録音には、ちゃんと音が入っていた
換気扇が、回っていた。
羽根は回っているのに、音がしなかった。
私は、台所の換気扇の下に立って、しばらく耳を澄ませていた。引っ越してきて、まだひと月も経っていない部屋だ。七月の、蒸し暑い夜だった。窓の外では、夜になっても蝉が鳴いていて、その声が、網戸越しに、部屋の空気にうすい膜を張っていた。最初の夜から、この換気扇は低く唸っていた。回せば、ぶうん、と空気を吸う音がした。その音が、しない。
羽根は、確かに回っている。指を近づけると、風はあった。
気のせいで済ませられる程度のことだった。古い物件だから、音の出方が日によって違うのだろう。私は換気扇を消して、寝た。そのときは、まだ、それだけのことだと思っていた。
───
翌日、冷蔵庫の音が消えた。
冷蔵庫は、低く震える音を立てる。夜、部屋が静かになると、その震えだけが残る。私はその音を、引っ越してきてから、ずっと聞いていた。それが、ない。
手を当てると、冷蔵庫はかすかに震えていた。中も冷えている。動いている。ただ、音だけがなかった。
私は、ナオにメッセージを送った。古い物件って、家電の音、急に消えたりする? と。
既読がついて、返事が来た。
「家電の音って、もともとそんなに気にする?」
私は、画面を見たまま、少し黙った。気にする、というより、いつもあった音が、ないのだ。そう打って、送った。
「ないって、最初からなくない?」とナオは返してきた。
最初から、なくはない。私は、あの音を覚えている。覚えている、と思う。けれど、それを誰かと確かめたことは、一度もなかった。
───
その夜、私は、確かめてみることにした。
スマホを、換気扇の下に置いて、録音した。一分ほど回して、止めて、再生した。
音が、した。
ぶうん、と、スピーカーから、換気扇の唸りが流れた。録れていた。録音の中の換気扇は、いつも通り、低く唸っていた。私は、それを、もう一度、再生した。やはり、鳴っていた。
顔を上げて、換気扇を見た。羽根は回っている。けれど、その場では、相変わらず、何の音もしなかった。
録ったものには、音がある。いま、ここには、音がない。
そのときは、まだ、機械のほうが正しくて、私の耳が、どうかしているのだと思った。録音は嘘をつかない。嘘をついているとしたら、それは、私のほうだった。
───
時計の秒針の音が、次に消えた。
壁にかけた古い掛け時計だ。秒針が、こつ、こつ、と動く。針は、ちゃんと進んでいた。三時十二分から、三時十三分へ。音だけが、抜けていた。
次の休みに、耳鼻科へ行った。検査は、異常なしだった。聞こえています、とてもよく聞こえています、と医者は言った。私は、聞こえないものがある、とは言えなかった。鳴っていないものが聞こえない、というのは、当たり前のことだからだ。
帰り道、私は、自分の足音を、いつもより気にして歩いた。アスファルトを踏む音は、ちゃんとあった。頭の上では、蝉が、降るように鳴いていた。真夏の、あの、うるさいほどの声。その声も、まだ、あった。そのときは、まだ、あった。
───
上階の足音が、消えたのは、その週の終わりだった。
私の部屋の真上には、誰かが住んでいた。顔は知らない。けれど、夜になると、足音がした。椅子を引く音。水を流す音。誰かが、そこにいる音だった。薄い天井越しに、その人の生活が、ずっと聞こえていた。
それが、ある夜から、ぱたりと、なくなった。
引っ越したのかもしれない。私は、そう思おうとした。けれど、引っ越しなら、運び出す音がするはずだった。台車の音も、扉の音も、しなかった。ただ、ある夜を境に、上の人は、音を立てなくなった。
私は、ナオに電話をかけた。
部屋の音が、一つずつ消えていく、と私は言った。換気扇も、冷蔵庫も、時計も、上の人も。
ナオは、笑った。気にしすぎだよ、と言った。
「上の人って、前からいた?」
私は、答えられなかった。いた、と思う。足音を、聞いていた。けれど、足音以外の、何を知っているだろう。顔も、名前も、知らない。私が知っていたのは、音だけだった。その音が消えたいま、上の人が、本当にいたのかどうか、私には、確かめる方法が、何もなかった。
誰も気にしていないらしかった。気にしているのは、私だけだった。
───
電話の途中で、ナオの声が、消えた。
通話は、切れていなかった。画面には、通話中、と出ていた。秒数が、進んでいた。けれど、ナオの声は、聞こえなくなった。もしもし、と私は言った。返事は、なかった。正確には、返事の音が、なかった。
私は、何度か、ナオの名前を呼んだ。画面の中で、秒数だけが、増えていった。22:14。22:15。
通話を切って、かけ直した。すぐに、ナオが出た。さっき、急に聞こえなくなった、と私は言った。ナオは、変なの、ずっと喋ってたよ、と言った。私には、何も、聞こえていなかった。
