遍く衆生に救い在れされど君にこそ救済を願う
初めまして。本編は短編となっております。
少し長めで、投げっぱです。引き返すなら今しかない。
「疲れた…」
堺井冬貴は仕事帰り、いつも乗り過ごしそうになる終電に間に合って安堵した。
今の会社に勤め始めて早2年、新人の頃は大した仕事もなかったが、慣れ始めてきた頃から仕事の量が次第に増えていき、気が付いたら終電コースの毎日になってしまったからだ。
終電を逃した夜は、ホテル代で5000円近く飛んでしまう。
独り身で自由になる金はあるが、賃貸のアパートがありながらホテルを使う事に、やるせなさを感じてしまう所。
そんな時は、少しでも安い場所と、漫画喫茶やカラオケ屋で夜を明かす事もしたが、次の日が余計にキツくなってしまうと言う事もあって、今では終電を逃した場合、しょうがなくもホテルを使うようにしている。
終電だろうと、マイホームに帰れると言う事はありがたいのである。
「ガタン、ゴトン」
「あー…、たく、労働時間長い割に給与すくねぇ…残業全部付けてくれよ…ったく」
――そうすりゃタクシーで帰れんのによ…。頭の中が愚痴で埋まって、端から漏れ出るようにとめどない。
度重なる疲労に、精神が大分傾いているのかもしれない。
「ガタン、ゴトン」
「学生ん時はバイトで8hやっただけで、すごい働いた気になったっけなぁ…今やその倍を毎日とか…、意味わからんわ」
意味はないが、溢れてくる愚痴を止めようとする心が動かない。
冬貴の先輩がいい笑顔で「食事、睡眠以外全部切り捨てれば、いくらでも働けるぞ?」と、言い切った時は「さすがに辞めてもいいだろう」と思ったが、次の職も見付からず、結局ずるずると今の仕事を続けているのが現状だった。
「がたん、ごとん」
「辞めてぇ、逃げてぇ…。いっその事、この電車で何処までも…はぁ、終着駅に着くだけじゃねぇか。ったくよぉ子供の頃は、もうちょい色んな事に夢があったなぁ…」
――子供の頃の夢って何だったっけかな…。ぼそりと一言吐き出して、車窓の外を見る。
窓のガラスには、何故か幼い頃の自分が映し出された。
お腹の大きな母親に、ぴったりとくっつき、これから増えるであろう新しい家族を待つ自分。
「ははっ……んだよ、これ」
仕事の疲労で幻覚でも見えてしまったのかと、目頭を抑えて揉む。
再び見直すと、車窓には暗い夜の色が張り付き、車内の蛍光灯が反射して、冬貴の全体を映している。
惚けたように映った自身を見る。
子供の頃より育った自分に溜息を吐く。まるで別人だ。と言わんばかりに。
そこでふと気付く、先程まで一体何を見ていたのか思い出せない。
大事な事だった気がするが、いくら記憶を振り返っても思い出せず、結局はその思考を投げた。
「…しっかし、珍しいな。いくら終電って言っても、誰も乗ってないって…ふわぁ……」
欠伸を隠す事なく大きく口を開けて辺りを見回す。
終電の常連であった冬貴からすれば珍しいが事だが、全くない訳でもない。
どうせ他の車両に居んだろう。と思い、電車特有の眠気を伴う誘惑に、日々の疲れもあってその身を任せた。
「がたーん、ごとーん」
「すー…すー…」
「がたーーん、ごとーーーん……クスクスッ」
「ジリジリジリジリッ!!」
不快な騒音に目を覚ます。
変な姿勢だった為か嫌な寝汗と、寝起き直後の思考の鈍さで頭が痛くなる。
電車は停り、ドアは開けっ放しで駅の構内を映す。
普段であれば、電車の中の電光掲示板を見て、現在地を確認し判断したのだろうが、冬貴の寝起きの頭は未だに回転が遅く、鳴り止まぬ音に急かされるよう決断をする事となった。
『降りますか?』
『降りませんか?』
「わぁぁっと、降る! 降るって!」
慌てて電車のドアを潜り、駅の構内に駆け出す。
すると不快な音がパタリと止み、プシューッと電車のドアが閉まった。
乱れた呼吸を整える様に、膝に両手を乗せて肩で息をする。
「…はぁはぁ。ふぅ、アレ…なんで俺ここで降りたんだ? てか、どこの駅で降りたんだよ」
ぼんやりとした頭は、今になってようやく動き出した。
手を膝に、頭を下げた格好を崩し、現在地を確認する為に駅名の看板を探す。
あるハズの駅名の看板を探す。
駅名の看板を、探す。
看板を、探す。
探す。
探すッ。
探すッ!
探すッ!!!
「はっ? な、んだよ…ここは」
通常回転となったハズの冬貴の頭は、もしかしたらまだ眠ってるのかと、2.3度頭を振る。
少し長い黒髪が、頬にぺちぺちと当たる不快さにすら気にする余裕がなかった。
過去、今日と同じように疲れ果てて寝てしまい、終着駅で目を覚ました時もあった。
何回かやってしまった為に、終着駅は大体把握していた。が、次の瞬間、冬貴の理性が崩壊寸前に追い込まれる。
「っんだよ、これぇ!!」
本来の色と言う色の全てが抜け落ちたような、その駅は白い構内を形作っていた。
駅の構内は、冬貴がよく知る終着駅では無く、かと言って2年間通勤で通ったどの駅にも当てはまらない。
目を凝らせば凝らす程に、混乱が加速する。
駅名の看板が見つからない。
馴染みの電光掲示板がない。
改札口はあったが、TVやドラマで見るような、人が入るような古いタイプ。
現実味がなく、舞台のセットと言われても納得してしまうかもしれない。
駅の構内に目を向けていたが、ふと思い出す。
冬貴をここまで運んだ原因、その自分が今まで乗っていた電車が気になった。
降りてすぐ、混乱してるとは言え電車の音だ、発車してるか、してないかなど容易に分かる。
アナウンスもなく、音も静かな事から、まだ電車は冬貴の後ろにあるハズである。
電車はあって然るべき、しかし嫌な予感しかしない。
忙しなく動く心臓が、不安を煽る。
恐る恐る後ろを振り返り。
「……なんで。なんで電車も無いんだよッ! クソッ!!」
「クスクスッ」
「何がどうなってんだよっ!! オイ! 誰かいねぇのか!?」
「クスクスッ」
何度も周囲を見回した。
見回したハズの視界に、突然5.6歳くらいの着物を着た、オカッパの小さな女の子がいた。
「こ、ども?」
先程まで必死に構内を見ていたから分かる。
そもそも、終電の電車に乗っていたから、子供がいてよろしい時間帯ではない。
しかも時代がかった古い着物を着用している。
