第一章 バグだらけの魏、そして約束
世の中には二種類の人間がいる。
ルールを作る奴と、ルールに従う奴だ。
さらに細かく分類すれば、ルールを破って楽しむ馬鹿や、ルールの隙間を突いて小銭を稼ぐ賢しい奴なんかもいるけれど、大別すればその二つに収束する。
じゃあ、俺はどっちなんだと聞かれれば、答えは明白。
俺は、そのどちらでもない。
強いて言うなら、『ルールという名のパズルを組み立てるのが好きな、根暗なオタク』といったところか。
「ねぇ、聞いてるの? 公孫さん」
目の前で、茶色い髪をお団子にまとめた少女が、不満げに頬を膨らませている。
彼女の名前は梅。
魏の都・安邑の片隅にある、小汚い……もとい、風情ある大衆食堂の看板娘であり、俺の数少ない話し相手でもある。
いや、話し相手というよりは、俺が一方的に愚痴をこぼし、彼女がそれを右から左へと受け流す、壁のような存在と言った方が正しいかもしれない。
「聞いてるよ。今日のスープが薄いって話だろ?」
「違うわよ! 今月の宿代と飯代、まだ貰ってないって話!」
メイがバンとテーブルを叩く。
安っぽい木のテーブルが悲鳴を上げ、飲みかけの白湯が波紋を広げた。
「あー、それね。その件に関しては、現在鋭意調整中というか、なんというか」
「またそれ? 宰相様の食客(居候)なんでしょ? お給料出てるんじゃないの?」
「食客っていうのは、才能ある人間にタダ飯を食わせて、いざという時に知恵を借りるシステムなんだよ。だから基本、現物支給」
「じゃあ、その現物で払ってよ」
「俺の才能を?」
「パンをよ!」
メイは呆れたようにため息をつき、空になった皿をひったくるように回収していく。
優秀な人間も、そうでない人間も、ごった煮のように集まるこの大都市で、俺、公孫鞅は、見事に腐っていた。
俺には才能がある。
これは自惚れでもなんでもなく、客観的な事実だ。
法律、軍事、統治機構の設計。どれをとっても、そこらへんの役人ごときが束になっても敵わない自信がある。
実際、俺のパトロンだった宰相・公叔座は、俺の実力を認めてくれていた。
死ぬ間際に、王様に「公孫鞅を使え。使わないなら殺せ」と遺言を残したくらいには。
極端な話だと思われるかもしれないが、それくらい俺という存在は、劇薬なのだ。
毒にも薬にもなる。使いこなせば国を富ませ、放置すれば国を滅ぼす。
だというのに。
「王様、俺のこと完全にスルーしたんだよな」
遺言を聞いた王様は、「はいはい、お爺ちゃんボケちゃってまあ」と適当に聞き流して帰ってしまったらしい。
殺されもしないし、用いられもしない。
ただの『無』として扱われた。それが一番、堪える。
「プライド高いのも考え物ね」
厨房から戻ってきたメイが、サービスの漬物を小皿に乗せて置いてくれた。
ツンケンしているようで、こういうところは優しい。
「プライドじゃないさ。適合不全だよ」
俺は漬物を齧る。塩辛い。
「俺はこの世界を、もっと効率的に、もっとシステムチックに書き換えたいんだ。なぁなぁの関係とか、親の七光りとか、そういう不確定要素を排除して、法という名の絶対的なプログラムで動く国家。美しそうだろ?」
「……ごめん、何言ってるか全然わかんない」
「だろうね」
わかってもらえるとは思っていない。
人間というのは、感情の生き物だ。昨日と今日で言うことが変わるし、相手によって態度を変える。
俺はそれが嫌いなんだ。
1は1であってほしいし、罪は罪であってほしい。
王様だろうが奴隷だろうが、信号が赤なら止まれ。それだけの話なんだ。
でも、この魏という国は、あまりにも成熟しすぎていた。既得権益という名の贅肉がこびりつき、俺のような新しいメスを受け入れる余地がない。バグだらけのシステムだ。
「ここじゃ、俺のパズルは完成しない」
俺は立ち上がり、懐からなけなしの銅銭を取り出してテーブルに置いた。宿代には足りないが、チップくらいにはなるだろう。
