絶望の果てに
【前回までの話】
連合軍は歩みを進めた。だが、戦力の消耗は激しかった。
それでもミツバとサクラは、遂に赤鳳の塔の責任者がいると思われる部屋へと到達する。
そこに待っていたものとは――
外の吹雪はより一層勢いを増し、時折雷鳴も轟くようになっていた。
「遂に辿り着いたぞ……」
ソウマの言っていた通りの見た目の扉。
この先に、赤鳳の指導者がいる。彼を捕縛し、戦いの終結を宣言させれば終わりだ。
連戦に次ぐ連戦で、ミツバは既に満身創痍。サクラも疲れの色を隠せずに肩で息をしている。
連合軍の最前線は既に二人になっていた。【陽炎】と【凍土】を討って突破した際、他について来れる人間はいなかった。
でも、これで全て終わる。赤鳳のリーダーは部隊出身ではなく、戦うことはない。そう思って扉に手を掛けると、意外なことに鍵は掛かっていなかった。
開門。
そこに待っていたのは、予想外の景色だった。
舞い散る桃色の礫。一瞬、雪かと思った。でも、違う。
先に反応したのはサクラだった。
それは小さい頃から夢見た春光。本の中にしかなかった世界。
桜だ。
踊るように空中を舞い、滑るように床に落ちる。
呆然と立ち尽くすサクラよりも先に、ミツバが口を開いた。
「どうして……こんなところに桜が……」
その言葉に応えるように、前方の椅子がくるりと回った。
「私の家系で、代々育てられてきた木だ。それ以上の理由はない。おそらく祖先の道楽だろうな」
鎮座していたのは、若い男だった。おそらくミツバたちと変わらないくらいに。
彼は真っ直ぐにミツバを見据えるが、戦意は見せなかった。
ミツバはもう一度、桜に視線を向ける。サクラはじっと見つめたままだ。
その思いを、推し量ることはできない。
ただ、ミツバは自身は、どうしようもないほどに思ってしまう。
桜はこの世界から完全に絶滅したはずだった。
「『種の保存』と言う役割を与えられた白燕ですら守り切れなかった。その桜の木が残っていた理由が権力者の道楽?」
それが人の好みというただの感情で。しかも、この絶望的な世界を生み出すことに関与した人間たちの道楽で、桜は今まで残っていたらしい。
「そんな皮肉あるか?」
そのしょうもない事実に、ミツバは思わず笑ってしまう。
「ほんと、笑えないね」
サクラのその言葉に、ミツバは呆けた。サクラの口角が、ほんの少しだけ上がったような気がしたから。
数回瞬きをする。すると、サクラはいつものような凛とした表情で立っていた。
錯覚。
ミツバはそう気持ちを切り替えて、赤鳳の指導者と思われる人物に立ち向かう。
「赤鳳のリーダーか?」
「そんな大層な者ではないが、おそらく君たちが探していたのは僕だろう」
「大人しく降伏してくれ。そうすれば、俺たちはこれ以上赤鳳に危害を加えるつもりはない」
彼は嘲るように小さく笑って、下を見ながら答えた。
「悪いな。僕が降伏したところで、赤鳳は止められないだろう。僕の力なんて微々たるもの。赤鳳は一時の快楽を求める『ならず者』たちの集まりだ」
それが今の赤鳳の塔の本質。彼らは自由気ままに戦い、奪い、楽しむだけだ。
実のところ、この三百年で赤鳳も大きく変わってしまった。指導者の力は年々衰え、徐々に無法地帯と化している。それは他の塔は知る由もないことだった。
「それに、赤鳳に生きる者の未来を、そう簡単に決める訳にはいかないんだ」
じっとした睨み合い。ミツバは一歩前に踏み出そうとした。
「なるほど、ようやく貴様らの狙いが分かった」
背後からの突然の声に、ミツバとサクラは同時に振り向いた。
同じ人間とは思えないほどの巨軀。背中に担がれた、その体に隠れ切らないサイズの大剣。
一瞬で思い起こされる。ミツバに強くこびりついている悔恨が。
初めて見た、スギの敗北。そして、再起不能になったあの日。
