帰還命令
黒い巨狼の幻影が消えてから、森は異様な静けさに包まれていた。
誰もすぐには動けなかった。
教師たちは結界を維持したまま周囲を警戒し、生徒たちは声を出すことすらためらっている。
まるで今の出来事を、現実だと認めたくないように。
最初に動いたのはバルド先生だった。
「……全員無事か」
低い声。
それが合図のように空気が戻る。
「はい!」
「大丈夫です!」
あちこちから返事が上がる。
ガルムが大きく息を吐いた。
「な、なんだったんだ今の……」
ミーナも震えた声で言う。
「魔力の圧だけで動けなかったんだけど……」
教師の一人が険しい顔で答えた。
「……災害級だ」
その言葉で全員が黙る。
災害級。
授業でしか聞かない分類。
都市防衛戦レベルの存在。
学生が遭遇していい相手ではない。
バルド先生が即座に命令を出した。
「遠征中止。全隊、学園へ帰還する」
ざわめきが起きる。
当然の判断だった。
もう訓練ではない。
完全な異常事態。
◇
撤収準備は驚くほど速かった。
教師たちの動きは洗練されており、わずか三十分で拠点は解体される。
生徒たちは無言で作業を手伝った。
誰もが感じている。
ここに長くいてはいけない、と。
ガルムが小声で言う。
「帰れるのは嬉しいけどさ……負けた気しない?」
「生きて帰るのが勝ち」
ミーナが即答する。
珍しく真面目だった。
俺は森の奥を見続けていた。
もう気配はない。
だが確実に存在していた。
『成長しろ、人の子』
頭の中で声が反響する。
(……なんなんだよ、本当に)
考えても答えは出ない。
だが一つだけ確信がある。
あれは敵意を持っていなかった。
少なくとも今は。
「レイジ」
カイルが隣に立つ。
「さっきの、何か感じただろ」
否定できない。
少しだけ迷い、答える。
「……声を聞いた」
カイルの表情が固まる。
「内容は?」
「成長しろって」
数秒の沈黙。
そして彼は小さく笑った。
「災害級存在に育成宣言されるとか前代未聞だな」
冗談のはずなのに、笑えなかった。
◇
馬車へ乗り込む直前。
教師が慌てて走ってきた。
「緊急通信! 本校からです!」
通信陣が展開される。
光が立ち上がり、学園長の姿が映る。
だが今回は一人ではなかった。
隣に、見知らぬ人物が立っている。
白い軍服。
王国紋章。
鋭い目。
明らかに軍人。
学園長が言う。
「遠征隊、よく聞きなさい」
声がいつもより硬い。
「王国中央より正式命令が下った」
周囲がざわつく。
国家命令。
学生遠征に出る言葉ではない。
軍服の男が一歩前へ出る。
「私は王国対災害管理局、監察官リヒト・ヴァルクスだ」
重い声。
視線が生徒たちを一通り見渡し——
最後に止まる。
俺で。
「神谷レイジ」
名前を呼ばれた瞬間、空気が凍った。
「君を含む遠征隊は直ちに帰還せよ」
そして続ける。
「本件は、国家管理案件へ移行する」
言葉の意味が重すぎた。
学園の問題ではない。
国の問題。
つまり。
もう後戻りはできない。
遠征は終わった。
だが物語は——
ここから本当に始まろうとしていた。
通信陣の光が揺れる。
王国監察官リヒト・ヴァルクスの視線は、一度も逸れなかった。
完全に俺を観察している。
「国家管理案件……?」
教師の一人が思わず呟く。
監察官は淡々と続けた。
「昨夜確認された存在は、王国危険度分類において“封印指定級”に該当する可能性がある」
生徒たちの間に緊張が走る。
意味は分からなくても、危険度の高さだけは伝わった。
学園長が補足する。
「これは異例中の異例だ。本来、学生が関与する事態ではない」
つまり。
完全に想定外。
監察官が腕を組む。
「遠征隊は即時帰還。その後、関係者への事情聴取を行う」
嫌な単語が出た。
事情聴取。
ミーナが小声で言う。
「……取り調べじゃん」
ガルムも顔をしかめる。
「俺、変なこと言ってないよな?」
俺は何も言えなかった。
監察官の視線が再びこちらへ向く。
「特に神谷レイジ。君には個別確認が必要になる」
予想通りだった。
むしろ来ない方がおかしい。
「理由を伺っても?」
バルド先生が一歩前へ出る。
教師としての立場だ。
監察官はわずかに頷いた。
「記録魔術の共鳴反応が報告されている」
周囲がざわつく。
やはり知られている。
「封印指定級存在と魔力同調を起こした例は、過去記録に存在しない」
つまり前例なし。
「危険視されている、ということですか」
先生が低く聞く。
監察官は否定もしなかった。
肯定もしなかった。
「確認が必要なだけだ」
