帰還者
北方遺跡を出た時、空は静かだった。
吹雪は止み、灰色だった雲の隙間から淡い陽光が差している。雪原は相変わらず果てが見えないが、来た時とは空気が違っていた。
重圧が消えている。
ノアが小さく呟く。「……音、静かです」
共鳴装置の光も落ち着いていた。
ユリウスが観測結晶を確認しながら言う。「封印波形、完全安定域。理論上ありえない数値だぞこれ」
リーナが肩を回す。「つまり大成功ってことでいいんでしょ?」
リヒトが短く頷いた。「第一任務完了だ。王都へ帰還する」
その言葉に、全員の肩から見えない緊張が抜けた。
だがレイジだけは、まだ遺跡を振り返っていた。
巨大な石門はすでに閉じている。
まるで何事もなかったかのように。
胸の奥が静かに脈打つ。
ドクン。
以前より穏やかで、深い鼓動。
ノアが隣へ来る。「……変わりました?」
「分かる?」
「少しだけ。でも怖い感じじゃないです」
安心したように微笑む。
レイジは小さく息を吐いた。「俺もそんな感じだ」
リヒトの号令で隊列が動き出す。
雪原を戻る帰路。
来る時よりも足取りが軽い。
影狼の気配もない。
まるで北方そのものが道を開けているようだった。
◇
三日後。
王都アルヴェイン外門。
巨大な城壁が見えた瞬間、ノアが安堵の息を漏らした。
「帰ってきましたね……」
門前にはすでに迎えの騎士団が待機していた。
数が多い。
予想以上に。
リーナが眉を上げる。「ずいぶん大げさじゃない?」
リヒトが周囲を観察し、静かに言う。「……違うな」
門が開く。
中へ入った瞬間、ざわめきが広がった。
市民たち。
商人。
魔術師。
全員がこちらを見ている。
視線の中心は――レイジ。
「本当に帰ってきたぞ」
「北方封印を安定させたって……」
「王城から正式発表が出てる」
ざわざわと声が広がる。
ユリウスが小声で言った。「情報公開早すぎないか?」
リヒトが短く答える。「王の判断だろうな」
つまり。
成果が国家レベルで公表された。
もう秘密任務ではない。
王城前広場へ到着すると、整列した近衛騎士が道を開いた。
中央に立っていたのは――
セリス王女。
正式な王族礼装。
その後ろには重臣たちの姿もある。
完全な公式出迎え。
リーナが小さく口笛を吹いた。「英雄待遇じゃん」
隊列が止まる。
リヒトが敬礼し、報告する。
「北方封印安定化任務、完了しました」
セリスは静かに頷いた。
そして視線をレイジへ向ける。
「神谷レイジ。王国を代表して感謝します」
広場が静まる。
次の言葉を待つ空気。
王女は続けた。
「北方封印核の崩壊は、王国のみならず世界規模災害となる可能性がありました」
ざわめき。
市民たちの表情が変わる。
「それを未然に防いだ功績により――」
一歩前へ出る。
「あなたを王国特別協力者から、王国特務保護対象へ昇格します」
空気が止まった。
ユリウスが小声で呟く。「……国家級扱いだぞそれ」
リーナも驚きを隠さない。
つまり。
守る対象であり、同時に国家資産。
完全に立場が変わった。
セリスはさらに言った。
「そして本日より、封印対策室は王城直属機関へ正式編入されます」
拍手が広がる。
形式的なものではない。
本物の歓声。
レイジは少し戸惑いながら立っていた。
英雄扱い。
だが実感がない。
ただ一つ分かるのは――
もう後戻りできない場所まで来たということだった。
その時。
広場の端。
群衆の中に、一人だけ拍手していない人物がいた。
黒い外套。
長い銀髪。
見知らぬ少女。
彼女はまっすぐレイジを見ていた。
視線が合った瞬間、口がわずかに動く。
――見つけた。
次の瞬間、姿が消えた。
レイジの胸が強く脈打つ。
ドクン。
今までとは違う反応。
ノアが気づく。「今……共鳴しましたよね?」
「ああ……」
理由は分からない。
だが確信だけがあった。
次の問題は、もう王都の中に来ている。