今時こんなモノ……。とも思ってしまう。
冬貴の混乱は、女の子の出現で別方向に加速する。
顔が見えないのだ。
前髪が目に掛かっているとか言う訳ではない。
顔全部が“黒い”のだ。
口も見えないその女の子から、可愛らしいく年相応な笑い声が聞こえる。
「クスクスクスッ」
「……」
「お兄さん可哀想…クスクスッ」
「何の、事だ」
突然の言葉に面食らう。
なんとか搾り出すように声は出せた。
口の周りは苔むしたように固く、喉の奥は痙攣しそうになるのを抑えるのに一杯だった。
正しく機能してくれない器官に、助けられたかもしれない。
次の光景は、冬貴の生理的感情に強く訴えられたからだ。
「だってねぇ、可哀そう」
「この人は可哀相?」
「かわいそうな、お兄ちゃん?」
「だっせー、腰引けてんぜ」
「笑っちゃいますね」
「ちょっとやめなよ、でも何か可愛いね」
幾人の子供の顔が、女の子の黒い顔面に浮いては消える。
どの顔も目玉くらいの大きさの顔で、無邪気に生まれて喋って消える。
吐き気が喉元まで込み上げる。
あまりにグロテスクだったからだ。
黒い顔に蠢く小さい顔、男の子、女の子、大人しそうな顔、優しそうな顔、呆れた顔、茶化す顔、不思議そうな顔、笑う顔、面白がってる顔、顔、顔、顔。
叫び出さなかっただけでも大したモノだろう。
状況に置いて行かれた脳は、口の機能をわすれたようで動かず、しかし、相手は小さく子供っぽい見た目で、理性にかろうじて働きが掛かろうとする。
だが、おかしな空間、グロテスクな子供、理解出来ない現状に、冬貴の混乱はてっぺんまで登り、そして……。
「で、俺に何か用か? てか、子供がこんな遅い時間まで出歩いてんじゃねーよ」
「えっ?!」
「えー?」
「あれー?」
「なんだこいつー?」
「頭おかしくなりましたかね?」
「変だけど、かっこいいねー」
これは冬貴の特質みたいなモノだった。
感情のバロメーターが、上だろうが下だろうが、振り切れるような状況になると、振り切れた所から真逆になる。
過去友人の前で見られた時と、目の前にいる異質な女の子は同じような感想を口にした事に、冬貴は「あぁ、変な奴だが結局は反応が一緒か」などと、変な所で納得した。
「お前らいっぺんに喋んなや、まず、俺は堺井冬貴さんだ。世間一般的なリーマンだ。…で?」
「えーっと…」
「どうしようね?」
「こっちも挨拶しなきゃ?」
「リーマンだって、サカイ! サカイ! 引越し? ぷぷっ」
「なんだ等々変になっただけか」
「あ、わたしはねぇー、わたしはねぇー」
「クスクスッ。お兄さん変わってますね、こんばんは」
「ほいほい、今晩は。年上の初対面に向かって「変わってる」はねぇーだろうが、ったく。それよりも、こんな遅い時間まで出歩いてたら危ないだろ。親が心配すんぞ」
「お兄さんは“ここ”が気になりません? 帰れないのはお兄さんの方なのに…クスクスッ」
「まぁ…、おかしな場所だよな。よかったら教えてくれるか?」
――いいですよ。と女の子は気軽に応える。
この声の女の子が喋ってる時は、黒い顔に小さな顔は浮かばない様だ。あの騒がしい六つの声は聞こえない。
「お兄さんは運がよかったですね。でも、“■■■■”に来ちゃったんだから運がなかったのかも、クスクスッ」
「あ、なんだって? 駅の名前か? 聞いた事ねぇな……んで、お前何なん? ケータイあるから、家電覚えてるなら使うか? 親心配してるぞ」
「……プッ」
「うふふふ」
「本気で?」
「俺等見て…ケータイ。家電って、は、腹が痛い」
「この人本当に人間ですか?」
「もー、可愛すぎ!」
また小顔が浮き出て、しかも大笑いをしている。
グロくて吐きそうだった気持ちがどっかにすき飛ぶ。
冬貴の青白かった顔に、赤みが差し血管が浮く。
「て め ぇ ら ぁ ! 大人の気遣いを笑うたぁいい度胸だな。覚悟はいいか?」
「え? あの、ちょっと黙ってて。私は何も笑ってませんよ?」
「同罪だ。よしよし、いい子だから大人しくしてようなぁ? くっくっく」
小顔達を引っ込めた女の子は、その見えない黒い顔に若干の焦りを伺わせた。
そんな事は関係ないと言わんばかりに、冬貴は無造作に女の子に近付き、両脇に手を差し込んで持ち上げる。
ものすっごい笑顔である。
今度は女の子が黒い顔のままだが、混乱した様に声を上げる。
「お兄さん? 何を…?」
「直ぐに分かる。喋んなよ、舌噛むぞ」
うおおおぉぉぉ! と雄叫びを上げて、女の子を両手に持ったまま、その場で回転し始める。
1回転、2回転、3回転、4回転、5回転、6回転、7回転、まだまだ回る。
ガンガン回る。
壊れたコマの様に冬貴は回る。
「ひゃぁぁ~~~~~~ん」
「と! め…」
「きゃーー!」
「目が回るよぉぅ」
「気持ちわりぃぃぃ!止めろぉぉぉ!」
「何子供相手にムキにぃぃ…」
「わー、楽しぃ! もっともっと!」
「どうだ! これが大人の力だ! 参ったかクソガキ共がぁ!!」
「ごめんなさいいいい!」
その言葉を聞いてようやく回転を落として止まった。
冬貴は肩で息を吐き、女の子は黒い顔の変化のないままであったが、構内に大の字で寝転がる。
どうでもいいが、女の子(5.6歳)の着物の裾ははだけて、息を荒らげる冬貴(24歳)は、何処からどう見ても犯罪チックに見えなくもない。
「きゅ~~~……」
「はぁはぁ…、俺とした事が、熱くなりすぎちまった様だな」
「気持ちわるぃ」
「あたし達にこんな事するなんて」
「ごめんなさいごめんなさい」
「はぁ、くっそー…、いつか仕返ししてやる」
「その時は…はぁ、僕も参加します」
「もう終わっちゃったぁ。もう一回もう一回!」
「もうっ! あなた達は黙っててよ! ……うぅ、まだ回る…」
「ったく、悪かった。俺もちょっとやり過ぎたかもしれん」
そう言って、鞄の中から口の開けてない紅茶の小型ペットボトルを取り出し、女の子に向かって投げる。
「これは?」
「電車に乗る前に買った奴だ。まだ口付けてないから安心して飲め」
言い切り女の子の反応を見る前に冬貴は歩き出す。
取り敢えず構内を歩いて、現状を確認しようと、まずは改札に向かって歩く。
