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僕と加絵は当初の目的をすっかり忘れていた。もっとも、その目的はたいしたことないかもしれない。ただ、時計を巡る冒険に身をかまけてしまった。やはり、時計には特別な力があると思う。時計は世界の動きを絶えず視認できる。少なくとも、針が秒単位で動く限り世界は止まらない。明確な刻みとして判断が可能。しがない世界でもあっても、変わらずに動き続けてる。また、そのことで自身の存在を認識し直す。不安定な存在は時計によって変化をもたらす。そうやってあいまいな輪郭を取り戻していく。時計で自身の存在を何度も確認すればいい。その繰り返しで少しだけ安心する。ついでに世界の動きも見つめれば尚良いだろう。とはいえ、この現象はとても奇妙だと感じる。なぜなら、こうしないと世界が詳しく感じられないから。とはいえ、時計以外で世界をしっかりと認識できないのは不思議だろう。だから、他の認識方法も存在するに違いない。でも、最良なのは確実に時計。こいつが一番分かりやすい。逆に時計でないとだめだ。世界の動きを強く認識できない。
加絵は違う時計も見てる。次は電波時計に興味を示したらしい。時計は時間を知らせる役割にすぎない。などと述べたにしてはかなり熱心だ。これは好意の裏返しか。深く考え込んでしまう。
「加絵。僕たちは大切なことを忘れてると思う。ただ、それは全然大切なことではないかもしれないけど」
「え? お兄さんどういうこと?」
加絵は不思議そうに首を傾げる。そうされても仕方がない。
「いや、うん。なんでもない。なんとなく言ってみただけ。そういうふうに気取りたくなる時ってあるじゃないか。まあ、それよりも当初の目的が達成されてないな。ミイラ取りがミイラになるってこんな場面に使うのかな。いや、違うか。とにかく、僕の部屋へ来たのはいい。でも、これでは着替えが出来ないじゃないか」
「あ、ごめんなさいお兄さん。私、時計に夢中になりすぎたみたいで。たしかに予定はそうだったよね。私、下に行くから」
そして、慌てて部屋を出ていく。ドアも急いで閉めた。おかげでその音が響く。すると、この場所が急にがらんどうみたく思える。もちろん、そこまで広い自室でない。だから、本当に不思議だ。なぜ、そんなふうに思ったのか。そこは定かでない。
「とりあえず着替えるか」
僕は私服へ着替えていく。やがて、着替え終えて自室を出た。階段を降りる。リビングへ向かう。加絵はそこで待機していた。三人掛けのソファーで所在なさげに座ってる。テレビはつけてない。エアコンもついてない。でも、窓を開けたみたいだ。網戸以外が全開になってた。
「お兄さん、やっと来た。待ちくたびれたよ。後、閉め切ってたせいで暑いね。ずいぶんと熱がこもってた」
「そっか。待ちくたびれたか。男の遅い着替えなんてあまり好ましくないなあ。それとあれだ。先に窓を開けてから二階へ行けばよかったよ」
「そうだね。でも、そこまでたいしたことじゃないかな。その間に洗面所の鏡で髪を整えてたからいいよ」
加絵がこれ見よがしに髪を触ってる。
「あ、加絵。そういえば、この前と髪型が違うな。でも、何が違うか分からないや。どことなく違うのは分かるんだけど」
加絵の髪型は変化してる。でも、ほんの少しの変化でしかない。微妙といってもいいくらい。そのくらい分かりにくかった。
「もう。お兄さんは今頃気づくんだ。私、会った瞬間から試してたんだよ。いつ気づくかなって。なのに全然だもん」
「ごめんな、加絵。そういうところには疎いんだよ」
「いいよ。許す。私が一生懸命アピールすれば気がついてくれるからね」
そして、髪型の違いも説明してくれた。主に三つ編みとおさげの違い。今が三つ編みで昔がおさげだという。基本的には全く違うらしい。ただ、その違いが分からない。僕はどちらも同じと思ってた。少なからず、そこに差異を感じない。なのに、当の本人は根本から異なると宣言した。
「とはいえ、おさげと三つ編みの定義もあいまいなんだけどね。でも、似て非なるもの。そうだなあ。そうめんと冷麦のような感じだよ。ああ、どっちも夏にぴったりだよね。お兄さんと一緒に食べたいな」
「まあ、いつかね。これからさ、いつでもそういう機会があるんだから」
「そうだよね。あ、食べ物で思い出した。私の用事について話したっけ? ほら、会った時にお兄さんへしてあげたいことがあるって言ったよね」
「ああ、言ってたね。まだ聞いてないな。結構話したのになぜだろう」
「ほんとだね。不思議。えーと、えっと」
加絵が手持ちの鞄を探り出す。手探りで何かを取り出そうとしてる。その動作はなんだか危なっかしい。見ていて忍びない。でも、無事見つけられたようだ。可愛い手提げ袋が出てきた。なんだか手作りっぽい。ボヘミアン風のパンダが縫いつけてある。にしてもボヘミアンパンダ。ああ、ボヘミアンパンダ。見れば見るほど癖になっていく。まるでするめのような味わいだ。
「じゃじゃーん。クッキーメーカーのセット。これで特製クッキーを作るんだー。まあ、夏にお菓子作りは適さないけどね。バターが溶けたりとかするし。でも、図書館でお菓子の本を見ていたら作りたくなって。ああ、違う違う。お兄さんにしてあげたいことがこれなんだよ」