帰還は終わりではない。
王城前広場の歓声は、しばらく鳴り止まなかった。
北方遠征の成果はすでに王都全域へ伝達されていたらしく、集まった市民たちの視線には明確な変化があった。以前のような警戒や疑念ではない。
期待。
そして安心。
それが一番近い感情だった。
レイジはその中心に立ちながら、どこか現実感を失っていた。数週間前までただの学生だった自分が、国家式典の中央にいる。
ノアが小声で言う。「……すごいですね」
「他人事みたいだ」
「私もです」
二人で小さく苦笑する。
式典は形式通り終了し、騎士団の誘導で対策室メンバーは王城内部へ戻ることになった。
回廊を歩き始めた瞬間、外の喧騒が嘘のように消える。
静かな王城。
だがリヒトの表情は変わらなかった。
「浮かれるな」
短い一言。
「功績が公表されたってことは、敵にも位置が確定したって意味だ」
リーナが肩をすくめる。「つまり狙われやすくなった?」
「その通りだ」
ユリウスがため息をつく。「研究対象としては最悪の環境だな……」
ノアが少しだけレイジへ近づく。「さっきの人、気になります?」
レイジは頷いた。
銀髪の少女。
一瞬だけだったが、確かに共鳴した。
黒獣とも封印核とも違う波形。
未知。
その時だった。
曲がり角の先で、空気がわずかに歪んだ。
レイジが足を止める。
「……いる」
リヒトが即座に警戒姿勢を取る。「どこだ」
視線を向けた先。
窓際。
誰もいないはずの場所に――
少女が立っていた。
銀髪。
蒼い瞳。
王都の服装ではない、旅装束に近い軽装。
まるで最初からそこにいたかのように自然だった。
リーナが剣へ手をかける。「侵入者?」
少女は軽く手を上げた。
敵意はないという仕草。
「待って。戦う気はない」
声は静かで、どこか幼い。
だが魔力は異常に安定している。
ユリウスが小声で呟く。「……存在感が薄すぎる。感知結界をどうやって抜けた?」
少女はレイジだけを見ていた。
「あなたが鍵でしょ」
直球だった。
リヒトが一歩前へ出る。「所属と目的を答えろ」
少女は少し考え、そして言った。
「名前はアイリス」
一拍。
「元・封印管理者」
空気が凍った。
番人と同系統の単語。
ユリウスが目を見開く。「管理者って……人間じゃないのか?」
アイリスは首を横に振った。
「人間だったよ。昔は」
レイジの胸が強く脈打つ。
ドクン。
共鳴。
はっきり感じる。
彼女も“こちら側”だ。
ノアが震える声で言う。「……音、似てます」
アイリスが少し驚いた顔をする。「観測者?」
「はい……」
少女は小さく頷いた。
そして再びレイジを見る。
「時間がない。ネメシスはもう次の核を狙ってる」
リヒトが低く問う。「情報源は?」
「私」
迷いのない答え。
「私は封印側だった。でも今は違う」
リーナが眉をひそめる。「裏切り者ってこと?」
「たぶん」
あっさり言った。
だが目は真剣だった。
アイリスは一歩近づく。
騎士団が警戒するが、レイジは止めなかった。
少女が目の前で立ち止まる。
そして静かに言った。
「あなた、まだ半分しか目覚めてない」
北方遺跡で聞いた言葉と同じ。
レイジが問う。「……残りは?」
アイリスの表情が少し曇る。
「目覚めたら、たぶん戻れない」
沈黙。
ノアが不安そうにレイジを見る。
アイリスは続けた。
「だから私は来た。前の鍵が失敗した理由を、あなたに教えるために」
空気が変わる。
ただの情報提供ではない。
歴史の核心。
その瞬間、回廊の遠くで警報音が鳴り響いた。
赤い光。
王城警戒結界が作動する。
リヒトが舌打ちする。「侵入警報……!?」
ユリウスが魔導端末を確認し、顔色を変えた。
「王城地下……封印区画だ!」
ノアが叫ぶ。「反応、急上昇! ネメシスです!」
アイリスが小さく呟いた。
「……もう来た」
レイジの胸が強く脈打つ。
