この世界の被害者たち
【前回までの話】
ギンがミツバを匿ったことにより収監された。なんとか救いたいと考えるミツバだったが、世界はそれを待ってはくれなかった。
白燕の塔近くの雪上。隠密部隊は赤鳳の塔の大軍勢相手に、激しい防衛戦を繰り広げていた。
そんな中ミツバは、どこか精彩を欠いていた。どうやってギンを救出するかを無意識の内に考えていたからだ。
前日の独房への侵入は情報屋の力を借りたが、脱獄させるとなると厳しいだろう。ただ侵入させるだけなら看守に影響はないが、囚人を逃したとなれば厳しい処罰が下されるはずだ。一度手伝ってもらった相手に、そんな不義理はできない。
『X、気を抜かないで』
サクラから注意が入る。変わらず一人離れて戦っている中で、BやPよりも先にミツバの異変に気付いたらしい。
『悪い……気を付ける』
それでもまだ違和感を感じたのか、サクラはもう一言付け加えた。
『戦うのに余計なことを考えている人は、死ぬよ』
あまりにも実感のこもったその言葉に、ミツバの背筋に寒気が走る。
そうだ、今は目の前の敵に集中しなければ。
眼前の軍勢は赤鳳の塔。直近はかなりその攻勢を強めており、隠密部隊も毎日戦場に駆り出されている。今も最前線で隠密部隊が何とか持ち堪えているだけ。
それだけ。
『おかしい』
不意にサクラが溢す。
『なんで私たちは、こんなに孤立しているの――?』
それと同時に、本部との通信が途切れた。
『何か手違いが……いや、違う』
サクラは瞬時に理解した。けれど、導き出されるのは最悪の結論だけ。
『これは私たちを陽動にした作戦――』
ようやくその異常事態を理解したミツバは、一瞬の間を置いて声を荒らげる。
『おかしいだろ‼︎ なんで俺たちは作戦を聞かされていないんだ⁉︎』
一方のサクラは冷静に、淡々と答えた。
『違う』
悟ったように、ただの事実を告げる。
『これは私たちを処分しつつ、敵にダメージを与える一石二鳥の策』
なんで。
ミツバのその言葉が出る前に、Pが補足した。
『副隊長のソウマは、俺たちを始末しようとしていた』
Bも続き、その信じたくもない状況に説得力を与える。
『おそらく、ソウマの独断。いや、計略とでも言うべきか』
サクラもBもPも、全員が理解していた。状況を飲み込めていなかったのはミツバのみ。
それでも、それが限りなく真実であるということを、ミツバは直感的に認識していた。
『逃げなさい』
サクラの指示。これまでのサクラの活躍は、最前線であれど味方のサポートや牽制があったからだ。完全に孤立した四人の分隊では、敵の大軍には到底抗うことができない。
『今すぐ逃げるの‼︎』
ミツバはサクラが初めて声を荒らげるのを聞いた。
だが、遅かった。敵の包囲網が、既に四人を取り囲んでいる。
『一点突破よ』
その言葉と同時に、サクラは加速していた。少しでも時間が掛かれば、包囲網は強固なものになる。一秒が命取りとなることを経験則から理解していた。
最も敵が少ないと思われる方向へ。BとPも瞬時に反応した。ミツバもすぐについていく。
けれど、敵の数は想定の数倍は多かった。まるで敵に自分たちの移動ルートがバレているかのように、先回りされているような感覚。
先陣を切るサクラが二人同時に薙ぎ倒す。サポートに入った敵をミツバが斬り伏せる。だが、さらなるサポートに対応できなかった。カバーに入ったBとPが敵部隊に飲み込まれた。
分断。確実かつ的確な対応だ。
サクラ唇を噛み締めるように、指示を出した。
『合流は不可能。撤退する』
二人は撤退を余儀なくされた。撤退と言っても、敵軍勢が少ない方へ逃げるだけだ。黒鷹の塔がある方角とは逆。離れていくことになる。
吹雪の勢いが増す。視界が悪化していくのが、逃げる彼らにとっては幸運となった。
たった二人の先の見えない撤退戦が始まった。
□ □ □
包囲網は解除されず、ミツバたちはじりじりと追い詰められていった。三時間にも及ぶ逃避行の末、彼らは一つの施設を見つける。
どこの塔のものかも分からない、合成樹脂製の偵察用施設だった。
ミツバは防護マスクとゴーグルを外し、大きく息を吐いた。
「電気は……僅かに残っているか」
半分くらい雪に埋もれていたため期待していなかったが、幸運にも直前までは使われていた施設のようだ。アイクスのバッテリーを接続し、充電を開始する。
継戦していた中でのしばしの休息。だが、ずっとここに留まっていてはいつか見つかるだろう。あくまで気休め程度にしかならない。