その夜、私は、部屋の中で、いくつ音が残っているかを、数えてみた。
換気扇。なし。冷蔵庫。なし。時計。なし。上の足音。なし。配管の水。——いつのまにか、なし。
窓を、開けてみた。夏の夜の、ぬるい風が入ってきた。蝉が、いなかった。いや、いないのではない。七月の夜が、こんなに静かなはずがなかった。鳴いているのだ。ただ、私の分が、なかった。
隣のベランダで、風鈴が、揺れていた。硝子の振り子が、短冊ごと、風に振れているのが、見えた。振れるたびに、鳴るはずだった。鳴らなかった。揺れている風鈴を、私は、しばらく、見ていた。目は、それが風鈴だと言っていた。耳は、何も、言わなかった。
残っていたのは、私の呼吸の音だけだった。
───
次の朝、自分の足音が、しなかった。
フローリングを歩いた。足の裏に、床の固さは伝わってきた。けれど、音がしなかった。私は、わざと、強く踏んでみた。手も、叩いてみた。掌は合わさったのに、音は鳴らなかった。
外に出た。真夏の朝の、白い日ざしの中を、歩いた。街路樹に、蝉がとまっていた。腹の側が、細かく、震えているのが見えた。鳴いているのだ。目の前で、精いっぱい、鳴いているのだ。私には、届かなかった。夏じゅうの音を、目で見ながら、私は、そこを通り過ぎた。
アスファルトも、駅の階段も、足の裏に固さは返したが、音は返さなかった。改札では、ゲートが、私の前でちゃんと開いた。機械は、私のカードを読んでいた。私の身体を、機械は、ちゃんと数えていた。けれど、いつものピッという音だけは、しなかった。電車は来た。ドアは開いた。発車のベルも、アナウンスも、私の耳には届かなかった。周りの人は、みんな、聞こえている顔をしていた。
コンビニの自動ドアは、私の前で、ちゃんと開いた。私の身体を、機械は、見ていた。
レジに品物を置くと、店員は、それを手に取って、会計をした。釣り銭は、私の手のひらに、ちゃんと載った。私の身体は、そこに在った。世界は、それを、物としてなら、扱えた。
ただ、店員は、一度も、私の顔を見なかった。袋を、と私は言った。店員は答えず、私の後ろに並んでいた人に、いらっしゃいませ、と言った。その声も、私には、聞こえなかった。
私は、消えてはいなかった。ここに、確かに、立っていた。重さもあった。手のひらには、釣り銭の冷たさが残っていた。抜かれていたのは、私の身体ではない。私の音だけだった。
部屋に戻って、私は、また、録音してみた。今度は、自分の声を録った。あいうえお、と言って、止めて、再生した。
再生のバーは、進んだ。けれど、何も、流れなかった。あいうえお、はどこにもなかった。録音の中に、私の声は、入っていなかった。
換気扇の音は、録れた。私の声は、録れない。
いま思えば、おかしいのは、順番だった。
最初は、世界の音が、消えていくのだと思っていた。換気扇が、冷蔵庫が、上の人が、音を失っていくのだと。違った。消えていたのは、世界の音ではなかった。
私に向けられた音と、私の立てる音が、一つずつ、抜き取られていた。向けられた音は、私に届く手前で。立てる音は、生まれる手前で。
私が呼んでも、誰も振り向かない。私が踏んでも、床は鳴らない。私の声は、機械にも、もう、残らない。世界は、ちゃんと音で満ちている。ただ、その音の地図から、私の分だけが、静かに、消されていた。
いつから、と私は考えた。換気扇の夜から、ではなかったのかもしれない。あの夜、私が気づいただけで、もっと前から、私は、少しずつ、抜かれていたのかもしれない。気づかなかった分が、いちばん、こわかった。
───
部屋に戻って、私は、留守電を聞いた。
以前、自分で吹き込んだ、応答メッセージが残っていた。録音した日の、自分の声だ。再生した。
はい、と、私の声が言った。今は出られません、と。
その声を、私は、聞くことができた。最後に残った、私の音だった。古い録音だった。私が、まだ、音を持っていた頃の声だ。画面には、私の名前が、表示されていた。登録した通りの、私の名前。声は消えても、名前だけは、まだ、そこにあった。
もう一度、再生した。はい、今は出られません。
三度目に再生したとき、その声も、途中で、聞こえなくなった。はい、まで聞こえて、その先が、なかった。画面の中で、再生のバーだけが、最後まで、進んでいった。
名前は、まだ、表示されていた。
私は、その名前を、声に出して読もうとした。口は、動いた。
窓の外で、街が、いつも通りの音を立てているらしかった。車の音も、人の声も、蝉の声も、夏の夜のどこかで鳴っている、らしかった。私は、その「らしかった」の中に、ひとり、座っていた。
部屋は、静かだった。
私の知らないところで、何かが、最後の一つを、抜こうとしているのが、分かった。
画面の中の、名前を、見ていた。
それが、消えるところは、まだ、見ていない。
(了)




