第六章 完璧すぎたシステム、あるいは宿帳のない夜
永遠に稼働するサーバーなど存在しないように、人の命にも寿命(期限)がある。
俺の最大の理解者であり、唯一のスポンサーでもあった秦王・渠梁が死んだ。
病床の彼は、最後まで俺の手を握り、「あとは頼む」と言い残した。
だが、俺は知っていた。彼が死んだ瞬間、俺の管理者権限は剥奪されることを。
新しく王位についたのは、かつて俺が教育係の鼻を削いだ、あの太子だ。
即位の儀式で、新王は俺を見てニヤリと笑った。その笑顔は、「ようやくお前をデバッグできる」という喜びに満ちていた。
「商鞅は謀反を企んでいる」
そんな根も葉もない噂が流れるのに、三日もかからなかった。
俺は即座に悟った。
弁明? 裁判? 無駄だ。俺が作ったシステムは「疑わしきは罰せよ」で回っている。
俺は屋敷を捨て、財産を捨て、単身で逃亡した。
夜の荒野を走る。
目指すは東、魏の国境だ。
だが、そこには皮肉な計算違いがあった。
魏は、俺が騙し討ちにした公子昂の故郷だ。俺が行けば、間違いなく殺される。
西も北も秦の領土。南は山岳地帯。
逃げ場がない。
世界中が俺のエラー(死)を待っている。
深夜、疲れ果てた俺は、国境近くの小さな宿場町にたどり着いた。
寒さと空腹で思考回路がショートしそうだ。とにかく屋根のある場所で休みたい。
一軒の薄汚れた宿屋の扉を叩く。
「……誰だい、こんな夜更けに」
不機嫌そうな親父が顔を出した。
俺は息を切らせながら言う。
「部屋を頼む。金ならある」
懐から金貨を取り出す。十分すぎる額だ。
しかし、親父は金貨を見ても目を輝かせなかった。むしろ、疑わしそうな目で俺をジロジロと見た。
「手形を見せてくれ」
「……ない」
急な逃亡で、身分証など持ち合わせているはずがない。
「なら、泊めるわけにはいかねぇな」
親父はピシャリと言って、扉を閉めようとする。
俺は慌てて扉を押さえた。
「頼む! 一晩だけでいいんだ! 倍払う! いや、十倍でもいい!」
「金の問題じゃねぇんだよ!」
親父が怒鳴り返した。
「あんた知らないのか? 商鞅様がお作りになった『連座の法』をよ。手形のない怪しい奴を泊めたら、俺だけじゃねぇ、家族も隣近所も全員死刑なんだよ!」
――ガツン、と頭を殴られたような衝撃が走った。
連座の法。
一人の罪を、周囲の人間にも負わせる相互監視システム。
治安維持のために俺が考案し、徹底させた最強のルール。
それが今、完璧に機能している。
この片田舎の、しがない宿屋の親父に至るまで、俺の恐怖政治が染み渡っている。
「……は、はは」
俺の口から、乾いた笑いが漏れた。
「なんだ、笑い事じゃねぇぞ」
「いや……すまない。よくできた法律だと思ってな」
「当たり前だ! 商鞅様の法は絶対だからな!」
バタン!
扉が閉ざされ、錠が下ろされる音がした。
俺は扉の前に立ち尽くした。
寒風が吹き抜ける。
俺が作った法が、俺自身を拒絶している。
俺は、俺自身の手によって、退路を断たれたのだ。
その時、ふと、かつて魏で過ごした夜を思い出した。
金のない俺に、「ツケでいいわよ」と笑って飯を食わせてくれた、あの食堂。
ルールもへったくれもない、あのアバウトで温かい場所。
もし、この宿屋の主人がメイだったら。
彼女なら、「しょうがないわね」と言って扉を開けてくれただろうか?
いや、きっと彼女はこう言うだろう。
『自業自得よ、公孫さん』
俺は空を見上げた。
星が綺麗だ。
これほど論理的で、これほど美しい結末があるだろうか。
俺のシステムは、開発者である俺自身をも「異物」として認識し、排除しようとしている。
バグ一つない、完全無欠のプログラムだ。
「……傑作だ」
俺は闇に向かって呟いた。
逃げるのはやめだ。
魏に行っても殺される。秦にいても殺される。
ならば、最後くらい、俺の領地である「商」に戻って、派手に散ってやろうじゃないか。
それが、この壮大な社会実験のエンディングに相応しい。
俺は来た道を引き返した。
その足取りは、来る時よりも少しだけ軽かった。
自分が作った怪物が、自分を喰らいに来る。その恐怖よりも、自分の仕事の完璧さへの妙な納得感が、胸を満たしていたからだ。




