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幼馴染の彼女にしておく  作者: トマトクン
第二章 『エレクティブ・リストレットカッティング』
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8

 エプロンを装着した。三角巾も身に着けた。用意は整ってる。準備万端だ。などと思っても落とし穴は存在してしまう。完璧な時こそ盲点。もっとも、今回は落とし穴や盲点という類いの話ではない。単なる灯台下暗し的な要素だ。


 加絵が意気揚々と作業に取り掛かる数分前。キッチンワゴンと冷蔵庫を開けて言う。表情はかなり深刻。取り返しのつかないことが発生したらしい。


「お兄さん。ないよ。なにもないじゃない。これはどういうこと?」

「あ、そうか。どうしてもっと早く気がつかなかったんだろう。こんな重大な事実に」

「そうだよ。本当に重大な事実だって。薄力粉も卵もバターもどこへ消し去ったの? 牛乳だってないよ。どうやって? どこに? まさか、ブラックホール的ななにかとか?」

 

 いやいや。待てと言いたい。僕が魔法使いのようなセリフは止めてほしい。これだと体内エネルギーを限界まで高めて、全てを消し去る人みたいではないか。もちろん、そんなことは出来るはずがない。存在しない物は存在しない。その事実があるのみ。有から無にするのは基本的に不可能。無から有の生成も同様である。これは科学的に検証されてること。質量保存の法則の観点からも正しいと思う。


 とにかく、仕切り直しが必要だ。まずは材料の調達。買い物をしなくてはいけない。近場のスーパーは家から五分。だから、時間的なロスはそこまでないだろう。そこは不幸中の幸いだった。


 加絵は着けたエプロンと三角巾を取り外す。高めた気合も抜けた感じになっていく。拍子抜けの気分か。さながら、炭酸飲料水のガスなしだ。なんとも味気ない。


 ただ、外へ行く準備を終えた頃には気を取り直す。女の子は基本的に切り替えが早いのか。翠と同じくらいの高速切り替えである。これは恋愛においても適用されるかもしれない。女子が上書き保存という話はよく聞く。


「加絵。僕がもっと早く気がついていれば良かったな」

「うんうん。とはいえ、私にも原因があるよね。お兄さんの家に材料があると思い込んでたから。でも、卵とバターくらいは常備しててもいいのにな」

「たしかにね。その通りだと思うよ」


 今は午後四時半を過ぎている。あの炎天下の暑さが和らいだ。風もそよぐ。昨日の夜に比べて大分涼しい。民家の風鈴もそれを助長。この音にはかなり刺激される。本当に不思議だと思う。


 近場のスーパーは今がセール。人が多い。おかげで、加絵が手を繋いできた。なのに、あまり暑いと感じない。加絵の手は暑くない。後、あまり柔らかくない。もっとも、翠以外の比較対象はなかったりするが。


 目的の品はすぐに見つかっていく。順番に見て、カゴへ入れた。その他にもいろいろと買う。ただ、そんなに多くない。それは吟味して買うせいか。その割には時間を結構費やす。なんだか、目的のない買い物を楽しむ気分だ。


「お兄さん。こういうのっていいよね。兄妹みたいでさ。とても素敵だと思うな」

「兄妹? 兄妹は一緒に買い物なんかしないよ。新婚の夫婦って感じがするぜ」

「もう。やめてよお兄さん。そういうのは良くないって」

「そうだったね。うん」


 レジで代金を支払う。これで買い物は終了。金額は折半した。本当は全部出すべきだったと思う。でも、電光石火の早業で阻止される。だから、後で渡しておいた。その分は受け取ってもらえたので一安心。


 帰り道も仲良く歩いていく。手は繋がない。道中は妙な話でからかわれた。なんの因果だろうか。そんなことをされる由縁はない。明らかに揚げ足を取られてる。これは遠回しの嫌がらせか。クッキーの材料を常備してなかったせい。なんてことはないはずだ。考えすぎだろう。とりあえず、苦笑いしてやりすごす。


「お兄さんの家に到着。再到着」


 加絵のテンションが高い。靴の脱ぎ方にも表れてる。そして、その勢いで準備を開始。最初はエプロンの装着。もちろん妹タイプ。後、三角巾も忘れてない。それから買い物の中身を取り出す。薄力粉、卵、バター、牛乳とか。使わないのは冷蔵庫に入れておく。


