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図書室へ向かう廊下を歩く。人も音もこの辺だと少ない。場所が一般教室から離れてるせいか。もしかしたら、図書室の静謐な空気が漏れだすせいかもしれない。それが伝染する。おかげで、辺り一帯が静かになっていく。などというのは冗談だ。
ところで、一つ整理しようと思う。ここ一週間の翠との交流。これを挙げてみる。とはいえ、逐一覚えてない。印象的なことがあったか。記憶の回路もここまでが限界だろう。
「さて」
遡って、順々に思い浮かべていく。この一週間で特別なことはなかったか。深く考えてみる。でも、やはり特別な出来事はない。学校での会話も際立った変化なし。そんなふうに感じる。家に来てくれた時だってそう。翠はいつも通りに母の料理を持ち込んでやってきた。そして、軽い世間話とDVDを見て帰った。話もべつに核心を遠ざけてたつもりはない。自然な流れである。ただ、とりたてて印象的な会話はなかった気がする。後、前みたいに致命的なハプニングも起こらなかった。つまり、これまでと変わらない日常。それが一般的な日常とは異なるかもしれない。その辺の自覚は少しだけ感じる。
ともあれ、少なからず避けられてない。翠は避ける動作を何もしていない。対応に変化がないので、問題なく見えてしまう。だから、何も変わらなく感じた。
そういえば、今日はどうだったか。一応、思い返してみる。やはり、今日だっていつもと変わらない。ただ、昼休みにはいなかった。六時間目にいたかな? いや、さすがにいた。気持ちよく寝てた。体勢が窮屈そうだったのを覚えてる。
「…………」
ふいに大事なことを思い出す。それは最近の翠が昼休みにいない。どこかへ出かけてる。何の用だろうか。思いつくことはない。もしかして、翠の友達が心配してるのはそこかもしれない。そして、ここにとっかかりが生まれる。翠は昼休みだけではなかった。授業が終わってからも動きが早い。
たとえば、今日の放課後に加絵から電話があった。もちろん、僕は電話に出て話をした。だから、翠に注意してたわけではない。確証を持ってるのとは違う。あやふやな印象にすぎない。でも、思い返してみればこんな印象を抱く。翠はいつのまにかいなくなってた。あとかたもなく。相当に素早い動き。何らかの目的を持ってるに違いない。指摘を受けた後だと余計に感じてしまう。
「あ、マク」
「翠」
窓の斜光で正面が明るい。後光が射してる。おかげで、誰だか判別がつかない。分からない。普通ならそう。ただ、聞こえてきた声は知ってる。聞き慣れた声。しかも、誰一人として呼ばないあだ名。広まることもなかった幼馴染だけの呼び方。
「翠、そっちから来たってことは図書室に行ってきたんだ」
「うん。まあね」
本を抱えてる。一冊だけでなく三冊。さらに、その本は結構厚い。果たして、翠がこの本を読むのか。本が苦手だと薄いやつから読むと思う。いや、そんなことはない。翠はいきなり世界文学全集を渡したりしてた。
「しかも、本を借りたんだ」
「そうだよ。てか、マク。私が本を借りる事実にそこまで驚くとは。私は本が嫌いなわけではないんだからね。苦手なだけだし」
ニュアンスは同じ気がする。
「ところで、最近はずっと図書室通いなの?」
「かもね。ずっと図書室通いだ。でも、第二図書室で加絵に会ってるだけ。だから、正確には図書室通いでもないよ。だって、本を読みにいくわけではないし。ただ、図書館通いも潮時かな。そう思わされる出来事があったからね」
「ふーん。そうなの。てか、図書室通いなのは本当は知ってた。白々しいことを聞いたなあ。なんて自分でも苦笑だよ」
翠がサイドハーフアップの髪に手を置く。その拍子で本の背表紙が見えた。ちらりと一冊。正しい題名までは分からない。下半分が視界に入ったのみ。
――『○○○○○の対処法』。
たしかそんな文字だった。○の部分はカタカナだと思う。