「そう言や、前にネットでヤバイ駅の話とかあったっけなぁ…。どーっすっかな、やっぱり誰もいねぇかよ。って、ケータイも圏外か……これがお約束って奴か?」
ホントどーっすかなぁ…。と呟く、大きなあくびを一つ。
ケータイの時計を見たら、もう午前2時を回っている。
瞬時に「明日の仕事間に合うのかね」と思う辺り、冬貴も気が付かない内に社畜根性が備わってきているのだが、本人はまったく気付かず思案に暮れる。
「お兄さん、あんまり動き回らない方がいいですよ」
「んぁ? そうか、っま、こんな状態なら焦っても仕方ねぇか」
何時の間にか黒い顔の女の子が傍に来ていた。
素直に女の子の言を聞き入れた冬貴は、駅員室に入り込み宿直室を探し当て、ゴロンと横になる。
一日酷い目にあったと思いながら、仕事の疲れと、先程の運動の疲労もあり、あっさりと眠りに落ちた冬貴だった。
黒い顔の女の子に、顔があったならどんな表情をしていたのか。
寝息を立てる冬貴に近付き、本気で寝ている事に、呆れたのか、驚いたのか、黒い々顔は何も映し出す事はなく、小顔達も顔を出す事もなく、黒い顔の女の子はただ冬貴の方を向いているだけだった。
「あ……、会社に、行かんと」
ぼんやりと意識が浮かび上がり、目を覚ます。
何故か頭に柔らかい感触を受けて一撫でする。
「まくら変えたっけかな?」などと、寝惚ける頭で考えつつもその感触を楽しむ。
まくらがもぞもぞと動く。
「おかしなまくらだな…」と思い、そこでようやく昨日のおかしな駅の事を思い出す。
目を開けて上を向くと、真っ黒な顔の女の子が視界に入ってきた。
心臓が一気に飛び上がる。
「おはよう、お兄さん」
「……あぁ、全部思い出した。はよ、あー、寝起きにきついな」
「そう言うんだったら、手、止めてくれません?」
「はぁ?」
冬貴の手は、膝枕をしていた黒い顔の女の子のお尻を触っていた。
ちなみに会話中も、無意識にずっと触っていた様だった。
文字通り飛び上がる様にして起き上がり、宿直室の床の上に飛び降り、土下座の形で着地する。
「すすすす、スマンッ!!」
ゴンッ!! と鈍い音を立てて床に頭を付ける。
一連の動作に驚いたのは、黒い顔の女の子の方だった。
「ちょっと、お兄さん。すごい音でしたけど、大丈夫ですか?」
「無意識だったとは言え、本当に悪い事したっ! この通りだ!」
「いいから顔上げてください! もう気にしてませんからっ」
言われるままに恐る恐る顔を上げる。
額が割れた様で、冬貴のおデコから血がタラリと落ちる。
呆れが混じった溜息で、黒い顔の女の子が冬貴に近づく。
「もぅ、何してるんだか…本当におかしな人。じっとしててくださいね」
人差し指をおデコの傷口に当てると、温かいモノが流れ込む感覚を受けた。
冬貴が疑問に思っている間に、額の痛みは引いていき、完全に痛みが無くなった。
「はい、これで大丈夫。もう痛くないですよね?」
冬貴がおデコに手を当てて傷口を触るも、キレイサッパリと塞がっていた。
「あ、スマン。いや…ありがとう」
辛うじて感謝の言葉を絞り出す。
そんな冬貴の様子をおかしげに黒い顔の女の子が見る。
「クスクスッ、どういたしまして」
ぼんやりした顔で冬貴が思った「今こいつは年相応な顔で笑ってんだろうな」と。
顔も見えない女の子の顔が、何故か幻視出来た。
2.3度頭を振る。
昨日から余りに異常な事態に遭遇していたセイか、感覚がおかしくなっていると冬貴は思う。
行き成り頭を振るなどしたモノだから、黒い顔の女の子が心配そうな声で冬貴に尋ねる。
「お兄さん、まだ痛みますか?」
(てか、この声って一体何処から出てんのかね…。何となくで雰囲気が読める様になったけど)
「やっぱり、ここに長く居過ぎたセイかな…お兄さん」
「あ、スマン、ちょっと考え事しててな。ちょっと待ってろ」
「え? あの、お兄さん? 私の話をですね」
黒い顔の女の子の言葉には、心配する気配が混じるも冬貴は鞄の中を漁る。
通勤時間の長さと、会社に拘束される時間の長さから、鞄の中にはいくつか携帯食を常備しているのを思い出した。
どんな事態であれ、メシを食わないと力は出ない。つまりは一日の活力を探していた。
「あったあった。ほれ、メイツのチョコ味で良けりゃ食ってくれ。さっきの詫びもコミで入ってる、遠慮すんな」
「え? え?」
「ん? あー…、やっぱ口が無いから食えんとかか? わりぃ事したな、スマン」
「あ、いや、その…頂きます」
「やったね! 久々じゃない?」
「しかもチョコ味なんて気が効いてる」
「他にも味があるの?」
「げー、チョコ味かよ。俺チーズ味がいいんだけどな」
「へぇ、これが食べ物ですか」
「チョーコ、チョーコ!」
黒い顔に、小顔が浮き出した。
なんだろうか、この小顔達もすっかり見慣れた感覚に、慣れの恐ろしさを改めて再確認する。
「まだ要るか?」
「もう、あなた達はっ。いいえ、これだけで結構です」
小顔達を押し込める様にして、黒い顔になる。
しかし、耳を澄ますと「ひでー!」「ちょっとくらい…」「あぁ、チョコー!」などと聞こえる。
思わず苦笑が漏れてしまった。
「―――!」
もしかしたら、黒い顔の女の子は顔を真っ赤にしてるのかもしれない。
そう思ったら余計に笑いが止まらない。
「くっくっく…」
「何、笑ってるんですか。そもそも貴方は自分の置かれてる――」
「貴方、じゃねーよ。昨日言っただろ、俺は堺井冬貴さんだ。呼び方は好きにしろ。ただし「さん」付けしろよ?」
「はぁ…、では、堺井さんはですね、今の――」
「そうだ、おまえの名前ってなんつーんだ?」
「えっと…」
「あ、間違えた。おまえ達の名前なんつーんだ?」
「ワタシはアキよ」
「あたしはツグミ」
「ボクはトラマル」
「俺はケンジってーんだ」
「僕はツネヒコ」
「あたいはカヨー!」
「アキに、ツグミに、トラマル、ケンジ、ツネヒコと、カヨか。よし、覚えた! 何となく声の感じで判別出来るかな」
「もぅ…、あなた達ときたら…」
「ははは、苦労してんのな。で、おまえは?」
「……」
黒い顔の女の子の表情が曇った気がした。
ただ、何となく、そう感じた。
「…別に、言わなけりゃいかんつー訳でもないからよ。あー、気にすんな」