「それにしてもなー。お兄さんは極端な趣味だよね。チアガールパジャマ姿やジャージ風フレアスカート姿とか。レアであり得ない組み合わせが好きみたいな」

「そこまで好きとは言ってないさ。後、ジャージ風フレアスカートは市場でもあると思うよ。メジャーかどうか分からないけどね」


 ちなみに、ジャージ云々は己の不用意発言。スーパーで双子を見つけたのが発端だ。なんと、彼女たちの格好はゴシックロリータ。そこで話は服装の好みへ。これが敗因である。もう何度も蒸し返されてた。


「そういえば、その話で思い出した。お兄さんの部屋へ入った時にするべきことがあったんだ。女の子なら当然やっておく儀式を忘れてたよ」

「え? それはなんだよ。話の流れからして不穏な気配がするけど」

「不穏じゃないよ。大事なこと。ねえねえ、お兄さんは本当にエッチな本を持ってるの? 確認しないと気が済まないよ」

「やっぱりか。まだそっち系の話が続いてたとは」


 帰り際でも何度か追及された。まだ上手くかわせていない。


「だってさ、妹として気になるもん。嘘をつかれてるかもしれないし」


 嘘か。口元を舐めてないはず。翠に判断してもらえば確実に分かる。


「てか、そういうのは巧妙に隠してたりするんだよ。誰も知らない。それでも本たちは生き続ける。なんてフレーズではないんだけどさ」

「どこに隠してるの? ヒントも教えてくれないの?」

「教えたら隠してる意味がないよ。そもそも、隠してナンボのものじゃないか」

「案外、ベッドの下へ隠してたり」

「それだけは絶対にありえない」


 きっぱりと断言。なぜなら、ベッドの下なんてもっての他だ。そこは我が物顔で占領する幼馴染の存在。やはり、一番いけない場所だと思う。何かのアクシデントであっさりと見つかってしまう。それはきつい。想像するだに恐ろしい。考えたくもない事態だった。


「なあ、加絵。妹とこんな会話はしないぜ。教育的に問題な本の話は止めよう。一切合切必要性がない。この話題を思考の外に追いやるんだ。今の話からは悲しみしか生まれない。悲しみの連鎖反応だよ」

「あは。お兄さんごまかしてる。明らかにごまかしているな。教育的に問題がある本なんて普通言わないよ。すましてもだめだって。エッチな本に変わりはないんだからね」


 やれやれ。その通りである。ただ、生物学的な問題だから仕方がない。若干の考慮はしてほしい。などと言っても通用しないと思う。


「でも、男の人にとっては大事だよね。エッチなことは。日々を緻密に生き抜くためのエンジンでなくてはいけない。そんなことを偉い人が言ってたよ。いや、本に書いてあったかな。情報源を正確に覚えてないのが残念だ」

「加絵、そこはどっちでもいいから。だいたい逆効果だって。そんなことを考えるわけがないだろう。範疇の外に追いやって当然」

「まあ、そっか。日々の緻密に生き抜くエンジンにはなりえないかもね。たとえば、お兄さんが折り紙で造花を作る。その時にエッチなことを考えたら本当に残念。そうやって、出来た作品も見てみたいけど」

「その状態では出来ないよ。加絵だって栞を作る時に雑念なんかないよね。振り払う必要もないんじゃないかな。それと同じ状態だって」


 加絵は栞を作るのが趣味。読書と同じくらい好きだろう。いつでも作れるように厚紙とカッターを所持してるという。


「そうだよね。とはいえ、私はエッチなことを少しも考えないなあ。あ、ごめんなさい。明らかな嘘でした。文学少女はエッチなことばかり考えてるかも。基本的に本で知ってるからね。普通の人より耳年増なの。後、夢見がちなのも特徴だ」

「こういう時だけ文学少女に成りすますのは良くないな。まるで文学少女を侮辱してるみたいじゃないか」

「たしかにそう思われても仕方ないか。まあ、お兄さん。少しは大目に見てよ」

「そうだね。べつにたいしたことではなかった」


 なんだか、文学少女に拘泥してるみたいだ。そんなはずはない。ただ、文学少女の理想像から外れてると感じた。それだけ。


 さて、こんな話をしつつも生地作りは順調そのもの。あまりにも手際が良すぎて、怖いくらい。女の子はながら作業が日常茶飯事なのかもしれない。今も同時に三つのことをこなす。普通の会話と二つの作業。全く問題なし。そもそも、料理自体が複数行程の組み合わせだ。これが上手くいかないと手際の良さが生まれない。ただ、加絵はその点において完璧。素人が見ても一目瞭然である。