はっきり言って、状況は詰んでいた。
部隊は孤立した。敵には包囲されており、見つかるのは時間の問題。アイクスのバッテリーも体力もジリ貧で、敵陣を突破することなど不可能だ。味方――副隊長のソウマから裏切られているため、援軍など来るはずもない。
施設に入ってから、サクラはずっと考え込んでいる様子だ。空気が重い。
三十分ほぼ沈黙が続いた後、アイクスの充電が満タンになったところで、サクラは立ち上がった。
「どこへ行く……?」
サクラはアイクスを抱え、部屋を出ようとしていた。
「彼らの目的は私。私が陽動になれば、あなた一人なら逃げ切れるかもしれない。白燕に戻れば、中に入れてもらえるかもしれない」
いつもの歯切れの良さはない。けれど、その「かもしれない」に頼らなければならない状況なのも確かで。
「待て。一緒に動いた方が良いはずだ」
ただでさえ生きる確率の低い「かもしれない」だが、サクラの作戦が合理的だとは到底思えなかった。
それにミツバは理解していた。この状況における最善の策を。
「一番生きる確率が高いのは、俺が陽動になってサクラが逃げることだ。次点で二人一緒に逃げること。なぜそれらの選択肢を選ばない」
その実、サクラもそれは理解していた。理解していないはずがなかった。
「わざわざ救った俺を利用するなら、今だろう」
「ダメよ」
けれど、サクラは一歩も退かない。戦場における自身の判断に、強い覚悟と自信を持っている。それがサクラという人間だ。
けれど、その様子はいつもとは違っていて。
サクラは一瞬だけ目を見開き、その後、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
初めて。表情が揺らいだ。
「私は……これ以上、人が死ぬところを見たくない……」
新鮮だった。
気高き孤高の戦士が初めて見せた弱み。
ただ、どこか納得感もあった。
塔の最上階で死を決意したあの日、サクラは見ず知らずのミツバを何としてでも救おうとしていた。一体どれだけの死を見てきたのだろうか。BとPを除く全ての隠密部隊を看取ってきた過去が、サクラに死への強い忌避を生み出したのだろうか。
少しずつ、ミツバの中でサクラという人物像が形成されていくような感じがした。パズルが一つずつハマっていくように。
しかし、ミツバは真の意味でサクラのことを理解できていなかった。いや、知らなかった。
パズルのピースが足りていなかったのだから、それは仕方のないことでもあり。
ただ、サクラの意志の強さというものを甘く見ていた。
しばしの沈黙が流れる。そのあとで、サクラは静かに自身の防護服の前のファスナーに手を掛けた。
止める間も無く、サクラの素肌が露わになる。
「私は三百年前の原発事故の責任者の末裔。そして――」
サクラは服を脱ぎ、地面に落とした。
照れや恥ずかしさのようなものは微塵も無かった。
あまりにも無残な光景が広がっていたから。
「私の全身は、生まれた時から放射能汚染されている」
思わず、息が止まった。
あらゆる箇所が焼け焦げたかのように黒い。正常な皮膚を探す方が難しいくらいで。
あまりにも酷いその有り様に、ミツバは言葉を失って立ち尽くすことしかできない。
視界が歪むような、そんな錯覚。でも、非情な現実はただそこに存在し続ける。
ミツバの中に湧いたのは言い表すことのできない感情。ただ、突き刺すような痛みが全身に走っている。
サクラは目を伏せながら、防護服を着直した。それでも、ミツバの目には衝撃的な光景がこびり付いたまま。
「これで分かったでしょう? 私に生きる価値なんてないと」
サクラが一瞬だけ見せた弱みは、既に姿を隠していた。自分の皮膚を見せたことで、吹っ切れたかのように。
今は強い覚悟の瞳で、ミツバを真っ直ぐに射抜いている。
「なぜだ……?」
けれど、ミツバの中で納得し切れないことがあった。
「何で放射能汚染が、生きる価値がないということに繋がる?」
サクラは問いの意図を少し図りかねるように、ゆっくりと答えた。
「当たり前でしょう。放射能汚染を感染させてしまうもの。だから私は他の人と距離を置いてきた。他人にこのことがバレないように。バレれば、当然処刑されてしまうから」
ここでミツバはようやく理解できた。
自身とサクラ――および黒鷹の人間との認識の相違を。
「違う……放射能汚染は、感染るものじゃない!」