「クスクスッ、お兄さん…堺井さんは本当に変な人。隠すつもりはないんだけど、ただ、ですね――」
そう言って少し寂しそうに「私は“容器”だから、名前はないんです」と、答えてくれた。
「いれもの? なんじゃそりゃ」
「クスクスッ」
今度の笑い声は、あまりに切なくて、冬貴は頭をガシガシとかく。
気に食わない。そう心が感じたままに口を動かした。
「ならよ、おまえ『クス』だな」
「はぇ?」
「呼び名だよ、呼び名。別に本名がねぇんだったら、あぁ、ほら、あだ名だ」
「まさか、私がクスクスッ笑うから…ですか? あん――」
「安直結構、コケコッコー! それは本名じゃねーから、ツレ同士の間で使うあだ名だから、安直でいいんだよ。むしろ安直じゃない方が変だ」
「何ですかその理論は…」
どうやらクスは不満がある様で、明らかに不機嫌な雰囲気を出す。
しかし、援護が思わぬ方向から来た。
「いいじゃないクス」
「そうよ、似合ってるクス」
「クスー? うん、覚えた」
「やったな! ようやく呼び方決まって。おっしクスな!」
「ふむ、クスですね」
「きゃはー、クスクス!」
「あなた達は…っ」
「じゃ、よろしくな。クス」
何となく嬉しくなってしまって、クスの頭をガシガシと撫でた。
頭を撫でていると「むぅぅ…」とか「ううぅ…」とか、クスの不満げなうめきが出てきた。
勢いで乗り切るように、冬貴は話題を転換させる。
「さてと、腹に食い物入れたし、ちょっくら散歩してくるわ」
「堺井さん、気付いてます? ここがおかしな場所だって事」
「あー? んなん見りゃ分かるだろ。ほれ、建物に色ねーし、空も曇ってるのに光ってるしよ。あの時降りずに、乗ったままでいりゃ良かったかな」
「はぁ…。あのまま電車に乗っていれば、間違いなく死んでましたよ」
「え? マジで?」
「あの電車はそう言う電車なんです。運がいいって言ったのは、そう言う事なんです」
「そうか、俺運がよかったんだな。確かにクス達に会えたもんなぁ、うんうん」
「…変な人、最初は私達を見て、吐きそうな程酷い顔してたのに」
「まぁ、最初は面食らったわ。でもよ、こうやって話通じるなら問題ないだろ」
「何でそう言う言葉出ちゃうかな」
「ねぇ、本当」
「降りてきてよかったね」
「ふつー本人達前にして、言うかね?」
「変人現る」
「面白おかしいって言うのかな!」
おかしな場所におかしな子供、それでも和んでしまう会話に、冬貴は自然と頬が緩む。
付け加えるなら、おかしな人間も入るかもしれない。
駅の構内でたわいのない話をしていると、電車の到着を告げるベルが鳴った。
「ジリリリリリリリリッ!」
冬貴の降りた電車とは、逆側から電車は入ってきた。
クスの言う電車が死の國行きの便だとすれば、逆から来た電車は元の場所に戻れるのかもしれない。
漠然とだが、単純な考えを口にする。
「なぁ、こりゃ乗っていい電車なのか?」
「この電車以外乗ったらダメ。でも…、何時もならもっと早く来るのに。今回に限って遅いのは変…」
クスが黒い表情で、少し考える仕草をする。
そもそもクスの記憶では、ここに迷い込む人間は少ない。
迷い込んだとしても、数少ないながらも大体の人間は、滞在一刻程で帰っていくのが、クス達の常識だった。
「おいおい、恐い事言うなよな。なんか乗れなくなるだろうが」
「もぅ、これを逃したらどうなるか、私達でも分からないんですよ? 堺井さんは帰らないといけません」
もう電車は目に見える所まで来ていた。
赤い色の見たこともない系列の、しかも「古そう」とつく電車が構内に滑り込んでくる。
電車は色付きなんだな。とぼんやり考えて、ふと気付く。
「お前らはどうすんだ?」
「私達、ですか?」
「そうだよ、言っちゃなんだがガキがこんな所に居るのは、良くないと思うぜ」
冬貴としては、真面目な顔をして言った言葉に、クスは大きな溜息をつく。
「堺井さん…、私は“ここ”の住人なんですよ。最初からここに居て、これからずーっとここに居る。それは昔も、今も、これからも変わらないんです。ただ、ここに存在するだけの存在」
「はぁ? あれか、橋を通れないなら、橋の真ん中通りゃいいって奴か?」
「……」
「……」
溜息も言葉も無いが、黒い顔が呆れ顔になったのが分かった。
両者の距離は冬貴の歩幅で、2歩。途轍もなく遠く感じた。
場を解すように、騒がしい小顔達に呼びかける。
「アキ、ツグミ、トラマル、ケンジ、ツネヒコ、カヨ。お前達はどうなんだ?」
「ワタシ達は」
「クスに従うよ」
「だって」
「しょーがねーよ」
「約束ですからね」
「そーそー」
そんな小顔達の言葉に、何故か心がささくれ立つ。
クスの替わりに、クスの分まで、感情豊かに喋っていた小顔達は、この時だけはクスと同調してるかの様に、凪いだ海の様に静かに答えた。
「そう言う事です。私達の事は何も気にする事ないんです。元々ここに居たんです。堺井さんが帰ったからって、何も変わりません。それに、ここでの事ならあちらに帰ったらきっと忘れます」
「……」
ベルが鳴り続ける中、等々電車が駅の構内に停車する。
赤い電車のドアが静かに開く。
「さぁ、早くしないと行ってしまいます。堺井さん…?」
「…なぁ、クス達はそれでいいのか?」
「良い悪い、の問題ではないんです。空が空である様に、海が海である様に、私は私であるんです。それくらい、もうどうしようもなく決まっているんです」
「……」
クスの口調は堅かった。
冬貴を急かす様に、ベルはけたたましく駅の構内に響きわたる。
『電車に乗りますか?』
『電車に乗りませんか?』
「……」
曇り空を見上げて、自分の手を見詰める。
軽く握って開いて、握って開いてを繰り返す。
判断し難い冬貴の行動に、クスは急かすように心配するように声を掛ける。
「堺井さん、そろそろ本当に出ちゃいます」
「……分かった」
冬貴はクスの言葉に押される様にして緩慢に、電車に向かって足を進める。
「…なぁ」
電車の中に入ると、散々鳴っていたベルの音が止む。
「はい?」
赤い電車はその車体を静かに揺らし、次第に駆動音を大きくする。
「賭け…、しないか?」
だんだんと発車の準備が整う電車に一人乗る冬貴。
「賭け…、ですか」
色のない駅の構内で電車を“いつも”通り見送るクス。