「あのさ、クッキーって結構時間が必要なお菓子じゃないの?」


 とりあえず、話を変える。作り時間に純粋な興味があるわけではない。この話の流れを打破するのが目的だった。


「気づいたら夜九時。なーんてことはないよね。さすがにさ、そこまで頑張ってもらうのは申し訳ない気がして。僕が手伝っても邪魔になりそうなだけだし」


 今も眺めてることしか出来ない。でも、このままだと確実に飽きてしまう。ソファーでニュースを見る。それも時間の問題になりそうだ。


「お兄さん。実はそんなに時間はかからないの。意外と時間をかけない作り方もあるんだよ。冷蔵庫に寝かす必要がない場合もあったりするし」

「ふうん。少ない時間でも大丈夫なんだ。まあ、夜九時とは考えてなかったけどさ」

「そうそう。夜九時は考えなくていいから。安心してよ」


 その後もこんな感じだ。適当な会話をして作業を続けていく。加絵の手際の良さは全く変わらない。揺るぎないといってもいい。まるでブレがない精密な機械作業。それを感覚としても抱くほどだ。不思議な話である。


 クッキーは絞り出しと型抜きの二種類。ちなみに、これが二つの作業。主に生地の作り方が変わってる。具体的にはバターの量が違うらしい。もしかしたら、その他にも違いがあるかもしれない。ただ、僕にはよく分からない。そこまで熱心に見てなかった。加絵との会話を楽しんでたせいだ。


 生地を無事に作り終える。後はオーブンで焼くだけ。生地の量は多い。作りすぎといってもいい。何回にも分けて焼くことになるんだろうか。そうすれば大変だろう。加絵でも時間がかかるに違いない。なぜなら、焼く時間は不変だ。


「加絵。これはいくらなんでも多すぎじゃない?」

「大丈夫。夏でもしっかりと日持ちするから。このクッキーはハロウィンの日までが賞味期限だよ。中にスーパーな脱酸素剤も入っているし。というのはジョークだけどね」

「えっと、着眼点が違うんだけど」

「え?」

「いや、なんでもない」


 とにかく、ハロウィンは十月末。三ヶ月以上も先になる。いや、そもそもこれがジョークじゃないと困ってしまう。脱酸素剤は四角い小袋のやつ。『食べられません』の但し書きで有名な代物。ちなみに、昔は疑問に思った。食べる物に食べられない物を入れる必要性が理解できなかったのだ。


「でも、この量だとたぶん余るよね。保存はどうすればいいの? 要冷蔵?」

「うん。普通に冷蔵庫へ入れとけば問題ないよ。そうすれば、一週間はおいしく食べられるかな。ただ、多少食感が変わるかも。味については保証しておく」

「そっか。それは嬉しいな。一週間も保持できるのはいいことだ。いくらおいしくても一気には食べられないから」

「お兄さんは甘い物が別腹じゃないもんね」

「そういうこと」


 鉄板にクッキーを乗せる作業は一緒にやった。とはいえ、もう準備は整ってる。なので、場所の移し替え作業にすぎない。その作業中で種類の違いを見ておく。絞り出しと型抜き。この二つはやはり違う。それは見た目だけでない。生地の材質が異なってる。


「あ、加絵。そんなことしていいの?」

 

 加絵が焼く前の生地を食べてた。


「大丈夫。日本では生地を食べる習慣がないだけだよ。たぶんね」

「ふうん。生地を食べる習慣がないだけか」


 気を取り直して作業を開始。オーブンに鉄板を乗せていく。これは僕が行った。もちろん、必要性に迫られたわけではない。加絵でも問題なく出来る作業。なのに、加絵がやってほしいと頼んできた。


 目安時間をセットして焼いていく。その時間に片づけをこなす。片づけは分担。難なく終わる。程なくして、クッキーの香りも漂ってきた。いい匂い。まさしくザ・クッキー。これ以外の何物でもない。


