第五章 友情という名のセキュリティホール
国が強くなれば、当然、外へ溢れ出す。
秦の軍隊は、俺が設計した通り、正確無比な殺人マシンとして機能していた。
隣の大国・魏との戦争がついに始まったのだ。
だが、俺にとって戦争とは、単なる「コスト」でしかない。
兵士が死ねば生産力が落ちる。矢を射れば金がかかる。勝っても負けても、国庫が痛むことには変わりない。
だからこそ、俺は最もコストパフォーマンスの良い手段を選んだ。
「左庶長。敵の魏軍、総大将が判明しました」
前線の幕舎で、部下が報告書を持ってくる。
そこに記された名前を見て、俺は思わず口角を上げた。
『総大将:魏の公子・昂』
昂。
懐かしい名前だ。
俺がまだ魏でくすぶっていたニート時代、身分を超えて酒を酌み交わした数少ない友人。
王族のくせに人が良く、俺のひねくれた愚痴を「お前は面白いなぁ」と笑って聞いてくれた、底抜けの善人だ。
「……まさか、彼が来るとはね」
運命の皮肉というやつか。それとも、天が俺に「楽をさせてやろう」と配慮したのか。
俺は即座に筆を執った。
作戦変更だ。軍を動かす必要はない。紙とペンがあればいい。
「おい、アン。久しぶりだな」
数日後。
戦場の真ん中に設けた会見場で、俺は彼と対面していた。
武装を解き、平服で、酒と肴を用意して。
昂は、昔と変わらない人懐っこい笑顔でやってきた。
「おお、公孫鞅! いや今は商鞅か。立派になったなぁ!」
彼は俺の肩をバンバンと叩く。
「お前が秦の将軍になるとはな。正直、戦いたくないぞ。どうだ、今日は一つ、昔のように飲んで、平和的に国境線を決めないか?」
「ああ、俺も同感だ。血を流すなんて野蛮なことはしたくない」
俺は笑顔で酒を注ぐ。
昂は疑いもしない。俺が「平和」を口にする時、その裏でどれだけの冷徹な計算が走っているかを、彼は知らないのだ。
宴は盛り上がった。
昔話に花を咲かせ、互いの健闘を称え合う。
そして、昂がすっかり酔っ払い、無防備に喉を晒した瞬間。
俺は杯を床に叩きつけた。
それが合図だった。
「――確保せよ」
床下から、茂みから、武装した秦兵が一斉に飛び出す。
「え……?」
昂が目を見開く。
何が起きたのか理解できないまま、彼は屈強な兵士たちに取り押さえられ、泥に顔を押し付けられた。
「公孫鞅……? 冗談だろ? 俺だぞ、昂だぞ!」
彼は叫ぶ。
俺は冷めた目で見下ろしながら、飲みかけの酒をあおった。
「悪いな、アン。お前が総大将で助かったよ。おかげで、兵を一人も損なわずに魏軍を無力化できた」
総大将が捕まれば、軍は機能不全に陥る。
あとは混乱した敵を一方的に狩るだけだ。これ以上ない効率的な勝利。
「貴様……人の心が……ないのか……ッ!」
昂の絶叫が遠ざかっていく。
俺は耳をほじり、部下に指示を出した。
「連行しろ。丁重にな。彼は貴重な交渉カードだ」
凱旋した俺を待っていたのは、かつてないほどの栄誉だった。
王様は大喜びし、俺に商という土地を丸ごとプレゼントしてくれた。
これで俺は名実ともに「商君」、商鞅となったわけだ。
だが、屋敷に帰ると、空気は凍りついていた。
メイだ。
彼女は俺の顔を見るなり、汚いものを見るような目で睨みつけた。
「……アンさんを、騙したんですって?」
情報は早い。
「騙したんじゃない。戦術的勝利だ」
「友達でしょ! 魏にいた頃、あんなにお世話になったのに!」
「だからこそだ。彼との友情があったからこそ、この作戦は成功した。友情という脆弱性を突いたんだ」
俺が得意げに説明しようとすると、メイの手が飛んできた。
今度は避けなかった。
乾いた音が響く。
「最低」
メイの声は低く、震えていた。
「あんた、もう人間じゃないわ。ただの計算機よ。壊れてるわ」
「壊れていない。俺は正常だ。おかしいのは、感情で損得を見誤るお前たちの方だ」
「……もういい」
メイは首を振った。
「出て行くわ。こんな血塗られた屋敷、もう一秒もいたくない」
彼女は背を向けた。
俺は動揺した。
メイが出て行く? それは困る。彼女は俺にとって必要な精神安定剤だ。
「待て。契約違反だ。俺はまだ、お前への報酬を払い終えていない」
「報酬? んなもん、いらないわよ!」
メイは懐から、あの割符を取り出した。
かつて俺が渡した、約束の証。
彼女はそれを床に叩きつけ、足で粉々に踏み砕いた。
バキッ、という音が、俺の心臓のどこかで響いた気がした。
「契約解除よ。さようなら、商鞅様」
彼女は出て行った。
俺は止めなかった。いや、止めるための論理的な言葉が見つからなかった。
床に散らばった木片を見つめる。
俺は勝ったはずだ。
国を富ませ、敵を破り、最高の地位を手に入れた。
だというのに、どうしてこんなに、部屋が寒いんだ?
俺は一人、玉座のような椅子に深く沈み込んだ。
システムは完成した。
完璧だ。
だが、そのシステムの中央制御室には、もう俺一人しかいなかった。