「何、簡単な賭けだ」
『電車に乗りますか?』
『電車に乗りませんか?』
プシュゥーー。と、電車のドアが閉じる準備が出来たようである。
「はぁ…、いいですけど…」
ここでクスは迂闊な返事をしてしまった。
クスとしては、冬貴に別れの挨拶をしっかりして別れたかったので、取り敢えずと返事をした。
そもそも、意図の読めない話を冬貴がするので、その時期を図りあぐねていたクスは、ほぼ何も考えずに反射的に返事をした。
『電車に乗りますか?』
『電車に乗りませんか?』
「俺が」
言葉の途中で、ドアはゆっくりとだが締まり始める。
完全に閉まる寸でで、冬貴はドアに向かって十の指を差し込む。
異物を差し込まれた電車のドアは、わずかに覗く隙間を作る。
『でんしゃにのりますか?』
『でんしゃにのりま?』
「ちっと黙っとれぇ!! 俺がっ! このぉドアを開けたら…、クスは、電車に乗れっ!!」
「はぇぇ?!」
ギチギチとドアは冬貴の指を締め付ける。
現実の電車ならばセーフティの仕組みで、簡単に開きそうなモノであったが、赤い電車は指をちぎる程の力でもって締め付ける。
クスが驚きから回復し、冬貴を咎める。
その声は悲鳴に近かった。
「な、何考えてるんですか!? この電車は電車の形をとっていますが、彼岸と此岸を結ぶ特別な存在なんですよ! 神様にも等しいんです!」
「ぐぐぐぐ…。神様? はははっ神様?! そりゃ随分でっかいのに喧嘩売っちまったな…」
『でんしゃに』
『のり』
圧迫された指から血が吹き出る。
ドアから覗く十本の指が血塗れたその姿は、何処か彼岸花に似ていた。
激痛に顔を顰める冬貴だが、その瞳は萎える事なく、溢れる血を無視して更に指に力を込める。
久しぶりに聞いた単語に、冬貴の記憶がかき回された。
いつもならば、ここまで気持ちを昂らせれば、萎むだけの心のバロメーターは振り切れる所で固定される。
何度も何度も口に出して、のたうちまわった事が十何年ぶりかに吐き出された。
「なるほど、ここなら無口で耳が遠いあんたにも届くってか。あんたにゃ言いたい事があんだよ。散々あんだよ! なぁ…、なんで俺の兄弟連れてった? お袋の腹ん中に居た、弟か妹か…、楽しみだったんだよ。それがどっちか分かる前に、なんで死なせた! なんでなんだよ! ひっでぇじゃねぇかっ!」
冬貴が小学校に上がる直前の事だった。
母が身篭った。当時は意味も分からなかったが、母親から言われた言葉は今でもハッキリと覚えている。
「あんたはお兄ちゃんになるんだよ。これから生まれてくる…ふふふ、どっちだろうねぇ。男の子かな女の子かな? 小さい小さい命を授かったんだよ。お兄ちゃんなんだから、この子を守ってやんなくちゃね」
「さずかるってなぁに?」
「神様が下さるって事だよ」
「あかちゃんは、かみさまがくれるの?」
「そうだよ、だから神様に感謝しなくちゃいけないんだよ」
その時の冬貴は素直に「うん!」と大きく、元気に返事をした。
言葉の意味なんて分からなくてもいい、母親の大きなお腹に耳を当てるだけで、全部理解出来たから。
当時の冬貴の幸せは絶頂だった。幸せとはこう言う事なんだと実感した。
それが、脆くも崩れ去った。
幼かった冬貴に告げられたのは「兄弟は諦めなさい」と言う父親の冷たい一言だった。
父親の意味する所が分からなかった冬貴は、しつこく父親に食い下がった。
父親もつっけんどんにするつもりはなかったが、冬貴が小さく意味を理解出来ないと思って、詳しくは説明しなかった。それに、子供を流した母親の方の心配が強かったのもあり、懸命に尋ねる冬貴を放置した。
二人目と言う事もあって油断があった。
おかげで父親も母親も心の余裕をなくし、立ち直るまで随分と時間が掛かった。
その時間は、小さい冬貴の根底を覆し、変質させるのに十分だった。
この件から、冬貴の感情は自分にさえ手に負えないモノとなったのだった。
悪循環、その言葉が正しく当て嵌る環境になってしまった堺井家は、嘗ての明るく温かい家庭に戻る事はなかった。
溜まりに溜まった文句は、長年しこりのように心のすみに溜まり、そして今、クス達に切ない声を出させる原因を、境遇を強いる全てに冬貴の怒りは向かった。
故に、冬貴は吠える。
「そもそもガキが、子供がこんな所で、こんな寂しい所で、居ていいハズねぇんだよぉ! ふっざけんなよおおおぉぉぉぉぉ!!」
クスは呆然として冬貴の慟哭を聞く。
『』
『』
「開けよおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
『クスを連れて行きますか?』
『クスを連れて行きませんか?』
「絶 対 に!! 連 れ て く っ!!!」
額に大きな脂汗を浮かべ、目は血走り、口からは血を流し、更には指を切断寸でまでされながらも、冬貴はハッキリと答えた。
その言葉を受け取ったのかの様に、それまで堅く指に食い込んでいたドアは、あっさりと開く。
「ゼッー、ゼッー…、ぅあッはぁ…はぁ…」
「……………なんて事を」
今にも死にそうに息をする冬貴に、クスは辛うじて搾り出した。
自分でも何を喋っていいのか、とても意味のある言葉ではない、ただの驚きだった。
「……よぉ、賭けは俺の勝ちな」
「こ、こんなの、無効です! ダメです! 何言ってるんですか!?」
「あぁ? …約束がちげぇぞ?」
「あんな一方的な約束ありますかっ! 私はここに居ないとダメなんです、いけないんです!」
「俺は、しっかりこの耳で聞いたぞ。賭けに乗るって」
「馬鹿なの!? 賭けの中身すら言う前だったじゃない!!」
クスはヒステリックに叫ぶ。
話の内容を第三者が聞けば、まず間違いなくクスの方が正しいと、誰もが言うかもしれない。
冬貴が、独善的なまでに自身のエゴをクスに押し付けたのだ。
それでも、冬貴は引き下がるつもりはなかった。
「ふーん」
「何処見てるの、真面目に聞いて!」
冬貴は空を一瞥して、誰もいない場所に向かって声を投げ掛ける。
おそらく居るであろう裁定者に、責任をとらせる為に。
「神様よ、俺は賭けに勝ったよな?」
「えっ?!」
冬貴の言葉を是とするかの様に、クスの背中は何者かに押された。
つんのめる様にして、とっとっと、と車内に踏み込む。
