社畜だった俺、死んだら異世界のエリート学園に入学させられました
午前三時。オフィスの蛍光灯は、まるで人間の寿命を削るためだけに存在しているような色をしていた。静まり返ったフロアに響くのはキーボードの打鍵音だけ。カタ、カタ、カタ……止まらない。いや、止めるという選択肢が存在しない。
「神谷くん、まだ終わってないの?」
背後から聞こえた声に、振り向く必要はなかった。課長だ。この時間まで残っている時点で、声の主はほぼ確定している。
「仕様変更が入りました」
「うんうん、クライアント要望なら仕方ないよね。朝までにお願い」
軽い。あまりにも軽い。人の睡眠時間を削る指示とは思えないほど軽い声だった。
俺は「はい」と答えた。納得したわけではない。ただ社会人として最適な反応を選択しただけだ。会社では正しさよりも、摩擦を起こさない返答の方が価値がある。
画面に並ぶコードを見つめる。本来ならAIに任せれば数分で終わる修正だ。しかし会社はそれを許可しない。「責任の所在が不明確になるから」。つまり、失敗したときに誰かを叱れなくなるからだ。
合理性より責任回避。効率より前例主義。そんな世界に俺は七年間いた。
時計を見る。03:12。終電はとうに消え、帰宅という選択肢は失われている。隣の席では新人の後輩が机に突っ伏して寝ていた。マウスを握ったまま意識を失っている。
「……倒れるぞ」
小さく呟き、ブランケットをかける。自分の視界の方が揺れていた。カフェインをどれだけ摂取したか覚えていない。
子供の頃、こんな未来を想像していただろうか。
もっと違う人生を思い描いていた気がする。研究者とか、開発者とか、何かを生み出す側の人間。少なくとも、同じ修正を何度も繰り返す歯車ではなかったはずだ。
「神谷くん」
また課長だった。
「明日、出勤できる?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……明日、日曜ですよね」
「うん。でも今が踏ん張りどころだから」
悪意はない。本当にない。ただ会社という生態系に完全適応した結果の発言だった。
その瞬間、心のどこかが静かに途切れた。
怒りではない。悲しみでもない。ただ、糸が切れるように思った。
――もういいか。
そう思っただけだった。
仕事を終えたのは夜明け直前だった。外に出ると、空気が驚くほど冷たかった。自販機の光がやけに眩しい。足取りが重い。身体が自分のものではないような感覚。
視界が揺れる。
(寝ないとな)
それが最後の思考だった。
世界が傾き、アスファルトが近づく。遠くで誰かが叫んでいる気がしたが、もうどうでもよかった。
意識は、そこで途切れた。
……風を感じた。
頬を撫でる空気は、夜勤明けの駅前で吸った冷たい排気ガス混じりのそれとは違う。もっと柔らかく、草と土の匂いが混ざっている。耳に届く音も、車の走行音や電車のブレーキ音じゃない。遠くで鳥が鳴き、誰かが笑っているような、穏やかなざわめき。
目を開ける。
信じられないほど青い空が広がっていた。
「……は?」
声が出た。喉が乾いていない。頭痛もない。身体が軽い。……いや、それ以前に、ここはどこだ。
起き上がると、芝生の感触が掌に伝わった。周囲には石造りの建物が並び、巨大な塔が空に突き刺さっている。ヨーロッパの城をそのまま学園にしたような景色。観光地のセットにしてはスケールがデカすぎる。
そして何より、周りにいるのは——ローブ姿の少年少女たちだった。
「おい。ぼーっとするな。次、お前だぞ」
横から苛立った声が飛んできた。視線を向けると、金髪の少年が腕を組んでこちらを睨んでいる。十代半ば。貴族っぽい服装。耳にピアス。コスプレにしては、全員の“馴染み方”が異常だ。
「……次? 何の」
「測定だよ、測定。アカデミー初日に寝坊か? 冗談だろ」
アカデミー。
その単語を聞いた瞬間、頭の奥で鈍い痛みが走った。脳の深いところを指でかき回されたような感覚。次いで、知らない記憶が雪崩のように流れ込んでくる。
名前。言語。文字。世界の地理。歴史。魔法体系。階級社会。貴族と平民。魔力量。武器の扱い。戦争の影。——そして、この場所。
《王立戦闘学園アカデミー・アルセリア》
……待て。
魔法?
戦闘学園?
俺、さっきまで会社で死にそうになってたよな?
