1
《第一章のおさらい》
篠原千之と鮫島翠は幼馴染の関係。互いにいろいろと分かりあっている付き合い。ところが最近、その関係に多少の違和感を抱く。それは想うことが正確に伝えられなくなったからか。絶対的で最強の空気感が喪失しつつあるせいか。
ともあれ、季節は五月。二人は高校二年生。千之は今年も五月の雨を屋上で楽しむ予定だった。しかし、そこで彼はあるものを見つけてしまう。給水タンクの見えにくい部分に張ってあった付箋。さらにメッセージ。
そして、ここから樋口三波との交流が始まっていく。最初は付箋でのやり取り。後に雨の日だけの邂逅。互いに波長が合って親交を深めていく。三波の不思議な雰囲気と考えに惹かれる千之。堕落の話、太陽と月の話、否定的な幸福の話など。
そんな最中、三波はふいに菫の花が好きなことを話す。しかもその時、千之のポケットには菫の造花が。彼はそれを三波へ気づかれずにプレゼント。三波はやはり気がつかない。その様子を見て、彼の胸中にはさまざまな感情が浮かぶ。
連日連夜の猛暑が続く七月初旬。季節は一足先に夏真っ盛り。すでに夏本番といってもいい。対策で自室の窓を開けてみたが効果なし。期待した風も入ってこない。むしろあれだ。蝉の鳴き声が響くだけ。これは短命な蝉の悪あがきか。夜だと特にうるさく感じてしまう。もちろん、静まれと叫んでも意味がない。
普通なら、ここでクーラーを使用すればいい。クーラーはすばらしい文明の利器。明らかに涼しくなる。その上で周囲の音も遮断。まさしく一石二鳥だ。でも、厄介な問題が浮上する。それは僕がクーラーを苦手という事実。どうも、クーラーは体質に合わない。なので、扇風機でやりすごす。これが現状だ。
さて、今は夜の十時前。慣れない科目の宿題は終えた。おかげで、若干暇を持て余す。適当にチャンネルをいじっても、面白い番組はない。タイミング的にコマーシャルが多い時間。ただ、天気予報がやってたので見る。話は熱中症と熱帯夜における対処法。何度も注意の喚起を促す。やはり、今年の夏は例年になく暑いらしい。オゾン層の破壊が大いに影響してるかもしれない。
「などと環境問題を考えても仕方がないなあ」
もちろんぼやいても仕方がないように。
「もういっか」
テレビを消して立ち上がる。就寝の準備。少し早いが寝ようと思う。先の期末テストで睡眠時間が減っていた。だから、ちょうどいい。一定のリズムに早く戻す。こういう心がけが大切だろう。寝られるかどうかはべつにしても。
就寝前の準備を終えて自室へ。もちろん、戸締りの確認は忘れてない。トイレにも行った。寝間着にも着替えた。その他諸々も問題なく。後は布団を敷くだけ。暑いからタオルケットのみでいい。いや、それすらいらないかもしれない。おざなりに大小二つの枕を重ねて完成。電気を消す。
「おやすみなさい」
誰ともなしにつぶやく。目を閉じる。蝉の声が鳴りやまない。正直言って煩わしい。それと寝苦しさも半端ない。不快な気分が増していく。だから、起きて扇風機のタイマーをセット。これで少しはマシになるはず。などと思ったが変わらない。蝉の声も暑さもしのげない。
おかげで、不必要な輾転反側を繰り返す。時間ばかりが過ぎる感覚。このままだと、まんじりともしないで夜を明かしてしまう。
すでに十一時。枕元の置時計が同じ時刻を指し示す。三つとも。秒数まで正確に。全て正常だ。違う。そこが問題ではない。問題なのは一時間以上も経過したこと。ここはもう起きるべきか。ただ、その起床になんとなく抵抗を感じる。寝そびれたと分かっていても。今は転んでもただでは起きないという精神に近い。もっとも、単にきっかけを欲してただけかもしれないが。
とにかく、思考を巡らせすぎた。僕は眠れないとこうなってしまう。思考が連鎖的に続いていく。それは考えることが多いせいだろう。考える必要は全くないのに。ここは一刻も早い救助が求められる。無数の羊たちへ救助を要請すべきか。いや、こんなに暑い熱帯夜では羊も出ずっぱりだ。きついに違いない。彼らのコストパフォーマンスに大きな影響を及ぼす。物量作戦で乗り切る軍団だから楽でない。
「ん?」
扇風機の羽音と蝉の鳴き声。さらに、べつの音が聞こえる。携帯音だ。正確にはバイブレーションの音。小刻みな振動で自身の存在を教えている。
「ちょうどいいな」