白燕では当たり前に教育されることを、黒鷹の人間は知らなかった。
「もしも人に感染るくらい肉体の細胞が放射化していたら、人は生きていられないはずだ。だから、人の放射能汚染は感染らない」
だが、それをサクラが知ることは、あまりにも残酷なことだった。
「そう……だったの……」
サクラはその事実を自身の中で咀嚼し、小さく首を振った。
「でも、たとえあなたが言っていることが正しかったとしても、黒鷹においては『放射能汚染は感染るもの』よ。それが真実」
そう、多くの人が信じるものは、たとえ偽りであっても真実になる。
「私は、何度も放射能汚染された人間が殺されるのを見たわ」
サクラの見てきたものが事実であり、偽りのない歴史だった。
「私が放射能汚染を隠すのは難しくなかったわ。みんな、私のことを避けるから」
そう、黒鷹の住民はサクラが原発事故の責任者の末裔であることを知っている。それがサクラにとって好都合だったということは、あまりにも皮肉だ。
「君の体は……」
ミツバは恐る恐る尋ねた。サクラは左手で右腕を押さえて答える。
「私の体は今も、放射能に蝕まれ続けている」
そう、たとえ放射能汚染が感染るものではなかったとしても、サクラの体が汚染されているという事実は変わらない。
「少しずつ、本当に少しずつ皮膚は黒くなって、死へと近づいているのを感じるの」
刻一刻と病状は悪化しているということ。それは想像していた以上に悪い状態なのではないかとミツバは思った。生きているのが不思議なくらいに。
「最初は死ぬのが怖かった。でも、少しずつ麻痺していったわ」
サクラの感情を推し量る術はない。なぜなら、二人はあまりにも乖離しているから。
生きてきた道のりも、価値観も全て異なる。
「私はいつ死んでも変わらない。だから――」
真っ直ぐに凛と立ち、消えてしまうような声で言い放つ。
「あなたは、生きて」
振り返ることなく、サクラは去って行った。
感情の整理が追い付かず、ミツバはしばらく茫然と立ち尽くすしかできなかった。
□ □ □
分からなかった。
なんで、こんな気持ちになるのか。
だってアイツは、俺たち白燕をぐちゃぐちゃにした憎むべき黒鷹出身で。
迫害や汚染された人が殺されたのだって、黒鷹の人間が悪いだけで。
同情する必要なんてどこにもない。
そのはずなのに、何かが痛むのはなぜだ。
ふと、サクラの境遇を思いを馳せる。
ただ、理不尽に先天的な放射能汚染を受けて。
ただ、理不尽に迫害を受けて。
ただ、理不尽な世界で戦っているだけで。
そんな君が、どうして俺のために命を張れるんだ?
全て自暴自棄になった人間の顔ではなかった。本気で勝とうとしていた。
何が君をそこまで奮い立たせる?
こんな絶望的な世界で。
――いや、違う。
そうか、ようやく理解した。
彼女は抗ってきた人間だ。自分が一番嫌いな理不尽というものに。
彼女は、この世界の一番の被害者なんだ。
自分ばかりに目がいって、周りが見えていなかった。
白燕の人間だけじゃない。黒鷹の人間だってこの世界の被害者たちなのに。
ミツバは顔を上げた。そして、アイクスを装備する。
疲労感も絶望感も振り払うように、ミツバは疾駆した。
□ □ □
『どうして……来たの』
呆れたような、悔しそうなサクラの声が、通信機器を通して聞こえた。
ミツバは敵兵を薙ぎ倒し、孤軍奮闘するサクラの背後で止まった。
もう、懲り懲りだった。
何もできずに、ただどうしようもない無力感を味わうのは。
白燕の塔を失い、同胞を失い、生きる意味を失ったあの時。一度死ぬことを決意したあの時の想いを、忘れたことなんて一度もない。
今でも思う。
サクラさえいなければ白燕は生き長らえていたんじゃないかって。
でも、それが当て付けだということも分かっている。
弱い者は淘汰されるそれが自然の摂理だ。たとえほんの少し寿命が長くなっても、結末は変わらない。
そういった自分を納得させようとするものを全部整理した時、ミツバに残った感情は実にシンプルだった。
このままサクラを見殺しにすることなんてできない。
ミツバはサクラと初めて話した時のことを思い出していた。
塔の最上階で、ミツバが自死を選ぼうとしたあの時。
サクラは自分が死ぬのを止めた。それがサクラにとってどれくらいの意図があったのかは分からないけれど。
少なくともあの日あの時、サクラと出会ってミツバの人生は大きく変わった。