ドクン。
帰還直後。
休む間もなく――
戦いは王都内部で再開しようとしていた。
王城中に警報音が響き渡った。
低く、重い鐘の音。
通常の侵入警戒ではない。封印区画専用の緊急信号だ。
赤い魔導灯が回廊を染める。
リヒトが即座に指示を飛ばした。「全員、地下封印区画へ移動! 走るぞ!」
対策室メンバーが一斉に駆け出す。
アイリスも迷いなく並走した。
王城内部の空気が変わっている。
騎士団が慌ただしく動き、魔術師たちが防衛陣を展開していた。
ノアが装置を握りしめる。「反応、三つ……いえ、四つあります!」
ユリウスが顔をしかめる。「同時侵入!? 正面突破じゃない、内部転移だ!」
つまり。
王城内部に直接出現した。
ネメシスの本気。
地下へ続く大階段を駆け下りる。
温度が下がる。
魔力密度が上がる。
封印区画特有の圧迫感。
そして――
爆音。
地下通路の奥で衝撃が走った。
石壁が崩れ、煙が流れ込む。
リーナが剣を抜く。「派手にやってるね!」
煙の中から現れたのは、黒ローブの魔術師三名。
そして中央。
仮面の男。
北方遺跡で戦ったネメシス幹部だった。
「歓迎感謝するよ、英雄諸君」
余裕の声。
騎士団が周囲を包囲しているが、男は全く気にしていない。
リヒトが前へ出る。「目的は封印核か」
「察しがいい」
男が指を鳴らす。
背後の壁が崩れ、紫色の術式が露出する。
封印区画の中枢。
王都地下核。
ユリウスが叫ぶ。「まずい! 直接干渉されてる!」
ノアが震える。「共鳴、暴走寸前です!」
仮面の男の視線がレイジへ向く。
「選択の時間を与えたはずだが?」
「断ったはずだ」
レイジが答える。
男は楽しそうに笑った。
「だから強制的に進める」
魔力が爆発的に膨張する。
騎士団が吹き飛ばされる。
空間が歪む。
戦闘開始。
リヒトが突撃する。
剣と魔力が衝突し、火花が散る。
リーナが側面から斬撃を叩き込み、ユリウスが拘束陣を展開。
だが幹部は片手で術式を展開し、すべてを弾き返す。
「北方より出力が上がってる……!」
ユリウスが歯を食いしばる。
ノアが叫ぶ。「核が引っ張られてます!」
封印柱が赤く染まり始める。
時間がない。
レイジが前へ出ようとした瞬間――
横から銀光が走った。
アイリス。
彼女の手から放たれた細い光が、ネメシス術式へ突き刺さる。
空間が一瞬停止した。
仮面の男が初めて驚く。
「……管理者コード?」
アイリスの瞳が蒼く輝く。
「旧封印系統、アクセス権限開放」
彼女の足元に古代紋様が展開される。
番人と同系統の術式。
ユリウスが叫ぶ。「封印制御者だと!?」
アイリスが振り向かずに言う。
「レイジ、今!」
理解は不要だった。
レイジは核へ手を伸ばす。
鼓動が重なる。
ドクン。
「アーク・シール!」
白と黒の光が広がる。
封印柱の赤光が揺らぐ。
ネメシス術式が固定される。
仮面の男が舌打ちした。
「二人目の鍵か……面倒だ」
リヒトの斬撃が直撃する。
初めて男が後退した。
リーナが笑う。「効いてるじゃん!」
男は数歩下がり、静かに息を吐いた。
「予定変更だ」
背後に転移陣が展開される。
「鍵は二つ。なら次は“狩る”側を増やそう」
意味深な言葉。
「次に会う時、世界はもっと面白くなっている」
光が弾け、ネメシスは撤退した。
静寂。
封印柱の赤光が消える。
ノアが崩れ落ちそうになりながら言う。「……安定しました」
ユリウスが座り込む。「王都核、無事……」
騎士団が負傷者を運び始める。
危機は去った。
だが空気は重いままだった。
アイリスがゆっくりレイジを見る。
「始まったね」
「……何が」
彼女は少し迷い、そして言った。
「鍵同士の戦争」
胸の鼓動が深く響く。
ドクン。
レイジは理解した。
黒獣。
封印。
転生。
そして――
自分と同じ存在が、まだ世界にいる。
王都編は終わらない。




