第四章 特権階級という名のバグ、あるいは鼻の行方
システム運用において、最も厄介なのは外部からのハッキングではない。
内部の、それも管理者権限を持つ人間によるルール違反だ。
その日、俺の元に緊急のレポートが届いた。
「左庶長! 大変です! 太子様が法を犯しました!」
太子・駟。
まだ十代の若造だが、次期国王という最強のカードを持っている少年だ。
報告によれば、彼は祭りの列に馬で割り込み、さらに咎めた役人を鞭で打ったらしい。
完全にアウトだ。俺の作った法によれば、往来妨害と公務執行妨害で、顔への刺青か、鼻削ぎの刑に相当する。
「……で、どうした? 逮捕したのか?」
俺が書類から目を離さずに聞くと、報告に来た部下は「正気ですか?」という顔をした。
「め、滅相もございません! あの方は次の王様ですよ? 手を出せるわけがないでしょう!」
「だからダメなんだ、この国は」
俺はペンを置き、深いため息をついた。
法の上に王族がいる。その例外を許容すれば、システム全体の信頼性が崩壊する。「なんだ、結局偉い奴は何してもいいんじゃん」と国民が思った瞬間、俺が積み上げてきたものは瓦礫の山になる。
「処理するぞ」
俺は立ち上がった。
王宮の中庭は、異様な緊張感に包まれていた。
ふんぞり返る太子・駟と、その取り巻きたち。
そして、青ざめた顔で立ち尽くす役人たち。
俺が現れると、太子は鼻で笑った。
「遅いぞ、商鞅。余に説教でもしに来たか? 無駄だぞ。余は王の子だ。貴様の作った窮屈な法など、余には適用されぬ」
典型的なボンボンだ。悪気さえないのが一番タチが悪い。
俺は静かに頭を下げた。
「おっしゃる通りです、殿下」
「ほう? 分かっているではないか」
「法とは、民を導くためのもの。至高の存在である殿下に、直接罰を与えることなどできません」
周囲の貴族たちがホッとした顔をする。商鞅も日和ったか、と。
だが、俺はそこで言葉を切らず、ニッコリと笑った。
「しかし、法は絶対です。法が破られたという事実は、清算されなければなりません」
俺は視線を、太子の後ろに控えていた二人の男に向けた。
太子の教育係である、公子昂と、公孫賈だ。
「教育係の責任とは重大です。殿下が法を軽んじるのは、あなた方の教育が不十分だったからだ。違いますか?」
「な、何を……!」
二人が抗議しようとするより早く、俺は衛兵に合図を送った。
「法に基づき、教育係を処罰する!」
「公孫賈には、額に罪人の印を刻む黥刑を!」
「そして、王族の親戚でもある公子昂には、鼻を削ぎ落とす劓刑を申し渡す!」
悲鳴が上がった。
太子が「やめろ!」と叫ぶが、俺の訓練した兵士たちは止まらない。
抵抗する大の大人を取り押さえ、白昼堂々、刑は執行された。
鮮血が飛び散り、野太い絶叫が王宮に響き渡る。
物理的に鼻を失った男が、顔面を赤く染めてのたうち回る姿は、地獄絵図そのものだった。
俺は顔色一つ変えずにそれを見下ろし、ガタガタと震える太子に告げた。
「殿下。次はありませんよ。法を守るか、それとも周りの人間が全員鼻無しになるか。お好きな方をお選びください」
太子は腰を抜かし、失禁していた。
これでいい。恐怖という名の教育完了だ。
その夜。
屋敷に帰った俺を出迎えたのは、氷のような視線だった。
「……聞いたわよ」
メイが、広間の真ん中で立ち尽くしていた。
食卓には夕食が並んでいるが、手付かずだ。
「太子の先生の、鼻を削いだんですって?」
「法に従っただけだ」
俺は上着を脱ぎながら、淡々と答える。
血の匂いが染み付いている気がして、早く着替えたかった。
「従っただけ、じゃないわよ! 相手は王族の親戚でしょ? しかも、あんたの古い知り合いだって聞いたわよ」
「知り合いだろうが関係ない。むしろ、身内だからこそ厳しくした。そうでなければ示しがつかない」
「示し? そのために人の顔を壊すの? あんた、おかしいわよ」
メイの声が悲鳴のように裏返る。
彼女が俺に詰め寄る。その目には涙が溜まっていた。
「ねぇ、公孫さん。魏にいた頃のあんたは、口は悪かったけど、もっと優しかった。こんな……血の通わない機械じゃなかった」
「俺は変わってない。昔から言っていたはずだ。システムを作ると」
「システムなんてどうでもいい! あたしが見てるのはあんたよ! 今のあんたは、自分の正しさを証明するためなら、何でも切り捨てる死神に見えるわ!」
死神。
その言葉が、胸に突き刺さる。
俺はメイの肩を掴もうと手を伸ばしたが、彼女はビクリと身体を強張らせ、俺の手を振り払った。
パシッ、という乾いた音が部屋に響く。
俺の手が、空中で止まる。
「……触らないで」
メイは震える声で言った。
「その手で、今日は誰を傷つけてきたの? 明日は誰を殺すの?」
彼女は後ずさり、背を向けて部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まる。
広い部屋に、俺一人。
冷めきったスープの匂いだけが漂っている。
俺は自分の掌を見つめた。
何も付いていない。血も、泥も。
だが、そこには確かに、見えない何かがベットリと張り付いているようだった。
「……効率的じゃないな」
俺は誰にともなく呟いた。
国を正せば正すほど、一番近くにいて欲しい人間が離れていく。
このパラドックスを解く数式を、俺はまだ見つけられずにいた。
ただ、一つだけ分かっていることがある。
もう、後戻りはできないということだ。
今日、俺は太子の恨みを買った。
将来の王を敵に回したのだ。
俺の命運は、今の王・渠梁が生きている間だけの、期間限定のものとなった。
時計の針は動き出した。
破滅までのカウントダウンだ。
だったら、最後まで走り抜けるしかない。
俺という劇薬が、この国の骨の髄まで染み渡るまで。