意味も分からず、体が軽かった。まるで重りを外した直後のように。
思考よりも先に、体が動いた。
圧倒的な量の軍勢を前にしても、恐怖なんてなかった。
ミツバは猛る。サクラを救わんと。
けれど、世界は無情である。
元より、一人が二人になったところで、何とかなる訳がない。
サクラが単騎で暴れられたのは、周りにサポートできる軍勢がいたからこそ。真の意味で孤軍となってしまっては、敵は憂いなく雪崩のように攻め込んでくる。戦いが長引くほど筋肉には乳酸が溜まり、動きが鈍くなる。アドレナリンが減り、思考が鈍くなる。
徐々に押し込まれ、もはや二人に勝機は無かった。
それでも、ミツバは双剣を振るう。
力があれば。
ただこの一瞬だけでも。誰よりも強い力が、全てを蹴散らす力があれば。
そんなもの、あるはずがないのに。
現実に打ちのめされて、ミツバは雪上に伏せた。圧倒的な数の暴力で、遂に体を起こしておくことが不可能になる。
「がはっ」
血が胸から込み上がってきて、ミツバは吐血した。口の中が鉄の味でいっぱいになる。
それとほぼ同時に、サクラも崩れ落ちた。
『これで、終わりか……』
息を切らし、肺が酸素を欲して体が上下する。
『一度死んだつもりだったのにな……』
ミツバは悔いを滲ませた。
『やっぱり、死にたく、ねえな……』
本能的に存在する死への恐怖へは抗えない。それでも、着々と低下していく体温が、少しずつその現実を感じさせた。
『ごめんね……私が弱かったから』
こんな状況でもサクラは、自責を言葉にする。
サクラという人間を理解するには、まだ少し時間が掛かるようだった。
「止めを刺しますか?」
「好きにしろ。どうせ一時間も保たずに死ぬ」
任務を完遂した赤鳳の軍勢は後退していく。体を起こすことは叶わず、ミツバは仰向けのまま口だけ動かした。
『また、何も……成し遂げられずに……』
その苦惜しそうな言葉に対して、サクラが無感情に告げる。
『あなたは……あの時から変わらないね。ずっと……生きる意味を探そうとしている』
塔の最上階で初めて会ったあの時。ミツバの本質はずっと変わらなかった。それが良いことなのか悪いことなのかも、誰も分からない。
ただ、少しだけ気になって、ミツバは問いを投げかけた。
『君は……これだけはしたかったこととか……無いのか?』
しばらく考えて、サクラはぽつりと呟く。
『……桜』
サクラの名前とは異なるイントネーション。ミツバはそれを知らなかった。
『両親から聞いたの。桜は大昔に咲いていた植物の名前だって』
それを聞いた瞬間、ミツバの中で疑念が湧いた。
白燕みたいな名前の付け方をしているな、と。
白燕では子供を授かると、とある部屋に行って名前を付ける文化がある。そこには過去の動植物のデータが保存してあり、動植物の名前から我が子の名前を決めるのだ。もちろん強制ではないが、ほとんどの人がその名付け方をする。
けれどこの時、ミツバにそれ以上のことを考える余裕はなかった。
『死ぬ前に、桜を見たかったわ。それだけ』
それがたった一つのサクラの望み。
『なんで……だ?』
『私はきっと、望まれて、愛されて生まれて来なかったけど、お母さんの思いを知れる気がするから』
サクラは灰色の曇天を仰ぎ、静かに告げた。
『何で私なんかを生んで、何でサクラなんて名前を付けたのか知りたい』
ただの植物。それを一度で良いから見てみたいという、小さな望み。
けれど。
この世界で、それは叶わない。
栄養価の高い食事にも、効果の高い薬にもならない植物を育てる理由なんて、どこにもないから。
『それはまた……無茶な話だ』
それは死者と会うことと同等の無謀な望み。
ミツバは小さく笑って、そのまま意識を失った。
□ □ □
『全く、死体をそのまま放置するなんて、資源の無駄とは思わないのかねー』
『先生、生きていますよ、ギリギリ』
『分かっているって。連れて帰るよ。色々と役に立ちそうだから』
真っ白な雪に埋もれた死にかけの二つの肉体を、先生と呼ばれる者は無感情に見つめた。その胸には、緩やかな曲線を描いた首を持つ鳥――鶴のエンブレムが取り繕われている。
『一体、あとどれだけ同じ日々が続くんだろうね』
雪の世界は三百年続いている。戦いが始まった最初の数年は激動あれど、それからは耐える日々の繰り返しだ。
それでも、この時の彼らはまだ知らなかった。
世界が既に、動き出していることを。