この好機を逃さずに起き上がった。電気をつけて机へ。携帯の画面を起動。メールが一件。ボタンを押す。短い文面が出てくる。
『マク、なにしてた?』
言葉の他にデコレーションと絵文字。目が異様にちかちかする。装飾の割合が半端ない。やはり、装飾は苦手。なんとなく良くない。これなら過剰な言葉で糊塗して粉飾する方がまだいい。
ところで、翠は毎回こんなメールを送ってくるわけでなく。いつもはシンプルだ。シンプル極まりない。なのに、機嫌がいいとこうなる。不思議にも装飾が増えていく。
「えっと、十一時半前か」
携帯で時刻を確認。十一時半前。何度見ても変わらない。つまり、一時間半のぐたぐた。寝そびれたにも程がある。あそこで寝る決心を抱くのは早かったか。明らかに良くない判断だったかもしれない。
翠はお風呂上がりなんだろう。時間的にもそうだ。もっとも、どうして機嫌がいいかは分からない。ただ、候補として思いつくことが一つ。それはスタイルの改善に一定の成果が表れたおかげか。最近の翠はやたらスタイルを気にする。だから、少しでも上手くいくと機嫌は良くなる。だとすれば、ネコネコ体操が本格的に成功したのか。あのけったいな体操が役に立った。素晴らしい。ブラボー。積年の努力が実って良かったと思う。
『暇してたよ。やることなくて』
僕は簡潔なメールを返す。考えた時間はそんなでもない。むしろ、レスポンスが大切。あっさりと送るべきだ。シンプルイズベスト。この法則は大切である。
やがて、メールを送ってから数分後。携帯が同じように振動。今度は電話だ。暇と聞いて反応したに違いない。僕はボタンを押す。携帯も耳に添える。すると、翠の声が聞こえてきた。やはり機嫌がいい。
『やっほー、マク』
人一倍元気だ。バイタリティーであふれている。
『暇してたんでしょ? 私とお話ししてよ。私、今お風呂上りで髪を乾かして、ネコネコ体操も終えたところだからさ』
大方の予想は当たってた。それも怖いくらいに。
『だからいい? いいよね』
『べつにいいけどさ。でも、なんでそんなに機嫌が良さそうなの? ここまで暑くて寝苦しい熱帯夜なのに。後、六月中旬から猛暑日というのは少しおかしいと思う』
ここぞとばかりに翠へ不満をぶつける。
『そこは冷房をつければ問題ないじゃない。って、ああ、マクは冷房がだめなタイプだったか。だったら、少し困るよね。いや、大問題だ。じゃなくて聞いてよ。私のスタイル改善計画が順調すぎるんだって。体重もかなり減ったの。だから、機嫌がいいんだよ。マクでさえも分かるくらいだし』
今の声だと誰でも分かると思う。そのくらいに機嫌がいい。
『つまり、あの変なネコネコ体操の効果が本当に出てるんだ。それは驚き桃の木山椒の木だね』
『あはは。面白くないなあ。今の時代、そんな意味不明の言葉なんか誰も使わないって。驚き桃の木サンショウウオ? 岩屋から出られなくなったんですかっ! ツッコミ!』
やれやれ。意味不明なのはお互い様だった。
『てか、それよりも変とは失礼だよ。あれはさ、私と弟の二人三脚で完成させた至高の体操なんだから』
『え? 弟?』
『うん。弟』
今の話は初めて聞く。弟との二人三脚とはびっくり。
『そこにはちょっとした奇跡があってね。信じ難い超展開で誕生した珠玉の傑作なんだよ』
『なんだか話が壮大すぎるんだけど。まるで価値ある魔法陣を完成させたかのような言い方をされても困るな。僕は魔法陣の構築なんて分からないんだから。全容がつかめない話は疑問だけが募っていく』
『たしかにそうだよね』
『で、どうして弟?』
『えっと、とにかくそういうことなのよ』
翠はあからさまに言葉を濁す。歯切れが悪いので追及しない。
『まあ、いっか。ところで期末テスト。どうだった?』
『その話を私に振っても無駄だと思うな、マク』
翠が深いため息をつく。たしかに意味がない。翠は自分らしく勉強してる。否、勉強してない。どうも、この前の受験勉強が懲りたみたいだ。自主的判断で勉強を抑えてる。反動で受けつけないかもしれない。
『だいたいね、私が入学試験以外で本気を出すわけないって。それは出し惜しみというわけでもなくて。元々の資質というか。サボり癖? バカ?』
『バカではないと思うけどね』
このことは高校受験で実証済み。翠の要領の良さを示す一例だ。
『ただ、間違いなく翠の言う通りだな。翠が期末テストくらいで勉強するわけがない』