一番信用できないタイプの答えだった。
◇
通信が終了すると、拠点の空気がさらに重くなった。
撤収は急ピッチで進む。
誰も無駄口を叩かない。
ガルムが荷物を担ぎながら言う。
「なんか急に話デカくなってない?」
「国家案件だからね……」
ミーナが苦笑する。
そして小声で続けた。
「レイジ、大丈夫?」
少し驚いた。
心配される側になるとは思っていなかった。
「分からない」
正直に答える。
「でも逃げる気はない」
それは本心だった。
逃げても意味がない。
もう巻き込まれている。
カイルが後ろから言う。
「安心しろ」
振り向く。
「王国が動くってことは、少なくとも“消される対象”じゃない」
「慰めになってるかそれ」
「現実的だろ?」
否定できない。
◇
馬車が動き出す。
森を離れる道。
誰もが窓の外を見ていた。
帰還への安堵と、拭えない不安。
俺は手袋を見下ろす。
微弱な振動はまだ続いている。
遠ざかっているはずなのに。
(……繋がってる)
距離では切れない何か。
その時。
頭の奥で、かすかな感覚が走った。
声ではない。
意識の波。
『……見ている』
一瞬だけ。
すぐ消える。
だが確信した。
封印の向こう側。
あれはまだ俺を認識している。
馬車の窓に映る自分の顔を見る。
ただの学生。
ただの転生者。
……だったはずなのに。
今は違う。
国家が動き、
封印が反応し、
災害級存在に認識された。
物語のスケールが、完全に変わってしまった。
そして学園への帰還は——
新しい戦いの始まりに過ぎなかった。
学園の城壁が見えた時。
馬車の中に、わずかな安堵が広がった。
高くそびえる白い壁。
整備された街道。
見慣れた門。
ほんの数日前まで当たり前だった景色が、やけに安全な場所に見える。
ガルムが大きく伸びをした。
「帰ってきたぁぁ……!」
「声でかい」
ミーナが即座にツッコむ。
だが彼女もどこか安心した顔をしていた。
遠征は数日しか経っていない。
それなのに、ずっと長く感じた。
馬車が門を通過する。
——違和感。
兵士の数が多い。
普段の倍以上。
しかも学園警備ではない。
王国軍。
銀の鎧に王国紋章。
完全武装。
ガルムが小声で言う。
「……歓迎ムードじゃないな」
「隔離だろうね」
カイルが冷静に答えた。
予想通りだった。
中央広場にはすでに陣が組まれていた。
教師、生徒、そして王国軍。
遠征隊の馬車が止まると同時に、兵士たちが整列する。
圧迫感。
まるで凱旋ではなく、重要参考人の帰還。
扉が開く。
外へ降りた瞬間、視線が集中した。
その中心に立っていたのは——
通信で見た男。
監察官リヒト・ヴァルクス。
白い軍服を風に揺らし、無表情でこちらを見ている。
「帰還を確認した」
淡々とした声。
「遠征隊は直ちに健康検査および魔力測定を行う」
事務的。
だが拒否権はない。
生徒たちが順番に誘導されていく。
緊張と疲労で誰も逆らわない。
そして。
「神谷レイジ」
やはり呼ばれた。
一歩前へ出る。
監察官の目がわずかに細くなる。
近くで見ると分かる。
この人は戦場の人間だ。
隙がない。
「同行してもらう」
「どこへ?」
「学園長室だ」
周囲がざわつく。
個別対応。
完全に特別扱い。
ガルムが小声で言う。
「後で話聞かせろよ」
ミーナも頷く。
「無事で戻ってきなさいよ」
軽口のはずなのに、妙に重く聞こえた。
◇
学園長室。
扉を開けると、すでに数名が集まっていた。
学園長。
バルド先生。
そして——もう一人。
長い銀髪の女性。
黒いローブ。
胸元には見慣れない紋章。
魔力の密度が異常だった。
ただ立っているだけで空気が張り詰める。
監察官が紹介する。
「王国魔術院特務監査官、エリシア・ルーヴェルト殿だ」
女性が静かにこちらを見る。
その瞬間。
背筋が凍った。
視線が深い。
まるで中身まで見透かされているようだった。
彼女はゆっくり口を開く。
「……なるほど」
小さく呟く。
「確かに“反応”している」
部屋の空気が変わる。
俺は何もしていない。
なのに彼女の目は確信していた。
「神谷レイジ君」
穏やかな声。
だが逃げ場のない響き。
「あなたには、いくつか質問があります」
微笑む。
しかし目は笑っていない。
「世界のために」
その言葉で理解した。
もう学園だけの問題じゃない。
国家でもない。
もっと大きい。
封印。
黒獣。
転生。
すべてが交差する中心に——
自分が立っている。
こうして神谷レイジは、“学生”としてではなく、
世界案件の当事者として正式に動き出すことになった。