思わず笑みが零れる冬貴に、クスは状況を理解出来ないと言った風にして首を振る。
「よし、出発進行ーーーーー」
はしご酒をするかのように気楽に声を出し、電車のドアは再び閉められ、ゆっくり、ゆっくりと鉄の車体は重い車輪を回す。
赤く古ぼけた電車は、たった二人の乗客を乗せ走り出す。
くるくるくるくる。ガッタン、ゴットン。
くるくるくるくる。ガッタン、ゴットン。
くるくるくるくる。ガッタン、ゴットン。
赤い電車はその車体に似合わず、丁寧に車輪を転がす。
色の抜け落ちた構内を後に、次第に速度を上げて往く。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
「おーい、そろそろ機嫌直してくれよ…」
「……」
どこぞへ向かう電車の中で、冬貴はクスに話し掛けていた。
黒い顔のクスの表情は動かないので、その感情は読み取れない。が、顔を冬貴から逸らしており、怒ってる事は伺えた。
冬貴は傷の無い指で頭をかく。
「指、治してくれてありがとな」
「……」
「もー、頑固ね」
「へそ曲げちゃったかしら」
「喧嘩良くないよ」
「傷は男の勲章だぜー」
「治さないと落とすしかないですよ?」
「熱かったねー」
自分たちはまるで関係なし、とばかりに小顔達は勝手に喋る。
しかし、クスの怒りは最もなモノである。
それでも、冬貴はその事に関しては謝る気はさらさら無かった。
最終的にどちらかが折れなければ話は進まないのだが。
困ったとばかりに頭をかく、場の空気に気まずくなり、冬貴は車窓の外に視線をやる。
外は真っ暗で、映し出すのは車内の蛍光灯に反射した自分達だけだった。
どれくらいの速度で、どこに向かっているのかすら分からない列車の旅に、そう言えばと一つの考えが浮かんだ。
(勢いでクスを連れてきたけど、元の世界に戻るんだったらクス達をどーするかな)
自身のエゴで以て連れ出した黒い顔の女の子。
現実の世界では勿論戸籍などないだろうし、これからの事を考えると問題が山積みだった。
冬貴は現在アパートにて一人暮らしで、子供の一人くらいなら黙っていればバレないだろうが、世間にバレた時がそらおそろしい。
ただの子供でも大事だけれど、クスは更に輪をかけてその身に明確な“異常”を持つ子だ。
(てか、他人には見えないとかあんのかね。幽霊…じゃないしな、触れらるし話は出来るし)
――てか、仕事の無断欠勤したってのもあった…。そう思ったら若干肝が冷える冬貴だった。
(あの会社なら即首って事はないだろうけど、ねちねち嫌味言われんのは覚悟しとかんとな…)
別に首になったらなったで未練はない冬貴だったが、それは以前の考えになった。
今はクス達を養っていく事を考えると、ここで職を失う訳にはいかなかった。
貯金はあるとは言え、もしかしたら住む家を変えなければいけないかもしれないし、食費や衣服その他の出費は当然増える。
無責任に投げ出す気は全く以て無い。
そんな勝手な事をつらつらつらつら考える冬貴だった。
「………おかしい」
思考が「帰ったら」の事に集中していた冬貴だったが、クスがようやく口を開いた事にほっと胸を撫で下ろす。
と、同時に不穏な言葉を含むクスの疑問に、嫌な予感が走る。
「どうしたんだ?」
「……プイ」
――おーい…。まだ許してくれないのかと、気落ちする。
冬貴の言葉に答えず、首を横にするクスだった。
しかし、答えようが答えまいが、クスの疑問は明確な形で以て判明する。
列車に異変が起こる事によって。
「なっ?!」
「…!」
車内の四人座りの一角に、対面で腰掛けていた二人の身体が浮く。
つまりは、列車が進むべき方向から脱線した事を示す。
「おいおい、マジかよっ」
「そんな…」
二人して「信じられない」と言った内容の言葉を出すが、その意味合いは違った。
冬貴はただ単純に、現状の異変に着いていけずに口走ったのに対し、クスは異変自体有り得ないと言った風に呟いた。
彼岸と此岸を結ぶ列車。
クスの言葉を借りるならば、『神に等しき』鉄の箱。
それが、落ちる。
例え乗った事が不本意だったとしても、列車が本来辿り着くべき場所に往く前に、神に等しき存在がその道を外れる様な事などあってはならない。
そんな事があってなるモノかと、クスは言葉を失う。
そして、二人の意識は無限の闇の中、吸い込まれるように落ちた。
「いちちっ…」
冬貴が意識を取り戻す。
最後に記憶に残るのは、溶ける様に消える意識だったが、起きてみると軽い頭痛に顔を顰めた。
「ここ十数時間に人生で起こり得ない体験しまくってる気がする…」
ぼんやりとする頭で記憶を掘り返していく。
そんな惚けた頭で周りを見渡す。
一抱え程の岩がごろごろあるだけの、丈の短い芦の草原が広がる。
闇から戻った視界には痛いくらいの太陽もある。
「…どこ、ここ? ってクス達は」
電車の車内とは掛け離れた風景に、ようやくクスと言う黒い顔の女の子を思い出す。
障害物なぞない風景の中、芦の群生する草原に目を凝らして探す。
暗い世界から太陽の降り注ぐ今に、若干の目眩を覚えるも、草原の中にぽっかりと不自然な空間を発見する。
急いで近寄ると、案の定着物姿のオカッパの女の子、クスを見つけた。
「おい、クス。大丈夫か?」
「うぅ…、救世菩薩様?」
「はぁ? おーい、しっかりしろ傷は浅いぞ」
「へぁ? 堺井、さん?」
冬貴に揺さぶられる様にして、冬貴を認識するクスは「訳が分からない」と言った風にして声をあげる。
黒い顔に太陽の光は届いているのか、手で庇をつくり、鈍い動作で冬貴に寄り掛かり起き上がる。
そして、二人を覆うように日が陰った。
「おはようさん。クス、ここどこか分かるか?」
「あ、はい。って電車の中じゃ…ぇ? え? えぇぇぇぇ?!」
「その反応じゃ、クスもわかんねーみたいだな。ったくなんなんだよな、一体よ」
「トカ…、トカ…? え? なに? なんなの?」
「とか? なんとか? おい、さっきから何言ってんだよ。だいじょーぶかー」
クスがおかしな声を出しながら冬貴の後ろを指差していた。
その意味を確認しようと後ろを振り返ろうとした冬貴も、突然現れた日影の謎を理解した。
