされた菫を見て思いました。窓際で月を眺めた方がいい。それは内緒です。こんな私を千之先輩はどう感じましたか?
ちなみに、山へラジオを持っていった理由は分かりません。一度も使わなかったですし。無意識に選択して、判断を下したのでしょう。しかし、外へ行く時はよくラジオを持ち歩きます。本当になんででしょうね。全く使わないといってもいいのに。でも、分からない謎はあった方がいいと思います。そう考えるとなんだかわくわくできそうで。
それではまたですね。千之先輩にご加護がありますように』
全文を読み終わる。ゆっくりと目を閉じていく。胸中に由来する想い。それは複雑で解明できない。様々な感情が流れ込んでくる。絵を描くこと。太陽と月と星の比較。そして、知らない方がいいという真理。それぞれが大きなウエイトを占めてる。僕の内側に潜んでいる罪障、無力、喪失といった感情。エモーション。いつだって、にじみ出るように復活してくる。まるで少しずつ浸食していくたちの悪い有機物のように。いつまでも変わることのない現象。たとえ、一時的に忘れたとしてもぶり返してくる。ふとした拍子に。そういうのはすでに決まってる。あらかじめ定められた展開。覆すことのできないパターン。どこまでも強いられるドラマツルギー。そして、どこまでも変わらない結末への道標だった。
『絵と星と知識の憂鬱とか。三波後輩へ。
こんにちは。というのもへんな話ですが。書いてるのは夜ですし。でも、これを受け取るのは夕方。ただ、その時間帯にこのあいさつでいいかどうか。そこも微妙なラインですね。しかし、夕方受け取って夜に書く。朝は指定の場所に置く。すでに、決まったサイクルとなってきました。なんだか、交換日記みたいで面白いです。いや、交換日記そのものでしょうか。とにかく楽しんでます。
さて、三波後輩。昨日、君の絵を堪能させていただきました。ラインナップには少々の疑問を抱きましたが。まあ、そのおかしさもありですね。三波後輩であれば。にしても、絵の方はかなり上手いです。とにかく、物体を正しくとらえる眼が鋭い。やっぱり見立ては正しかったと。少し述べてますが、親の仕事の影響があるみたいですね。環境で絵が上手になるとは。驚きです。
ちなみに、あのおねだりは却下で。僕は絵を描きません。正しくは筆を折りました。もちろん、理由はあります。とにかく描きません。ごめんということです。その代わりに三波後輩の絵を存分に楽しみますから。許してください。
星の話は興味深かったです。違った考えが知れて参考になりました。僕はそういった感覚に触れてるのが好きですね。窺い知れない不思議な考えを教えてくれてありがとう。知識の憂鬱とかも同様に感じました。しかし、面白いですね。こういう発想に至るなんて。これも意識の差なんでしょうか。僕には三波後輩が大人びて見えます。一方で、とてつもなく子供じみて見える時もありますが。でも、そのアンバランスさがとっておきの魅力かもしれません。たぶんね。最後を濁したのは照れ隠しで。
あ、そうそう。後、山の話もありましたね。そこで三波後輩。一つ提案があります。用事が解決して涼しくなったらが適当でしょうか。その時、一緒に山の方へ行きませんか? 上へ上へ。高い所へ。屋上の景色を遮るあの山を踏破したいです。三波後輩と。たぶん、見える景色も変わってくるはずです。
それではまた。三波後輩にご加護がありますように』




