終章 車裂き、あるいは永遠のラブレター
あーあ、詰んだな。
それが、捕縛された時の素直な感想だった。
俺の領地である「商」に戻り、急ごしらえの兵を集めて抵抗してみたものの、正規軍相手に勝てるわけがない。
そもそも、俺が秦軍を強くしすぎたのだ。
かつての弱小国だった秦の兵士たちは、今や虎や狼のように強く、そして機械のように統制が取れている。俺が作ったマニュアル通りに動き、俺が設計した戦術で、俺を追い詰める。
皮肉を通り越して、もはや感動すら覚えた。
俺の作品(軍隊)は、作者(俺)を超えたのだ。
処刑場は、咸陽の広場に設けられた。
かつて俺が「木の棒を運んだら五十金」というショーを行い、民衆の度肝を抜いた、あの場所だ。
あの時は歓声とどよめきに包まれていたが、今日は違う。
水を打ったような静寂。
広場を埋め尽くす何万という民衆は、誰一人として私語を交わさず、整列して俺を見つめている。
素晴らしい秩序だ。
かつてのような野次も、喧嘩も、暴動もない。ただ法の下に管理された、美しい沈黙。
「久しぶりだな、商鞅」
処刑台の特等席で、新王・恵文王――かつての太子・駟が見下ろしている。
俺は五体の手足を、それぞれ五台の馬車に鎖で繋がれていた。大の字、なんてもんじゃない。限界まで筋肉が伸びきっている。
「ご機嫌麗しゅう、陛下。鼻の具合はいかがで?」
俺は挑発してみたが、王は乗ってこなかった。
「減らず口を。……貴様のおかげで、余の教育係は鼻を失い、余は屈辱を味わった。だが、礼も言っておく」
王は立ち上がり、広場を見渡した。
「貴様が作り上げたこの国は、強い。法は隅々まで行き渡り、王権は盤石だ。このシステムは、余が有効に使わせてもらおう」
「それはどうも。著作権料は放棄しますよ」
「ハードウェア(貴様)は廃棄するが、ソフトウェア(法)は残すということだ」
王が手を挙げる。
それが合図だった。
五人の御者が鞭を構える。
俺は目を閉じた。
恐怖がないと言えば嘘になる。
身体が引き裂かれる痛み。想像するだけで吐き気がする。
でも、それ以上に、妙な達成感があった。
俺はやりきった。
腐敗した魏を飛び出し、何もない荒野だった秦を、中華最強の法治国家へと変貌させた。
誰に愛されなくとも、誰に憎まれようとも、俺の設計図通りに世界は書き換わった。
(……いや、違うな)
俺は瞼の裏で、あの茶色いお団子頭の少女を思い出した。
世界のためじゃない。
俺はただ、彼女との約束を守りたかっただけだ。
――バグだらけの魏とは違う、完璧なシステムが稼働する場所にする。
――その基盤ができたら、お前を呼ぶ。
俺は約束を守った。
治安は良くなった。泥棒はいなくなった。理不尽な暴力も消えた。
ただ、そのシステムがあまりに厳格すぎて、彼女の笑顔まで奪ってしまったけれど。
ふと、群衆の最前列に、見覚えのある姿があるような気がした。
もちろん、気のせいだろう。
彼女はもう、とっくに魏へ帰ったはずだ。
けれど、その幻影の彼女は、泣きそうな顔で俺を見ていた。
俺は精一杯の強がりで、口の端を吊り上げた。
笑えよ、メイ。
俺は詐欺師じゃなかっただろ?
お前が安心して暮らせる国を、本当に作ってみせたんだから。
たとえその国に、俺の居場所がなかったとしても。
「執行!」
鞭の音が響く。
五頭の馬がいななき、一斉に走り出す。
手首と足首に、強烈な負荷がかかる。
骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。
全身が熱い。痛みを通り越して、真っ白な光に包まれるようだ。
――ブチリ。
何かが千切れる音が、遠くで聞こえた。
視界が反転し、空が落ちてくる。
最後に俺の目に映ったのは、どこまでも高く、青く澄み渡った秦の空だった。
ああ、いい天気だ。
バグ一つない、快晴だ。
────
商鞅の死後、彼の体は引き裂かれ、一族は皆殺しにされた。
人々は彼を恨み、罵り、石を投げたという。
しかし。
秦の国から、商鞅の定めた「法」が消えることはなかった。
王は商鞅を殺したが、商鞅の法は捨てなかった。むしろ、それを武器として、秦はさらに強大化し、やがて中華全土を統一する「始皇帝」の時代へと繋がっていく。
数年後。
咸陽の片隅にある食堂で、忙しく働く一人の女性の姿があった。
茶色い髪をお団子にまとめた彼女は、客の注文をテキパキとさばき、釣銭を間違えることもない。
「へい、お待ち! 豚肉の煮込み定食!」
湯気の立つ皿をテーブルに置く。
客の男が、代金を払おうとして、小銭を落とした。
コロコロと転がった銅銭は、店の外まで転がっていったが、誰もそれを拾って盗もうとはしない。
落ちているお金ですら、持ち主の許可なく触れれば罰せられる。それがこの国のルールだからだ。
「……平和だねぇ」
客が呟く。
「ああ。窮屈だけど、安全な国だ」
女性――メイは、転がった銅銭を拾い上げ、ふっと空を見上げた。
西の空には、かつてあの偏屈な男が愛した、真っ赤な夕焼けが広がっている。
「馬鹿な男」
メイは小さく呟いた。
その目元は少しだけ赤かったが、すぐにタオルで乱暴に拭った。
「あんたのラブレター、重すぎるのよ」
彼女は厨房へと戻っていく。
その背中は、かつてよりも少しだけ強く、そして自由に見えた。
厳格な法に守られたこの街で、彼女は今日も生きていく。
歴史を変えた大悪党が、命がけで遺した「安全」という名の愛に包まれて。