(いや、死に“そう”じゃなくて……)
倒れた。意識が途切れた。次に目が覚めたらここ。記憶の流入は“転生後の常識”だ。
つまり。
俺、死んで、異世界に転生してる。
「……はは」
乾いた笑いが出た。人生って、ここまで理不尽だと逆に笑えるらしい。ブラック企業で過労死して、次は異世界で学園生活。普通ならテンション爆上がりだろう。だが俺の感情は真逆だった。
嫌な予感しかしない。
社会人経験が警告する。
——“学園”は組織だ。組織には序列がある。序列がある場所は責任が降ってくる。
そして、責任が降ってくる場所は地獄だ。
「次! 前へ!」
前方で教師らしき男が怒鳴った。灰色のローブをまとった中年。いかにも「規律が好きです」って顔をしている。俺は反射的に背筋を伸ばしてしまった。社会人の悲しい習性。
その前には巨大な水晶球が鎮座していた。台座に固定され、表面に細かな魔法陣が刻まれている。生徒が手を置くたびに水晶が発光し、色が変わる。青、赤、金……そして時折、周囲がどよめく。
「おおっ、Aランク!」
「さすがだ、貴族の血は違う!」
「……平民はB止まりか」
会話から察するに、あれは魔力量の測定器らしい。魔力量はこの世界の“才能”の根幹であり、人生を決める指標——ということは、つまり。
目立ったら終わる。
俺は本能的に理解した。
ここで高評価を取れば、確実に面倒が降ってくる。エリート扱い、期待、責任、使命。最悪、国家案件。俺は前世で十分働いた。今世は……できれば静かに暮らしたい。できれば、誰にも見つからずに定時で帰りたい。
「おい、次。名前を言え」
教師が俺を指差した。列がいつの間にか進んでいて、俺の番になっていたらしい。やばい。考える時間がない。
「……レイジです」
転生後の名前が自然と口から出た。教師が頷く。
「レイジ・カミヤ。手を置け」
水晶球に手を置く。
その瞬間。
ぞわり、と皮膚の下を何かが走った。血液とは違う流れ。熱でも冷気でもない。身体の中心から湧き上がるエネルギーが、指先から水晶へ吸い込まれていく感覚。
(これが……魔力?)
水晶が淡く光った。
——よし。控えめだ。青とかなら平凡で済む。そう思った次の瞬間、光が急激に強くなった。
青が白に変わり、白が金になり、金が紫へ跳ねる。色が混ざり、渦を巻き、暴走するように膨れ上がっていく。
「……な?」
教師の顔色が変わった。
周囲がざわつく。いや、ざわつくどころじゃない。空気が一気に緊張する。水晶の内部で雷のような光が走り、台座がカタカタと震え始めた。
嫌な予感しかしない。
(やばい、これ……止められないのか?)
俺は慌てて手を離そうとした。しかし、指先が吸い付いたように離れない。水晶が俺の魔力を“引っ張って”いる。吸い上げられる感覚が強まり、身体の奥が空っぽになっていく。
「手を離せ! すぐに——」
教師が叫んだ、その瞬間だった。
バチッ、と空気が弾ける音。
次いで、低い唸り。
水晶が、裂けるような音を立てて亀裂を走らせた。
「待っ——」
俺の声は爆音に飲み込まれた。
ドォン!!
白い光が爆ぜ、水晶球が粉々に砕け散った。破片が雨のように降り注ぐ。教師が咄嗟に防御魔法を張ったのか、透明な壁が一瞬だけ見えた。破片は壁に当たって弾け、床に散らばる。
静寂。
誰も動けない。
俺の手はいつの間にか自由になっていた。指先が痺れている。身体は……妙に平気だ。むしろ少しスッキリした気さえする。
しかし周囲の視線が痛い。
全員が俺を見ている。さっきまで騒いでいた貴族も、つまらなそうにしていた教師も、落ちこぼれっぽい生徒も。全員が同じ顔をしていた。
「……測定不能、だと?」
教師が震える声で呟いた。破片だらけの台座を見つめ、次に俺を見る。目が完全に“危険物を見る目”だ。
やばい。
これは非常にやばい。
目立ったら終わるどころか、これ“目立ちすぎ”だ。国家案件どころじゃない。隔離とか研究対象とか、そういう方向に話が進むやつだ。
俺は小さく息を吐き、反射的に社畜の処世術を発動した。
——まずは、謝る。相手の感情を落ち着かせる。原因追及から意識を逸らす。
「……すみません。えっと、僕、加減を……」
声が裏返った。自分でも情けない。だがここで強者ムーブをしたら本当に詰む。
教師は沈黙し、周囲は凍りつく。次の瞬間、誰かが小声で呟いた。
「水晶、壊した……?」
「測定不能って……」
「化け物、じゃないか……?」
最悪の単語が耳に入る。
化け物。
……いや、否定できない。自分でも正体が分からない。だが、俺は化け物になりたいわけじゃない。俺が欲しいのは、平穏だ。定時だ。休日だ。できれば昼寝もしたい。
教師がようやく口を開いた。
「レイジ・カミヤ。……別室へ来い」
終わった。
俺の異世界ライフ、開始五分で詰みかけている。
(頼むから、ブラック企業みたいな展開だけはやめてくれ……)
そう願いながら、俺は破片だらけの床を踏まないように、そっと歩き出した。
別室へ向かう道中、周囲の視線がずっと背中に刺さっていた。好奇、警戒、恐怖、そして期待。会社でも似た視線を感じたことがある。大きなトラブルを一人で解決してしまった翌日、急に上司たちの態度が変わるあの感じだ。
——「使える人材」と認識された瞬間の空気。
嫌な記憶が蘇る。
石造りの廊下はやけに長く、足音が静かに反響していた。先導する教師は無言のまま歩いている。怒っているのか、困惑しているのか判別できない表情だった。
やがて小さな部屋へ通された。机と椅子、棚があるだけの簡素な空間。面談室のような場所だ。教師は椅子に座るよう促し、自分も向かいに腰を下ろした。
「……まず確認する」
低い声だった。
「お前、自分の魔力量を把握しているか?」
「いえ、まったく」
嘘ではない。本当に分からない。むしろ俺が聞きたい。
教師は眉間を押さえ、深く息を吐いた。
「先ほどの測定器は王国規格の最新型だ。Sランク魔導士でも破壊した例はない」
さらっと恐ろしいことを言われた。
つまり俺は、基準外ということになる。
「故意ではないな?」
「はい。むしろ壊れると思ってませんでした」
教師は数秒間こちらを見つめ、それから椅子にもたれた。
「……ふむ。魔力制御が未熟な可能性が高いな」
(それで済むのか?)
