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帰還命令



黒い巨狼の幻影が消えてから、森は異様な静けさに包まれていた。


誰もすぐには動けなかった。


教師たちは結界を維持したまま周囲を警戒し、生徒たちは声を出すことすらためらっている。


まるで今の出来事を、現実だと認めたくないように。


最初に動いたのはバルド先生だった。


「……全員無事か」


低い声。


それが合図のように空気が戻る。


「はい!」

「大丈夫です!」


あちこちから返事が上がる。


ガルムが大きく息を吐いた。


「な、なんだったんだ今の……」


ミーナも震えた声で言う。


「魔力の圧だけで動けなかったんだけど……」


教師の一人が険しい顔で答えた。


「……災害級だ」


その言葉で全員が黙る。


災害級。


授業でしか聞かない分類。


都市防衛戦レベルの存在。


学生が遭遇していい相手ではない。


バルド先生が即座に命令を出した。


「遠征中止。全隊、学園へ帰還する」


ざわめきが起きる。


当然の判断だった。


もう訓練ではない。


完全な異常事態。



撤収準備は驚くほど速かった。


教師たちの動きは洗練されており、わずか三十分で拠点は解体される。


生徒たちは無言で作業を手伝った。


誰もが感じている。


ここに長くいてはいけない、と。


ガルムが小声で言う。


「帰れるのは嬉しいけどさ……負けた気しない?」


「生きて帰るのが勝ち」

ミーナが即答する。


珍しく真面目だった。


俺は森の奥を見続けていた。


もう気配はない。


だが確実に存在していた。


『成長しろ、人の子』


頭の中で声が反響する。


(……なんなんだよ、本当に)