「私、この瞬間がお菓子作りで一番好きだな。甘い香りで部屋が包まれていくこの感じ。お菓子作りで一番魅力的なところだよ」


 加絵がうっとりとした声で言う。エプロンと三角巾はすでに外してる。少し名残惜しい。もちろん、制服姿が魅力的でないのとは違うが。


 やがて、タイマーの合図が鳴り響く。第一弾の完成。第二弾、第三弾は今かと待ち構えてる。だから、先ほどと同様の作業でオーブンに放り込む。タイマーのセットも忘れない。


「まずは出来たてを食べないとね。焼き上がり直前こそ至高なんだから」

「そうかもね。あ、違う。加絵はフライングしてたんだ。つまり、最初じゃないぜ。最初は焼いてないのを食べてた」

「そっか。でも、そんなのは無効だって。ただの生地はクッキーと認められないよ」

「それもそうか。では、いただきます」

「どうぞお兄さん。そして、私もいただきます」


 互いにクッキーを賞味。味は本当においしい。市販と比べても遜色ない。むしろ、出来たてなのでいい感じだ。


「お兄さん。どう? 完璧? 妹ポイント上がった?」

「もちろんおいしいよ。完璧だとも思う。ただ、妹ポイントって何なんだ?」


 二つ、三つとクッキーを食していく。間違いなくおいしい。手作りの味だ。心が軽くなる感じの味だと思う。


「お兄さん。ここからはお菓子を食べてる雰囲気を出そうよ」


 加絵はお皿にクッキーを盛りつける。紅茶も用意し終えた。後はゆっくりとくつろぐだけ。テレビは適当に情報番組をつけた。すると、本当に雑多な情報が流れ出す。そこで軽い四方山話が始まる。全くもってとりとめもない話題。際立った関連性がほとんどない。ざっくばらんに話は移り変わっていく。これがゆったりとした空間というやつか。それなら素晴らしいと思う。.


 もちろん、その間にもクッキーは焼きあがっていく。どんどんと増える数。もとい、増殖。やはり、食べきれない。確実に余るだろう。残ってるのはキッチンペーパーに包んだ。後でタッパーへ入れて、冷蔵庫に保管しておこう。


「あ、お兄さん。私、そろそろ帰らないと」

 

 どうやら、帰る時間が来たらしい。時計を見ると大分時間が経ってた。第一弾のクッキーを食べたのは結構前。時間の経過をしばらく忘れてたかもしれない。時間の体感速度はその時々で本当に異なる。


 ともあれ、加絵とはのんびりすごせたと思う。加絵も満足してくれたようだ。もちろん、僕は言うまでもない。満足以外の言葉が見つからない。ただ、少しだけ心残りがある。それは加絵が部屋を見てないこと。僕の部屋に入っただけ。正確には時計をいじくったのみ。そういえば、録音機能に加絵の声が入っていた。それは今日の加絵が存在を残した証。


 最後に加絵は慌ただしく出ていく。身だしなみもそこそこに。時間が切羽詰ってたんだろう。そこまでして一緒にいてくれたことを感謝したい。妹ポイントはこういう場面にこそ贈呈しておくべきだ。ポイントカード式だったらハンコが必要である。いや、ポイントカード式でない。スタンプラリー式というべきか。などといった徒然事はどうでもいい。それよりも玄関前での笑顔が印象に残ってる。ただ、どういう感情が込められてたかは分からない。分からなくても仕方がないことだ。後、印象度だともう一つ。それはクッキーの保存方法。あの念入りな説明は覚えざるを得ない。何度も聞いたから絶対に忘れない。これで間違いなく一週間以上の保存が利く。だから、当分は放課後のおやつに困らないといえた。


 さて、加絵がいなくなった。おかげで、部屋が静けさを取り戻す。これは物理的静けさでない。なぜなら、テレビが雑多な情報を流し続ける。つまり、ここで言いたいのは違うこと。人がいない空白。迎え入れて去っていく。この現状をただ嘆く。心が急に冷めていくのに近い。僕の内側に潜む罪障、無力、喪失といった感情を確認する。それと似たような作業だといえた。


 ところで、夕食はどうしようか。しばし思い悩む。その時間は約三分。簡単なクッキングが可能な時間。一応、お腹の具合を確認しておく。やはり、微妙な加減。夕飯が必要か。必要でないか。さっぱり判別がつかない。ただ、こういうことは微々たる悩みにすぎないんだろう。部屋の香りがそのことを示唆する。ここの変わらない香り。しばらく変化しないと思う。ここは芳醇なクッキーの香りで充満している。あふれてる。これは本当に幸せなのかもしれない。もっとも、加絵がそんな感想を言ってたからでなく。それ以外にも大きな理由があるはずだ。たとえば、なんだろうか。深く考えてみる。否、考える必要もなかった。こういう何かに包まれてる気分。そのことが簡単に幸せを想起させる。この考えは理屈とかでない。極めて感覚的な問題だった。

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