「そっか。ありがとう。ただ、夏でお菓子作りは違う気がするよなあ」
お菓子作りは冬のイメージ。これはクリスマスとバレンタインが影響してると思う。製菓会社の企業努力がそういうイメージの浸透に成功させた。
「やっぱり夏は違うか。しょうがないよね。作る本人でさえそう思うもん」
言いつつも次々と取り出していく。テーブルはクッキーメーカーでいっぱいに。意外なことに用具の種類が多い。名称も知らない用具が数多く並ぶ。たくさんの切り抜きも用意してある。切り抜きはキャラクターものが多そうだ。星や花なんかは安易すぎるのだろうか。
「さあ、暑いけどがんばるよ。お菓子作りなら任せといて。私の得意分野だから」
「得意分野ね。文学少女は食べる専門という不文律があっても良さそうなんだけどな」
「ふうん。文学少女かあ。本以外は興味なしみたいな感じだよね。ただ、私は単なる図書委員。文学少女ではないかな。本は大好きだけど。それに文学少女みたく本だけに情熱を傾けられないよ。多くの時間を本に費やすこと。それは到底出来ない環境にあるし」
「うん。分かってる。だから、なんとなくなんだ。後、加絵の容姿。たとえ、本が好きでなかったとしても文学少女に見えたりする。なんていうか大人しい見た目とかさ」
「そうなんだ。言い換えれば、地味ってことかな。地味って素晴らしいよね」
地味とは少し違う。でも、本人が喜んでいるならいいか。
「あ、もしかしてお兄さん」
加絵が瞳を爛々と輝かせる。
「私の髪型で文学少女をイメージしたの? それはこの前までのおさげ髪が原因かな。あ、今だって三つ編みだった。これなら文学少女的には変わらないか」
加絵は僕の戯言を真剣に考えだす。そこまで考える必要はないと思う。
「ところで、お兄さんはどんな髪型が好きなの? ほら、世の中にはいろいろな髪型の女の子がいるじゃない。私はどの髪型も素敵だと思ってるけどね。他の女の子の髪型を見るのが好きだし。まあ、自分の髪型では冒険出来ないから。で、お兄さんは?」
最初に思い浮かんだのがサイドハーフアップ。これは翠の髪型だ。とはいえ、幼き翠が強く印象に残っているせい。幼少時の翠はこの髪型しかしてない。今の翠は頻繁に髪型を変える。髪を下ろすことも多い。もしかすると、今はサイドハーフアップの割合が少ないかもしれない。ただ、僕の中では翠の髪型が決まってる。勝手なことにそういう像が出来上がっていた。
「でも、あれは好きと違う感覚だよな。やはり、特定の髪型が好きとかはないと思う。どの髪型にも魅力的な側面があるしね。だから、どこまでフラットということで」
「へえ。そういう考え方もあるんだ。女の子の髪型には少なからずこだわりがある。それもそれでいいのに。まあ、その話はともかくだよ。お兄さんは割と甘い物に目がなかったはずだよね。前に聞いた気がするんだけど」
「うん。甘い物は好きな方。お菓子は基本的に常備してるしね。ただ、女の子には敵わないさ。甘い物は別腹という概念に匹敵する程ではないよ」
「そこは仕方がないって。甘い物を食べようと決めた時の女の子は最強なんだし。俗に言うスイッチが入るってやつ。あ、台所とオーブンを貸してくださいね」
加絵がクッキーメーカーを台所へ運んでいく。家の台所は結構広い方。なのに、用具の多さで狭く感じる。そのくらい種類が多い。
「で、お兄さん。エプロンはどんなタイプの着け方を所望するの?」
加絵が意味不明なことを聞く。
「エプロンの着け方に種類があるのか。僕には全く想像できないんだけど」
「そこは想像しないと。想像力が大切だから。安易に正解を教えてもらうのは良くないよ。想像をフル回転させる。ディテールにもこだわってね。とにかく、エプロンの着け方には種類があるの。妹タイプ。恋人タイプ。新妻タイプ。それと隠れオプションで赤ちゃんタイプ。この四種類があるかな」
「待って待って。隠れオプション? 赤ちゃんタイプの着け方が異様な存在感を放ってるから。いつかのチアガールパジャマ姿くらい気にかかってるよ」
なぜか、髪型よりも格好に着目してしまった。我ながら食いつきが凄まじい。
「お、お兄さん。てか、チアガールパジャマ姿って何なの?」
そして、思いっきり苦笑された。
「あ、そこは無視して構わないから。で、四種類のタイプの違いはどうなの? 想像すれば分かる問題じゃないような」
「そんなことないよ。お兄さんしっかりして。考えればすぐに分かるじゃない。主に肌面積の度合いが違うんだって。後、図り間違って赤ちゃんタイプを選択したら大変。拘置所へ連行される結末だからね」
「え? 何? どういうこと?」
「もう。お兄さんのいけず。計画的に恥ずかしいセリフを言わせようとしてる。でも、私はそういう大人の事情みたいな策略に引っかからないよ」
加絵は得意げに胸を張る。おかげで、大方察することができた。どうやら、赤ちゃんタイプ。これがこの世に存在してはいけないらしい。この世界では選択不可だ。いや、それだけでない。他の選択肢も雲行きが怪しいと思う。恋人タイプ。新妻タイプ。この二つは地雷。だとすれば、四分の三がアウト。確率的には恐ろしい話だ。ただ、普通に判断すればいいだけ。さほど問題ではなかった。
「じゃあ、無難に妹タイプで。てか、それ以外は問答無用で却下だよね」
「さすがはお兄さん。正解だよ」
加絵が笑顔で頷く。