「にしても、翠が本を借りるなんてな。世界文学全集とか?」
「え? 世界文学全集?」
翠がきょとんとした顔で驚く。どうも、当の本人は忘れてるようだ。やはり、思い出の強度には違いがあるらしい。ただ、いきなり世界文学全集を渡された立場も考えるべきだろう。あれにどうやって対処していけばいいのか。だいぶ悩んだ気がする。
「だいたいね、マク。なんでそんなのを探さないといけないの? マクは私が本を読まないの知ってるじゃない。忘れてた?」
「忘れてないよ。てか、本を読まないのに借りる。その行為は矛盾してない?」
「あー、うん。そうだよね。でも、ちょうどいい枕代わりになるかな」
「それはないって。断言しておくよ。まずさ、柔らかい本なんて存在しないぜ。そんな本はすでに本ではないんだ。本以外の何物でしかない」
「たしかにね。枕代わりなんかしないよ。これらの本は調べ事用。だからいいの。後、図書室にも用があったから」
「へえ、翠も図書室に用があったんだ」
「まあね、詳しく分かったらマクにも教える」
「ん?」
少しだけ違和感を抱く。それが分からない。軽いもやがかかってる気分だ。
「じゃあマク。バイバイ」
そして、翠は足早に去っていった。行動の素早さは目的があるはず。ただ、本当に僕が関係してることだろうか。詳細は不明。翠の友達情報で推測してるだけだ。
「あ、そういえば」
胸中でつぶやいたのではなく。普通に言葉が漏れてた。それは僕が大事なことを忘れてたせい。なので、今から追いかけるべきか。でも、翠の姿はもう見えない。目的地も分からないから追いつけないだろう。
僕は鞄の中を見返す。目につくのは折りたたみ傘。これを翠に返すべきだった。いや、違う。少し考え直す。まだ返すべきではない。相応しくないと思う。もっと、適切なタイミングがある。そんな気がした。おそらく、この感覚は正しいはずだ。確信はないのにそう思う。
第二図書室は奥にある。この場所は利用者が少ないのでちょうどいい。おかげで、隠れ家的な空気も醸しだす。一種の排他的で独特な雰囲気。その上で、拍車を掛けるのが本の存在。種類も古めかしい本が多い。同じ場所でずっと鎮座してそうだ。入れ替えや棚差し作業とかは行われてないと思う。
加絵の電話から少し時間が経った。理由は畠山さんや翠と話してたせい。もっとも、ほとんどは畠山さんとの会話。とはいえ、遅くなった事実に変わりはない。加絵には謝っておこう。一つの決心を伝えることでうやむやにしてはいけない。
「お兄さん。遅いって。私、待ちくたびれちゃったよ」
待ち合わせの場所には加絵しかいなかった。フリースペースなのに誰もいない。周囲にも人が見当たらない状況。まるで人払いでもしたみたいだ。今日に限って、第二図書室を利用しない規則でもあるのか。
「ただね、この売れない本を読んでたから暇ではなかったのかな。だとすれば、待ちくたびれてないか。うん」
「そっか。ところで、売れない本は読んでて面白いの? ちゃんと暇つぶしになる?」
「もちろんだよ。大事なのは内容がどうこうじゃないの。日本語で文字が繋がってるかどうかなんだって。日本語ならば、大抵は大丈夫」
「へえ、そうなんだ。だったら、読めない本なんてないんじゃない? 日本語で書かれてる本ならオッケーか。てか、それを聞くと本当に図書委員って感じがする」
「そんなことないよ。図書委員とかは関係ないって。それにあっちの古文書系は全く読めないかな。日本語で書かれててもね。ただ、無印の本を無性に読みたくなる時があって。これは人知れずいい本を見つけたいという願望かも」
加絵が最後はちゃかすように言う。
「とにかくさ、本が好きな人は時々こうなるはずだよ。なにげなしに売れない本へ目を向けたくなる。そして、その本が面白ければ大満足。面白くなくても問題なし。この本がどうして売れないか。その点に着目して、分析したくなるからね。などと啖呵を切ってもなあ。これは私だけかもしれないし。お兄さんはどう思う?」