上空から重量を感じさせる音と共に、降り立ったモノを視界に収める事により。
「ドラゴンとか何この超展開。意味わからんわ」
呆れの混じった冬貴の台詞も仕方がないかもしれない。
ファンタジーで言う所、ド定番の巨大な緑色のトカゲ、もとい、ドラゴンが二人を捉えていた。
ご丁寧に、上空から現れたであろうドラゴンは、口から赤い舌をチロチロ見せてヨダレを垂らしていた。
「あー、つまり俺達はメシか? ハラペカかよお前は…、全力で逃げるぞぉぉぉぉぉ!」
未だに腰を抜かしているクスを脇に抱えて、言葉通り全力でその場から駆け出す冬貴を、重い足音でドラゴンが追いかける。
必死に走る冬貴は、頭の何処かで「これは夢じゃ…」と考えるも、後ろから迫る大迫力の足音と振動を感じる事で、逃げる思考と震える足腰に活を入れる。
「だぁぁぁぁぁぁ! こんな障害物のない所で逃げ切れるかぁぁ! なんつー無理ゲー!」
「さ、堺井さん! おろしておろしてぇ!」
「ダメだっつーの! なんとか…なんとかぁぁ!」
具体的な考えがない為に、クスの提案と今後の予想もないままに、意味のない言葉を繰る。
気が付くと後ろからの足音が聞こえない。
まさかと思うも目の前に、重量を持った塊が降りてきて冬貴達の道を塞いだ。
ドラゴンの口からは大量のヨダレが滴り、二人に狙いを定めた両目はしっかりと固定されている。
「ヴォボオオオオオオォォォォォォォォォォォンッ!!!」
ただの音だが、巨大な獣の咆哮は冬貴の心を恐怖心で満たすのに十分だった。
このドラゴンは知っているのだろう。
食物連鎖の頂点としての存在は、挙動一つで下位の生物を容易く命を奪える。
そして、ドラゴンは強者としての余裕から選択肢を考える。
即ち、直ぐ様腹を満たすか、遊んで食うか。
幸いな事に、獲物は二つある事に思い至ったドラゴンは、ゆっくりとした動作で足を上げる。
わざと足踏みをして、獲物に逃げる機会を与えた。
獲物の怯える仕草が見たい、小さく些細な抵抗で食欲を煽って欲しいと、ドラゴンは期待する。
しかし、五度程足を踏み鳴らしたドラゴンは、ここで目の前の獲物に疑問を覚えた。
逃げないのだ。
癪に障る。
ただ自分を楽しませ、腹を満たすだけの生き物がとっていい行動ではない。
ドラゴンの思考は、怒りからか牙をかき鳴らす。
ようやく目の前の獲物が、動きをみせた。
「あー、ったくよぉ…最悪な気分だな。おい、トカゲ野郎。お前こっちの言葉分かるか? その小さい脳味噌で分かんならよ、俺の方がデカイから食うにはもってこいだぜ」
「何言ってるの堺井さん?!」
「ほーれほれ、こっちのに~くは大きいぞ~ってか。デカイトカゲは引きつけるからよ。クスは反対側に逃げろよ。こんな所に連れてきて悪かったスマン」
ドラゴンの咆哮ですっかり気分が下がった冬貴は、アピールする様に手を振りドラゴンの注意を惹きつけた。
クスに指示と短い謝罪をして一気にドラゴンの側を通り越し、その後方に向けて走り出す。
後ろからクスの引き止める声が聞こえるも、無視しながらクス以上の大声を出しつつドラゴンのターゲットを自分に向ける。
「グボォォ?」
言葉を理解した訳ではないが、冬貴のセリフから不快な感情を読み取ったドラゴンは、クスには目をくれず冬貴一人にターゲットを絞った。
「っけ、デカイ図体でオツムが小せえトカゲちゃん! ほれっ、手の鳴る方へェエェェェ?!」
通じるかどうか分からないが、懸命に挑発しつつ全速力で草原を走る。
少しでもクスから遠く、少しでもクスの事を忘れさせる為に、冬貴はドラゴンの注意を呼ぼうと必死に走る。
冬貴の狙いは見事に成ったが、少しばかり考えが甘かった。
期待以上にドラゴンは怒り狂い、冬貴目掛けて体当たりで迫って来た。
「ゲェッグッ!」
まるで4トントラックにぶつかった様に冬貴の身体は宙に投げ出され、芦の草原を滑る。
たった一度の体当たりで冬貴の身体は絶叫を上げて動けなくなってしまった。
それでも意識があるだけ大したモノかもしれない。
掠れる意識を繋いで、冬貴は最後のチャンスを狙っていた。
「…ッテェェよ」
息をするのも困難な状況もお構いなしに、ドラゴンはゆったり近付き、寝そべる冬貴の腹を鋭い牙で挟んだ。
冬貴は腹から出る血を無視して、上着のポケットから取り出していたボールペンでドラゴンの目を突く。
「こう言う場合は目がセオリーだ…って、マジかっ」
僅かな望みで突いたボールペンの切っ先は、硬いガラスにブチ当たったかの様に弾かれた。
ささやかな抵抗はドラゴンの牙が、より深く腹に刺さっただけに終わってしまった。
「……ずりぃーぞ、そ、こは、刺されよ」
力なく悪態をつくも、最後のチャンスを不意にしてしまった事もあり、必死に繋ぎ止めていた意識が薄れていく。
死がすぐ側まで着ている。
「死んだら何処にいくのか」子供の頃から、ずっと付き纏っていた思いが冬貴に再び蘇った。
もうそんな考える事しか出来なくなり、これが走馬灯かと笑ってしまう冬貴だった。
「……お兄さん!」
突如として、幼子の悲痛な叫びが冬貴の耳朶を打った。
姿を見る事もなく流れた命。
呼んでもらえる前に消えた小さな温もり。
守る事すらできなかった約束。
過去の想いは、「兄」その一言で冬貴の精神を瞬時に補強した。
苦い思い出が、冬貴の意識をもう一度と完全に繋ぎ止めた。
「おぉれがっ、まっもぉ…」
なんで逃げなかったとか、馬鹿野郎と怒鳴ってやりたかったが、そんな言葉よりも先に危険から遠ざけなくてはと言う感情に支配された冬貴は、ボールペンを持った手に力を入れる。
頼りないにも程があるが、今はこれが唯一の武器である。
残った力を振り絞り、ドラゴンの目に向かって再び突き立てた。
弱い力で突き立てたボールペンは、ドラゴンの硬いガラス玉の様な眼球を滑り、まぶたの裏に入り込んだ。
一回目の時に、ボールペンの先が壊れていたのか中のインクが一役買った。
偶然の産物だったが、ダメージと言うより不快感からドラゴンは冬貴を放り出し声を上げた。
「しっかりお兄さん!」
「がはっ、はぁはぁ…に、げ、ぉ…」
出血に飛びそうな意識を押さえつけ、クスに告げる。
冬貴の言葉を怒る様に、黒い顔の女の子は“二人”掛かりで捲し立てる
「馬鹿、お兄さんのっ馬鹿!」
