森の異変
戦闘終了後。
森には、不自然な静けさが戻っていた。
さっきまで牙を剥いていた魔物の気配が、嘘のように消えている。
「……撤退した?」
ミーナが起き上がりながら呟く。
「普通、群れってここまで綺麗に引くか?」
ガルムが盾にもたれたまま言った。
答えは誰も持っていなかった。
教師たちは周囲警戒を続けているが、緊張の質が変わっている。
戦闘警戒ではなく――調査警戒。
バルド先生が地面を調べていた。
「足跡が揃いすぎている……」
「揃いすぎ?」
俺が近づく。
先生は頷いた。
「通常の魔物は個体ごとに動きが違う。だがこれは……同じ命令で動いた痕だ」
背筋が冷える。
統率行動。
学園長が言っていた異常。
それが目の前にある。
カイルもしゃがみ込み、地面を見た。
「撤退方向も一直線だな」
「逃げたんじゃない」
俺は言う。
「終わったから帰った」
カイルがこちらを見る。
「同感だ」
つまり。
目的があった。
そして達成された。
ミーナが顔をしかめる。
「……もしかして私たち、観察されてた?」
誰も否定しなかった。
◇
隊列は再編され、遠征は一時停止となった。
教師陣が簡易結界を張り、臨時拠点が作られる。
焚き火の準備。
周囲警戒班。
治療確認。
完全に野営モードだった。
ガルムが干し肉をかじりながら言う。
「でもさ、なんでレイジだけ見てたんだ?」
……やっぱり気づくか。
「気のせいだろ」
「いや絶対違うって」
ミーナも頷く。
「私も感じた。あの狼、あんた見てた」
否定できない。
あの視線は明確だった。
“認識”されていた。
手袋型魔導具が微かに震える。
森の奥。
まだ何かある。
その時、教師の一人が走ってきた。
「先生、これを」
差し出されたのは黒い毛。
巨狼のものだろう。
だが普通の魔物の素材とは違った。
光を吸い込むような色。
魔力の揺らぎ。
バルド先生の表情が変わる。
「……記録と一致しない」
「未知種ですか?」
別の教師が聞く。
「いや——」
先生は低く言った。
「“変異体”だ」
空気が重くなる。
変異体。
それは自然発生しない。
必ず原因がある。
カイルが腕を組む。
「つまり誰かが弄ってる可能性があるってことか」
教師は否定しなかった。
その沈黙が答えだった。
◇
夕方。
警戒が続く中、俺は一人で少し離れた場所へ来ていた。
理由は単純。
手袋の反応が消えない。
森の奥から微弱な魔力を感じる。
呼ばれているような感覚。
(……嫌な予感しかしない)
だが確認しないわけにもいかない。
数歩、森の奥へ進む。
木々の影が濃くなる。
空気が冷たい。
そして。
足元に、小さな紋様を見つけた。
地面に刻まれた円。
自然ではない。
人工的な線。
魔法陣。
しかも——かなり古い。
触れた瞬間。
手袋が強く反応した。
視界が一瞬だけ白くなる。
脳裏に映像が流れ込んだ。
黒い狼。
崩れた都市。
そして——
自分と同じ“黒い光”。
「……っ!」
思わず後退する。
映像は消えた。
呼吸が乱れる。
(今のは……何だ)
その時、背後から声。
「やっぱり来てたか」
振り向く。
カイルだった。
「君も感じてたんだろ?」
隠せないらしい。
俺は頷いた。
カイルは地面の魔法陣を見る。
そして静かに言った。
「これ、ただの遠征じゃないな」
同意だった。
学園が知らない何かが動いている。
そしてそれは――
俺の転生と、無関係ではない気がしていた。
森の奥で、風が吹く。
まるで何かが目覚め始めたように。
「……今の、見たのか?」
俺が小さく聞くと、カイルは首を横に振った。
「いや。だが分かる。ここ、普通じゃない」
彼はしゃがみ込み、地面の魔法陣を指でなぞる。
刻まれている線は風化しているが、完全には消えていない。自然にできた模様ではない。明らかに誰かの意思で作られたものだ。
「古いな……かなり前の術式だ」
「分かるのか?」
「少しだけな。Sクラスは基礎魔術史も叩き込まれる」
カイルは眉をひそめた。
「でも変だ。これは王国式じゃない」
王国式じゃない。
つまり、学園や人類圏の技術ではない可能性。
背筋が冷える。
俺の手袋がまだ微かに震えている。
まるで、この魔法陣と共鳴しているように。
(……反応してるのは装備だけじゃない)
胸の奥がざわつく。
懐かしいような、嫌な感覚。
その時。
魔法陣の中心が、わずかに光った。
「下がれ!」
カイルが即座に俺の肩を引く。
次の瞬間、空気が歪んだ。
黒い霧のようなものが一瞬だけ立ち上がり、すぐに消える。
静寂。
森の音が戻る。
だが確信した。
これはただの痕跡ではない。
まだ“生きている”術式だ。
「……記録型か」
カイルが呟く。
「記録?」
「魔力に反応して過去を再生する魔法。古代術に近い」
つまり、さっき見た映像は幻覚ではない。
記録。
過去にここで起きた出来事。
黒い狼。
崩壊した街。
そして黒い光。
俺と同じ色。
無意識に手を握る。
(……関係あるのか?)