「さすがに聞かれても分からないよ。僕は図書報で読む本を選んでるから」
「知ってる。お兄さんは週二回の図書報を活用してる人だもんね」
「そういうこと。つまり、一定の評価を受けた本しか選んでないな。でも、そのおかげで加絵とこうしてるわけだ」
普通の会話が続く。当たり障りがないといっていい。ただ、会話とはそういうもの。こんなふうに連綿と重なる言葉の集合体。適当に関連して繋がっていく。構造は物語と同じかもしれない。
したがって、いつ切り出すかが問題。何事もタイミングが重要。ただ、僕はこういうタイミングを逃してしまう。だから、最新の注意を払うべきだ。周囲を鋭敏に察知しようと努力しなくてはいけない。ただでさえ拾いとれないから。
もちろん、先だっての件も同じ。翠の状態を把握できなかった。畠山さんの話を念頭においてもそう。あまり変化を感じない。全くもって恐ろしい話である。とはいえ、意識を取り払うべきではない。意識の有無で状況が変わるはずだ。
加絵との会話はざっくばらんに続いていく。これは四方山話の範疇。本に関連した話題で繋がってる。ここは図書室。そのことも大いに影響。本の話題が全く尽きない。しかも、加絵の得意分野だ。
「――でね、お兄さん。本の売れ行きで面白い逸話が残ってるんだよ」
三十分くらい経っただろうか。加絵との会話は途切れない。ずっと続いてる。それもまだ本が中心。こっちはあいづちを打ってる。今は切り出すタイミングでないと思う。
ふいに畠山さんからの助言を思い出す。彼女は翠の状態を案じてた。翠は平静でない。猪突猛進。そして、その勢いで何かを解き明かそうとしてる。やはり、間違いなく妹の件。彼女の時は変わりなかった。なのに、妹で変わる。畠山さんはそんな情報をもたらしてくれた。
「加絵。で、それは何?」
「うん。それはね、有名なフランスの作家が編集者とこんなやり取りをしてたの。名前はなんだったかな。覚えてないや。作者も題名も思い出せないし。でも、ものすごく有名な本。世界中で翻訳されてる本。日本だって例外じゃないよ。世界中で人気があるからね。今も昔もたくさんの人に読まれてる。ストーリーは記憶してるんだけどな」
加絵は額に手を当てて悩みだす。そのうちに内容を訥々と語り始めていく。内容を追従して思い出そうとしてるらしい。楽しそうに教えてくれる。たぶん、作家と編集者の逸話は吹き飛んだに違いない。話は脱線した。ただ、それこそが文学少女たる所以。本の話を夢中でしてくる。これが文学少女でなければなんだろう。ちなみに、本人は否定してた。本に全ての情熱を傾けるわけではない。そんなことを言ってたはずだ。
ともあれ、本の内容はものすごく悲しい話。貧困や犯罪といった社会悪によって悲惨な目にあう主人公。波乱万丈の展開である。産業革命前のフランス情勢だろうか。とにかく、救いのない待遇。そして、それに抗えない主人公の環境。基本的欲求も満たすことができない。思想を持つ以前の状態だ。
「主題はこの世に絶対的な悪は存在しない。これだったかな。ここまで覚えてるのに不思議だよね。たいぶ印象に残ってる。なのに、フランスと日本の題名を両方とも忘れてしまう。べつに忘れるほど難しい言葉じゃないんだけどなあ」
加絵が首をひねってる。おかげで、先日変えた髪型が揺れた。やはり、三つ編みかおさげか判別がつかない。
「たぶん、なんとなく出てこないだけだよ。そういうことってよくあるじゃないか。不思議と記憶にない。必要じゃないのは鮮明に覚えてたりするのにね」
「うーん。そうかもね。人の記憶は不思議。このことに尽きるのかな」
どうやら、僕の言いぐさに納得したようだった。
「それであれはどうなったの?」
「え? あれって何のこと?」
加絵は本気で困惑してる。さらに、深く首を傾げた。
「ほら、作者と編集者の逸話だよ。そこがずっと気になってたんだ」
「あーっ!」
ようやく思い出したみたいだ。手をポンと打ってる。
「そうだったね。早く言ってよお兄さん。私、長々と本の話をしたじゃない」