「ワタシも同感、あとは任せてよ」
(クスと…誰だ)
もう声も出せない冬貴はぼやけた視界で見上げる。
あやふやな意識の中で、何故ドラゴンは襲ってこないのだろと今更ながらな事を考えていた。
「さって、久々だけど借りるわよクス!」
眩い程の光りに包まれた黒い顔の女の子は、光の中その姿を変えた。
霞む目に映った幼いおかっぱの女の子は、あろうことか背と手足を伸ばし、髪は黒から蘇芳色かかった黒に変色をし腰まで垂れる。
呆然とする冬貴の耳に凛としたクスとは違う声音が聞こえた。
「“私達”は、ここで食べられる訳にはいかないの!」
どこからか取り出した紐を持って、腰まで届く長い髪を頭の上で結ぶ。
まるで儀式の様な動作で、ドラゴンを前にしながらゆっくり、けれど流麗な手使いでポニーテールを作る。
「ふぅぅぅ……。はぁぁぁぁぁ……、よっしっ!」
深く長い呼気を成し、蘇芳色の少女はドラゴンをはっきりと見据えた。
この間、ドラゴンは空気を読んで待っていた訳ではなく、本能をくすぐる焦燥感を味わって戸惑っていた。
何故これ程の小さく脆い生き物に、自分と言う高位の存在が怯まなくてはならないのだろうかと。
そうやって思考が再開できた切欠が、少女の呼気を聴き終えてからだと言う事実がまたドラゴンにとって不可解であり、屈辱であった。
そう、屈辱なのだ。
理不尽な怒りを心の底から燃やしたドラゴンは、自身の尊厳を高らかに唱え吼えた。
「ギャヴォォォォォォォォォ!!」
「逃げてくれたらよかったんだけどね……、ごめんなさい」
鞭の如く疾風する尾が少女の居た場所を薙ぎ払う。
瞬き一つの速度を少女は難無く飛翔のするかの様に避ける。
風に運ばれる様に空に舞い、驚くべきかドラゴンを見下ろす少女に、ドラゴンは苛立ち口腔を大きく見せた。
瞬間巨大な豪炎が中に滞空する少女に襲いかかった。
ドラゴンは確信を持ち瞳に喜悦を映す。
しかし、極わずかな時間で反転する。
少女はドラゴンの炎を身体に纏い、豪炎を手懐けた。
「夜叉、大王、不動奉る! 火生三味捩じ切りて、煩悩断つは倶利伽羅剣! 業も憤怒に押し込めて、背負いし焔は金色なり! 三毒悉皆喰らい尽くせ!」
「迦楼羅焔!」
蘇芳色の少女が手を横に薙ぐと、纏った炎は金色にその姿を変えドラゴンに向かって走る。
理解出来ないと言わんばかりに、狂った咆哮を残してドラゴンは塵となった。
生物の上位に位置したハズのドラゴンの残響が消える。
そうして、ドラゴンと言う脅威が消え去る瞬間を見届け、冬貴は意識を手放してしまった。
これに慌てたのが蘇芳色の少女であった。
「わわわ! ちょっとクス大変! 急いで変わってー!」
言い終えるや否や、蘇芳色の少女は光を纏い数舜後、おかっぱ頭の黒髪黒顔の女の子、クスへと変わる。
血に染まり倒れた冬貴で駆け寄り、指を癒した時と同じ様に摩訶不思議な力を行使し冬貴を助ける。
黒い顔に一つの小顔が浮かび、クスに問い掛けた。
「ねぇクス、間に合った?」
「えぇ、アキのおかげね。もう大丈夫」
ドラゴンの牙を受けた事により、冬貴のスーツと主にワイシャツは血に塗れているが、穴のあった場所の皮膚はキレイに塞がり、クス自身の処置の結果を直に確認しほっと胸を撫で下ろした。
「すまん、クス達に助けられたみたいだな。なんも役に立てなくて悪い」
「お礼ならアキに言って、アキじゃなければアノおっきなトカゲは倒せなかったから」
ドラゴン襲撃から約1時間、目を覚ました冬貴はクスに謝るばかりだった。
冬貴としては守ると啖呵を切ったはいいが、あっけなく返り討ちである。
もう男としても、年上としてもプライドがずたずただった。
そんな冬貴をクスは窘めた。
「あと、私は許さない。勝手に連れ出して勝手に人を抱えて勝手に逝くなんて、私は許さない」
「………すまん」
「よし、二人とも反省おしまい! これで終わり! 辛気臭いのイヤなの!」
「あぁ…、アキも。ありがとよ。それと……他の連中は?」
いつもの騒がしい他の小顔が見えない。クスの黒い顔に浮かぶのはアキ一人だけだった。
「……わからない。でも、今はアキ一人だけ。たぶんだけど、電車が落ちた時に投げ出されたのかも」
クスの答えに冬貴が驚きを顕にする。
アキが出てきて、冬貴の疑問に補足した。
「もともと、ワタシ達は望んでクスと一緒になったの。あの駅で出会って、そうしてみんな一緒になった」
おそらく当人同士でなければわからない事情があるのだろう。
踏み込む事を躊躇ったのち、冬貴は己のやるべき事をハッキリと意識した。
「じゃあ、見つけないとな」
「……そう。私は、私の使命を果たしたい」
「思いつめちゃダメよ、クス」
未だクス達の抱える問題と言うモノが、何一つわからない冬貴だったが、視界一杯に広がる草原と雲一つない空が、そして異境の地が冬貴の覚悟など待ってはくれない。
頭を振り今悩む事を追い払い、これからをどうするのか思考を変える。
(情けねぇ、情けないったりゃありゃしない。冬貴、おまえの身体はどうだ? 噛まれた腹は問題ない。手は動く、膝にも力は入る。五体満足だ生きている。なら、やる事は一つだけじゃねぇか…クスを、俺の勝手で連れ出したクス達を守るんだ。そして何時か…)
意識して神経を伝え身体を駆動させる。
立ち上がる冬貴をクスが気付き黒い顔を向ける。
「…………………行くか」
短く告げるとクスは首を縦に振り、自らの足で冬貴の後を着く。
ここが何処だろうと何も分からないが、生きて行く以上は衣食住が必要である。
(強く…強くなりてぇ…学校とか会社じゃ必要なかった、生きる強さが欲しい)
高い高い空の下に、男は強さを欲し、付添う女の子は使命の履行を求めた。
青い空と緑の草原を歩く二つの足音は、次第に風と草に紛れる。
そして、落ちた男は世界を相手取って戦う事になる。
クスと似た少年に従う、六人の子供達とも。
後世、人々は語り紡ぐ。
異世界より来訪し、異質な七人の子供を守るように戦った、一人の男の話を。
人々は尊敬と畏怖を込め、男をこうよんだ。
『ロリコンマスターフユキ』と…
The END
ここまで読んでいただき有難う御座います。
もちっとキャラクターをメリハリ出来ればなんですが、しょっぱいですね。
ご意見、罵倒お待ちしております。