転生。
この世界に来た理由。
初めて、それが“偶然じゃない”可能性を感じた。
カイルが真剣な顔で言う。
「これ、教師に報告するべきだ」
正論だ。
だが——。
迷う。
なぜか、すぐに知られるのが危険な気がした。
「……もう少し見る」
気づけばそう言っていた。
カイルが目を細める。
「危険だぞ」
「分かってる」
数秒の沈黙。
そして彼はため息をついた。
「一人で突っ込むなよ。俺も付き合う」
意外だった。
「いいのか?」
「Sクラスの仕事は生きて帰ることだ」
軽く笑う。
だが目は真剣だった。
二人で魔法陣を観察する。
線の一部が欠けている。
中央に、小さな窪み。
何かが置かれていた跡。
「媒介石……?」
カイルが呟く。
「魔法陣の核だ。これがないと完全には動かない」
つまり。
誰かが持ち去った。
最近。
だから反応が不安定。
その時。
手袋が強く震えた。
森のさらに奥。
今度ははっきり感じる。
魔力。
巨大で、歪んだ気配。
カイルも同時に顔を上げた。
「……感じたか?」
「ああ」
方向は同じ。
森の深部。
さっきの巨狼が去った方角。
そして次の瞬間。
遠くで、低い咆哮が響いた。
さっきとは違う。
もっと深い。
もっと重い。
森全体が震えるような音。
俺とカイルは顔を見合わせる。
同じ結論に辿り着いた。
——まだ終わっていない。
むしろ。
本体は、これから現れる。
夕闇が森を包み始める。
遠征初日。
それはすでに、“訓練”という言葉から完全に逸脱していた。
遠くから響いた咆哮は、長く尾を引くように森へ広がった。
空気が震える。
木々の葉がざわめき、小動物たちが一斉に逃げ出す気配が伝わってくる。
カイルが低く呟いた。
「……さっきの個体じゃないな」
「ああ」
質が違う。
さっきの巨狼は“強い魔物”だった。
だが今の咆哮は——存在そのものが重い。
手袋型魔導具が激しく反応する。
指先が痺れる。
視界の端がわずかに暗く揺れた。
(近い……)
森の奥から、何かがこちらを認識した感覚。
見られている。
あの巨狼の視線とは比べ物にならない。
もっと深い。
もっと古い。
「戻るぞ」
カイルが言った。
「教師に報告だ。これは学生案件じゃない」
正しい判断だった。
俺も頷き、拠点へ戻ろうとした——その時。
足元の魔法陣が、再び光った。
今度ははっきりと。
黒い光。
瞬間、視界が切り替わる。
◇
燃える空。
崩れた城壁。
無数の魔物。
そして中央に立つ“黒い狼”。
今見た巨狼よりさらに巨大。
その周囲に、人影。
戦っている。
……いや。
封じている。
巨大な魔法陣。
光の鎖。
誰かの声が響く。
『——まだ早い』
聞いたことのない言語なのに、意味だけが理解できた。
黒い狼の瞳がこちらを見る。
まっすぐ。
まるで時間を越えて。
『次は、お前か』
心臓が跳ねる。
◇
視界が戻る。
膝が崩れた。
「おい!」
カイルが支える。
「大丈夫か!?」
呼吸が荒い。
汗が止まらない。
「……今、見た」
「何を?」
言葉を探す。
だがうまく説明できない。
ただ確信だけが残っていた。
「……あれ、封印されてる」
カイルの表情が変わる。
「封印?」
頷く。
「この森、昔戦場だった」
魔法陣。
記録。
変異体。
統率された魔物。
全部繋がる。
何かが目覚めかけている。
そして——。
俺が来たタイミングと一致している。
(偶然じゃない)
胸の奥が冷える。
転生。
黒い光。
あの狼。
全部が一本の線になり始めていた。
その時、拠点方向から警戒信号が鳴った。
教師の魔導具だ。
緊急集合。
カイルが顔を上げる。
「戻るぞ。今度は全員で対処だ」
俺は立ち上がる。
まだ足が少し震えている。
だが歩ける。
森を抜けて拠点へ戻ると、生徒たちがざわついていた。
教師たちが空を見上げている。
俺も視線を上げる。
夕焼けの空。
その向こう。
黒い影が、ゆっくりと旋回していた。
翼。
巨大な影。
ガルムが叫ぶ。
「……ドラゴン?」
教師が否定する。
「違う……あれは——」
言葉を失う。
黒い影が咆哮した。
空気が震える。
森の奥から、無数の遠吠えが呼応する。
まるで。
何かの“帰還”を告げるように。
こうして遠征初日は終わらなかった。
学園外遠征は、未知の異変へと姿を変え始める。
そしてこの夜。
世界の均衡が、静かに崩れ始めていた。