『うんうん』
『でも、一応聞いたんだよ。話の流れとしてさ』
『……』
沈黙。結構長い。
『そ、それよりもマクの方こそどうだったの? マクは中間テストの成績も良かったから優等生だと思われてるはずだし。最初の印象っていうのはなかなか覆せないよ。その上、誰もがそこを基準にする。これは大変だ』
『うん。必死で話題を逸らそうとしてるのはよく分かった』
『なによ。私は純粋にマクのことを心配してるんだからね。あ、ううん。違う違う。言いすぎた。ほんの少し考えてみただけ。それに私のことはいいのよ。赤点三つくらい一日でカバーするし。一日あれば、英語も数学も物理も大丈夫。本当の戦いはこれからだね』
赤点三つか。しかも、理数系が壊滅。後、打ち切りフラグが立ってる。
『大事なのはマク。マクの方だよ。それともあれかな? 最近出来た彼女にうつつを抜かしてだめだったとか? そんなことはなさそうでありそうだからなあ』
痛いとこをついてくる。いや、痛いとこでもないか。
『僕は中間テストと同じくらいだよ。順位も点数もね。どの教科もクラスで五番目くらいだったな。まるで狙ったかのように』
『へえ。それはある意味すごいよね。うん。……それとマク。少し大事な話だけどいい? 私、さっき彼女って言ったじゃない。つまり、私がこうやって電話するのは控えた方がいいよね。今頃気づいてあれなんだけどさ。ほら、相手の立場で考えてみればこう思うのよ。あまり気分のいいことではないなって』
その考えは一理ある。ただ、今回の場合は少し様相が違う。それは僕と翠の関係が異性の友達とかではないこと。もっと深い関係。幼馴染だ。曲がりなりにも、絶対的で最強の空気感を持ち合わせてる。
『マクだってそう考えるよね』
『うん。その考えは正しい。翠の言う通りだ。でも、僕は存外にそう思っていなかったりする。僕と翠はこんなことで覆される関係じゃない。僕たちのあいだにある幼馴染という空気。それは何物にも代え難いと』
『そっか。嬉しいな。マクが私を幼馴染として大事に思ってくれる。よく分かった。でも、問題はそこではなくて』
『ああ、それなら大丈夫。翠の考えてる問題には発展しないよ。間違いなくね。理由は僕と彼女が一般的な付き合い方と少し異なってるから。厳密には付き合っていると言えるか分からない』
正確には依存関係。ただ、付き合いの定義が依存だとしたら正しくなる。
『そうなんだ。付き合っているかどうか分からない関係か。ってマク、それで本当に大丈夫なの? 問題になったら、私はいたたまれなくなるよ。私が関係してるかでなくてさ。とにかく、悲しくなって泣いちゃうかもしれない。私、涙腺弱いし。本当に涙って不思議なんだよ。勝手に次々とあふれてくるんだから。自分の意志では全く制御できない。自分とは違う意志が作用してると思うくらいだもん』
『ちょっと待って。どうして翠が泣かなくてはいけないんだ。翠が泣く必要なんかどこにもないぜ。泣かないでくれ、翠』
『泣かないでって言われても。私だってそう思ってるよ。泣くなって。でも、仕方ないよ。そういうふうに出来ているんだから。心配になると条件反射のように涙があふれてくるの。まるでなんかの刷り込みみたいだよね』
『心配か。涙を流すまでして心配しなくていいのに』
『そんなことないって。マクだしさ』
『そうかい』
このように時々、翠は過剰な気づかいさんになる。原因はよく分からない。人にはいろんな側面があるんだろう。一面だけを切り取って論じるのは間違いだ。
『まあ、とにかくだよ』
少々強引に結論づけて話を戻す。
『僕が言いたいのはさ、今まで通りにやっていこうぜってこと。僕と翠の関係で問題が発生する可能性。これは万に一つもないんだから。それでいいよね』
返事はない。吐息だけが聞こえる。少しの沈黙。
『そっか』
やがて、翠が口を開く。
『万に一つもないと。うん。分かった。私の言いたいことは上手く伝わっている気がしないけどいいや。べつに問題じゃないからね。とりあえず、マクの言葉を信じるよ』
『信じてくれると。それで今まで通りやっていくと』
『うん。そうなるね。よし!』
柏手を打つ音がした。パンッと。受話器の向こうでも明瞭に聞こえる音。何かの感情が弾けた合図にも思えてしまう。ただ、何かというのは詳しく分からない。そこが一番の難点だとぼんやり考えた。