責任転嫁されても困る。そもそも、加絵が楽しそうに語ってたせいだ。それを止めることなどできない。後、本の話も聞きたかった。これが本音。もしかしたら、題名を推測できるかもしれない。そんなふうにも考えたのだ。もっとも、聞いて分からなかったのが僕のクオリティーである。
「で、お兄さん。逸話のことなんだけど」
「ああ、うん。聞きたい」
「ありがと。で、その作家と編集者が本の売り上げを確認する時の手紙が面白いの。手紙には一文字しか書かれてない。『?』と『!』のマークしかなかったってさ。そして、それだけでも意味が通じるから面白いという話なんだよ」
「へえ、すごいね。でも、このやり取りには何らかの前提が存在しないと不可能だよね。記号なんだしさ。たとえば、メールにおける記号のやり取りでも同じだよ。しっかりとした前提があるからお互いに通じあう」
「そうだよね。やっぱり前提はあったはず。そうしないと絶対に意味が通じないから。お互いに意思疎通ができてたのかな。ちなみに、『?』が売り上げを問う意味。『!』は売り上げ好調の意味だって。こうして世界最短な手紙のやり取りが完成したんだね」
「世界最短な手紙のやり取りか。こういうのは面白く感じるなあ」
「そうでしょ。そうだよね。あ、そうだ。私とお兄さんでやってみようよ。世界最短でのやり取りをさ」
なにやら、ものすごく無謀なことを言い出した。無謀すぎて言葉もでない。使えるのは一文字。そこからお互いの真意を読み取るらしい。なんだかすごい神経戦。難攻不落の城に攻め入る気分だ。
「じゃあ、いくよ」
有無を言わさずに始まっていく。
「やるしかないのか」
「そうだよ。一回やってみようって」
いつのまにか、加絵の準備は整ってた。メモ帳を千切ってペンも用意。加絵が先行らしい。メモ帳に『顔』と書く。もちろん、顔と書かれても分からない。一回目から脱落。そもそも、超能力でもない限り不可能だ。一文字で真意を読み取るのは難しい。冷静に考えてみれば当然のこと。でも、なんとなく負けた気分に。こちらなりに推測して返答をするべきだろう。
僕は深く頭を悩ます。胸中には様々な単語が浮かんで消えていく。どれも正しいようで正しくない。もしかして、センスを問われてるのか。だとすれば、過度な期待されても困る。期待に沿えない可能性が高い。
とりあえず、『顔』に込められた意味を考える。『顔』。加絵の顔に変化があるか。一週間前は髪型を変えた。そして、今日は顔を変えた。もちろん、整形でない。化粧だと思う。ただ、化粧自体の見分けがつかない。加絵を見つめても分からない。
「お兄さん、私を見つめてどうしたの? 私の顔に答えなんか書いてないってば」
加絵が照れくさそうに顔をそむける。
「そうだよね。ちょっと無遠慮かも。ごめん」
もう、やぶれかぶれな感じだった。これもメールなんかと同じだ。当意即妙なやり取りを求めているわけでない。あった方がいいけどなくてもいい。それよりも早いレスポンスが大切だろう。やり取りにはテンポがある。そのテンポに乗るべきだ。
「『惑』?」
加絵が不思議そうにつぶやく。書いた言葉は『惑』。こっちの困惑してる様子が伝わればいい。そう思ったが目論見は外れた。加絵が余計に悩みだす。
そして、その調子で『離』と書く。離れるなどに使う漢字だ。思惑がずれてきたという意味か。なぜか、離婚が思い浮かんだ。なので、『$』と書く。離婚といえば金銭問題。なんだか、連想ゲームの様相を呈してきた。これは前提なんか存在しない。ズレしか生まれない。最初は一文字で意味が伝わるやり取りの甘美さに惹かれた。でも、所詮は現実離れしてて空想的だったのだ。
ここから阿鼻叫喚なやり取りになっていく。なぜこうなったのか。止めどころが見つからないせいだ。意外と言葉が浮かんでくるのも原因。数だけは異様に続いた。でも、意味が伝わらない言葉の羅列。これだとなにも生み出さない。繋がりがないと物語は発生しないのだ。