「あれ? どこ行くの?」
「準備運動さ」
その日の深夜。
俺は必要最低限の荷物をまとめ、店の裏口に立っていた。
荷物といっても、着替えが二着と、書きかけの竹簡が数束。それが俺の全財産だ。
昼間は強がってみせたが、状況は深刻だ。
王は俺を無視したが、王の側近たちはどう思うか。「殺せ」という遺言だけを真に受けて、刺客を送ってくる可能性は十分にある。
逃げるなら、今しかない。
「……やっぱり、行くの?」
暗闇の中から声がした。
心臓が跳ね上がるのを抑えながら振り返ると、メイが腕組みをして立っていた。
寝間着の上に、適当な上着を羽織っただけの姿。
「起こしたか。泥棒じゃないぞ、夜逃げだ」
「どっちも犯罪よ。……魏を出るんでしょ」
「ああ。このままここにいたら、座敷牢で飼い殺しにされるか、あるいは首と胴体が永遠のお別れをするかだ。どちらも非効率的極まりない」
「ふーん。あっそ」
メイは興味なさそうに、壁に寄りかかった。
怒っているのか、悲しんでいるのか。付き合いは長いが、こういう時の彼女の感情パラメータは読みづらい。
「一緒に行こうとは言わないのか」
意地悪く、試すように俺は聞いた。
メイの動きが止まる。
「あんたねぇ、これだから童貞は」
「は? 誰が童貞だ。俺は理論上……」
「今のあんたについて行って、何があるの? 野垂れ死にのリスクが二倍になるだけじゃない。あたしは現実主義者なの。あんたの夢物語に付き合ってあげるほど、暇じゃないわ」
彼女は鼻で笑った。
ぐうの音も出ない正論だ。
今の俺は、無職の逃亡者。彼女を幸せにするどころか、日々のパンさえ保証できない。
だから、俺は一つの契約を提案することにした。
「じゃあ、こういうのはどうだ」
俺は懐から、一枚の割符を取り出した。木片を二つに割った、約束手形のようなものだ。
「俺は西へ行く。秦というド田舎だ。そこを、俺の手で作り変える」
「作り変える?」
「ああ。身分もコネも関係ない。ただ『法』というルールだけが支配する、清潔で、公平で、効率的な国だ。バグだらけのこの魏とは違う、完璧なシステムが稼働する場所にする」
熱く語る俺を、メイは冷めた目で見ている。いつものことだ。
でも、俺は続ける。
「その基盤ができたら、お前を呼ぶ。最高の屋敷と、美味い飯と、お前が一生働かなくてもいいだけの身分を用意してな」
俺は割符の片方を、メイの方へ差し出した。
「これはその予約チケットだ。持っておけ」
メイはしばらくその木片を見つめていた。
月明かりの下、彼女の瞳が揺れているのがわかる。
やがて彼女は深いため息をつくと、それを乱暴にひったくった。
「……馬鹿みたい。詐欺師の手口よ、それ」
「俺は嘘はつかない。計算間違いはするかもしれないが」
「はいはい。わかったわよ。待っててあげる。その代わり」
メイは背中に隠していた包みを、俺の胸に押し付けた。
ずっしりと重い、干し肉と硬いパンの塊だ。
「成功しなかったら、承知しないから。この肉の代金、利子つけて請求しに行くからね」
「善処するよ」
俺は包みを受け取り、苦笑する。
彼女なりに、俺の旅立ちを予期して準備してくれていたらしい。
不意に、胸の奥が熱くなるのを感じた。これが「情」というやつか。非論理的だが、悪くない。
「じゃあな」
短く告げて、俺は扉を開けた。
西の空には、まだ星が出ている。
秦までは長い道のりだ。国境を越え、山を越え、未開の地へと足を踏み入れる。
不安がないと言えば嘘になる。
だが、ポケットに入れた割符の欠片を握りしめると、不思議と足が前に出た。
「絶対よ! 公孫鞅!」
背後から、メイの叫び声が聞こえた。
俺は振り返らずに、片手を上げて応える。
必ず迎えに来る。
たとえそのために、俺自身が「法」という名の鬼にならなければならないとしても。
こうして、俺の……いや、のちに天下を震え上がらせる商鞅の、孤独な戦いが始まった。