内心驚いたが、顔には出さない。社会人時代に身につけた最大のスキルは、感情を表に出さないことだ。
「本来なら再測定を行うが、予備の水晶は高価でな。今日は不可能だ」
教師は書類に何かを書き込みながら続けた。
「暫定的に、お前の評価は“未測定扱い”とする」
未測定。
それはつまり、ランキング外。
序列不明。
……最高じゃないか。
心の中でガッツポーズを決めた。目立たないポジション。責任が降ってこない場所。異世界に来て初めて希望が見えた瞬間だった。
「クラス分けは後日正式決定するが……」
教師がペンを止め、こちらを見る。
「恐らくFクラスになるだろう」
思わず口元が緩みそうになった。
Fクラス。落ちこぼれ枠。注目されない安全地帯。完璧だ。
「問題ありません」
即答した俺に、教師は少し意外そうな顔をした。
「……向上心はないのか?」
あるわけがない。前世で使い切った。
「自分の実力に合った場所が一番だと思います」
社会人テンプレ回答を返すと、教師は納得したように頷いた。
面談は数分で終わった。部屋を出る頃には、廊下のざわめきも落ち着いていた。だが遠巻きにこちらを見る生徒たちの視線は消えない。
完全に噂になっている。
(まずいな……)
目立たない計画は初日から崩壊しかけている。しかしまだ修正は可能だ。重要なのは“継続的な印象操作”。会社で学んだ危機管理スキルが頭の中で動き始める。
・能力を見せない
・失敗を装う
・期待値を下げる
・安全圏を確保する
よし、いける。
中庭へ戻ると、測定は再開されていた。壊れた水晶の代わりに小型の装置が設置されている。俺を見る視線はまだ多いが、先ほどほどの騒ぎではない。
そのとき、不意に声がかかった。
「あなた」
振り向く。
そこに立っていたのは、銀色の長い髪を持つ少女だった。整った顔立ち、凛とした姿勢、周囲の生徒が自然と距離を取っている様子から、ただ者ではないと分かる。
制服の装飾も明らかに上位階級仕様だった。
「……何か?」
できるだけ平静を装って答える。
少女は真っ直ぐ俺を見つめた。その瞳は静かで、しかし鋭かった。
「先ほどの測定、偶然ではありませんよね?」
心臓が一瞬止まりかけた。
やばい。早すぎる。もう気づいた人間がいる。
「いえ、普通に壊れただけかと」
曖昧に笑ってごまかす。社会人スマイル。万能防御スキル。
だが少女は目を逸らさない。
「魔力の流れが見えました。制御されていない暴走ではありませんでした」
完全に見抜かれている。
沈黙が落ちた。
数秒後、少女は小さく息を吐き、少しだけ口元を緩めた。
「安心してください。誰にも言いません」
「……なぜ?」
思わず聞き返す。
少女はわずかに首を傾けた。
「面白そうだからです」
予想外の答えだった。
「私はレティシア。よろしくお願いします、レイジさん」
王族の名乗りのように優雅な所作だった。周囲がざわつく。どうやら本当に高位の人物らしい。
俺は内心頭を抱えた。
目立ちたくないのに、なぜか一番関わってはいけないタイプにロックオンされている気がする。
レティシアは去り際、小さな声で言った。
「あなた、本当は——強いでしょう?」
否定の言葉が出なかった。
彼女はそれを肯定と受け取ったのか、満足そうに微笑んで去っていく。
残された俺は空を見上げた。
異世界転生。学園生活。魔法。
普通なら夢の始まりだろう。
だが俺にとっては違う。
(どうやってサボりながら生き延びるか、だな……)
こうして、元社畜の異世界生活は、平穏とは程遠い形で幕を開けたのだった。