考えても答えは出ない。


だが一つだけ確信がある。


あれは敵意を持っていなかった。


少なくとも今は。


「レイジ」


カイルが隣に立つ。


「さっきの、何か感じただろ」


否定できない。


少しだけ迷い、答える。


「……声を聞いた」


カイルの表情が固まる。


「内容は?」

「成長しろって」


数秒の沈黙。


そして彼は小さく笑った。


「災害級存在に育成宣言されるとか前代未聞だな」


冗談のはずなのに、笑えなかった。



馬車へ乗り込む直前。


教師が慌てて走ってきた。


「緊急通信! 本校からです!」


通信陣が展開される。


光が立ち上がり、学園長の姿が映る。


だが今回は一人ではなかった。


隣に、見知らぬ人物が立っている。


白い軍服。


王国紋章。


鋭い目。


明らかに軍人。


学園長が言う。


「遠征隊、よく聞きなさい」


声がいつもより硬い。


「王国中央より正式命令が下った」


周囲がざわつく。


国家命令。


学生遠征に出る言葉ではない。


軍服の男が一歩前へ出る。


「私は王国対災害管理局、監察官リヒト・ヴァルクスだ」


重い声。


視線が生徒たちを一通り見渡し——


最後に止まる。


俺で。


「神谷レイジ」


名前を呼ばれた瞬間、空気が凍った。


「君を含む遠征隊は直ちに帰還せよ」


そして続ける。


「本件は、国家管理案件へ移行する」


言葉の意味が重すぎた。


学園の問題ではない。


国の問題。


つまり。


もう後戻りはできない。


遠征は終わった。


だが物語は——


ここから本当に始まろうとしていた。




通信陣の光が揺れる。


王国監察官リヒト・ヴァルクスの視線は、一度も逸れなかった。


完全に俺を観察している。


「国家管理案件……?」


教師の一人が思わず呟く。


監察官は淡々と続けた。


「昨夜確認された存在は、王国危険度分類において“封印指定級”に該当する可能性がある」


生徒たちの間に緊張が走る。


意味は分からなくても、危険度の高さだけは伝わった。


学園長が補足する。


「これは異例中の異例だ。本来、学生が関与する事態ではない」


つまり。


完全に想定外。


監察官が腕を組む。


「遠征隊は即時帰還。その後、関係者への事情聴取を行う」


嫌な単語が出た。


事情聴取。


ミーナが小声で言う。


「……取り調べじゃん」


ガルムも顔をしかめる。


「俺、変なこと言ってないよな?」


俺は何も言えなかった。


監察官の視線が再びこちらへ向く。


「特に神谷レイジ。君には個別確認が必要になる」


予想通りだった。


むしろ来ない方がおかしい。


「理由を伺っても?」

バルド先生が一歩前へ出る。


教師としての立場だ。


監察官はわずかに頷いた。


「記録魔術の共鳴反応が報告されている」


周囲がざわつく。


やはり知られている。


「封印指定級存在と魔力同調を起こした例は、過去記録に存在しない」


つまり前例なし。


「危険視されている、ということですか」

先生が低く聞く。


監察官は否定もしなかった。


肯定もしなかった。


「確認が必要なだけだ」


一番信用できないタイプの答えだった。



通信が終了すると、拠点の空気がさらに重くなった。


撤収は急ピッチで進む。


誰も無駄口を叩かない。


ガルムが荷物を担ぎながら言う。


「なんか急に話デカくなってない?」


「国家案件だからね……」

ミーナが苦笑する。


そして小声で続けた。


「レイジ、大丈夫?」


少し驚いた。


心配される側になるとは思っていなかった。


「分からない」


正直に答える。


「でも逃げる気はない」


それは本心だった。


逃げても意味がない。


もう巻き込まれている。


カイルが後ろから言う。


「安心しろ」


振り向く。


「王国が動くってことは、少なくとも“消される対象”じゃない」


「慰めになってるかそれ」

「現実的だろ?」


否定できない。



馬車が動き出す。


森を離れる道。


誰もが窓の外を見ていた。


帰還への安堵と、拭えない不安。


俺は手袋を見下ろす。


微弱な振動はまだ続いている。


遠ざかっているはずなのに。


(……繋がってる)


距離では切れない何か。


その時。


頭の奥で、かすかな感覚が走った。


声ではない。


意識の波。


『……見ている』


一瞬だけ。


すぐ消える。


だが確信した。


封印の向こう側。


あれはまだ俺を認識している。


馬車の窓に映る自分の顔を見る。


ただの学生。


ただの転生者。


……だったはずなのに。


今は違う。


国家が動き、

封印が反応し、

災害級存在に認識された。


物語のスケールが、完全に変わってしまった。


そして学園への帰還は——


新しい戦いの始まりに過ぎなかった。




学園の城壁が見えた時。


馬車の中に、わずかな安堵が広がった。


高くそびえる白い壁。

整備された街道。

見慣れた門。


ほんの数日前まで当たり前だった景色が、やけに安全な場所に見える。


ガルムが大きく伸びをした。


「帰ってきたぁぁ……!」


「声でかい」

ミーナが即座にツッコむ。


だが彼女もどこか安心した顔をしていた。


遠征は数日しか経っていない。


それなのに、ずっと長く感じた。


馬車が門を通過する。


——違和感。


兵士の数が多い。


普段の倍以上。


しかも学園警備ではない。


王国軍。


銀の鎧に王国紋章。


完全武装。


ガルムが小声で言う。


「……歓迎ムードじゃないな」


「隔離だろうね」

カイルが冷静に答えた。


予想通りだった。


中央広場にはすでに陣が組まれていた。


教師、生徒、そして王国軍。


遠征隊の馬車が止まると同時に、兵士たちが整列する。


圧迫感。


まるで凱旋ではなく、重要参考人の帰還。


扉が開く。


外へ降りた瞬間、視線が集中した。


その中心に立っていたのは——


通信で見た男。


監察官リヒト・ヴァルクス。


白い軍服を風に揺らし、無表情でこちらを見ている。


「帰還を確認した」


淡々とした声。


「遠征隊は直ちに健康検査および魔力測定を行う」


事務的。


だが拒否権はない。


生徒たちが順番に誘導されていく。


緊張と疲労で誰も逆らわない。


そして。


「神谷レイジ」


やはり呼ばれた。


一歩前へ出る。


監察官の目がわずかに細くなる。


近くで見ると分かる。


この人は戦場の人間だ。


隙がない。


「同行してもらう」


「どこへ?」


「学園長室だ」


周囲がざわつく。


個別対応。


完全に特別扱い。


ガルムが小声で言う。


「後で話聞かせろよ」

ミーナも頷く。


「無事で戻ってきなさいよ」


軽口のはずなのに、妙に重く聞こえた。



学園長室。


扉を開けると、すでに数名が集まっていた。


学園長。


バルド先生。


そして——もう一人。


長い銀髪の女性。


黒いローブ。

胸元には見慣れない紋章。


魔力の密度が異常だった。


ただ立っているだけで空気が張り詰める。


監察官が紹介する。


「王国魔術院特務監査官、エリシア・ルーヴェルト殿だ」


女性が静かにこちらを見る。


その瞬間。


背筋が凍った。


視線が深い。


まるで中身まで見透かされているようだった。


彼女はゆっくり口を開く。


「……なるほど」


小さく呟く。


「確かに“反応”している」


部屋の空気が変わる。


俺は何もしていない。


なのに彼女の目は確信していた。


「神谷レイジ君」


穏やかな声。


だが逃げ場のない響き。


「あなたには、いくつか質問があります」


微笑む。


しかし目は笑っていない。


「世界のために」


その言葉で理解した。


もう学園だけの問題じゃない。


国家でもない。


もっと大きい。


封印。

黒獣。

転生。


すべてが交差する中心に——


自分が立っている。


こうして神谷レイジは、“学生”としてではなく、


世界案件の当事者として正式に動き出すことになった。

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