力も覚悟も何もかも足りなかった。
ただ、見ていることしかできなかった、情けない記憶。
あの忌々しい豪気な大剣が、否応にもその過去を突きつけてくる。
「皆突破されたのか……」
そして、背後から【旋風】が現れたということは、連合軍が突破されたことに他ならない。
「退屈な時間だった。【不動】も、あと二十年生まれるのが遅ければ、もう少し変わっただろうが」
全盛期を過ぎた【不動】が敵わなかった。ブランクを持つ今では、足止めすることすら叶わない。
「燃えカスに、価値はない」
ミツバは奥歯を噛み締め、拳に力がこもる。
「スギさんを……愚弄するな……」
仇、なんて余計な感情を持つ余裕はない。
あまりに絶望的で、先のない未来。それを【旋風】が真正面からぶつけてくる。
今更、なぜ立ちはだかるのか。
スギが【旋風】に敗北し、白燕は絶望の淵に立たされた。けれど、赤鳳は攻め込んでは来なかった。そのおかげで、白燕は窮地を凌ぐことができた。
「お前は、何のために戦っているんだ……‼︎」
一歩、二歩歩きながら、【旋風】は背中に背負っていた大剣を抜いた。
「簡単なことよ」
そのまま【旋風】は大剣を肩に担ぐ。そして、静かに言い放つ。
「私も『ならず者』の一人なだけだ。精々満足させてくれ」
刹那、風が吹いた。
ミツバとサクラは左右に跳んだ。二人の腹部を掠めるように、巨大な斬撃が空を切る。ミツバはほとんど反応できていなかったが、防衛本能が辛うじてミツバの命を救った。
大剣とは思えないほどの攻撃速度。それを可能にする肉体。
明らかに異質な現象を目の当たりにしていた。
二人まとめて飲み込まれてしまいそうにな程の、暴力の奔流。
「俺たちにお前らと戦う理由はない。手を取り合えば、この世界は変わるんだ!」
必死の呼び掛け。【旋風】からしたら、命乞いにも思えるそんな言葉。
「お前ほどの力がありながら、なぜ!」
「力がありながら……か。違うな」
ただ淡々と、事実を伝えるだけのように。
「この世界で力なんか、意味を為さない」
力を持つ者が言うからこそ、強く突き刺さる。
「戦うたびに絶望するさ。どれだけ強くなろうとも、その先には何もありやしないのだから」
絶望を振り撒く男の絶望。そんなものを、誰が想像できるだろうか。
「その剣で答えてみろ。力の先に何があるというのか」
再び、大剣が空間を削る。ミツバとサクラは跳び退くように回避するしかない。
圧倒的な攻撃範囲。
大味な攻撃だと思った。一見、懐に飛び込めそうに見える。
だが、隙がない。
単純に大剣を振るう速度が速いのもそうだが、攻撃した勢いで安全な位置に移動をして体勢を立て直している。
迂闊に飛び込めば間違いなく狩られる。【旋風】は敵がいつどこから飛び込んできても対応できるような余裕を持っているのだろう。
あまりにも戦い慣れている。そう思った。
そもそもバランス感覚がおかしい。普通のアイクスは二本のストックで適宜バランスを取りながら制御している。カーブする時や加速する時なんかは、剣をストックに戻すのが当たり前だ。
けれど、【旋風】は金属の塊のように重い大剣を振り回しながら、当たり前のように崩れない。一体どんな体幹をしているのか。
いつまでも続く嵐のような猛攻。二人は防戦一方だ。
けれど、ミツバとサクラは互いにフォローできるギリギリの位置関係で、なんとか【旋風】の猛攻を凌いでいた。
それだけじゃない。サクラが必死に反撃の隙を探り、ミツバがそれに合わせようとタイミングを図る。
どれだけ絶望に苛まれても、もう下を向くことはない。
最底辺はもう経験した。
自分の力で這い上がる経験もした。
全てを懸けて、守りたいと思った。
これくらい、なんてことはない。
敗北を糧に変えて。勝利を自信に変えて。
絶望を、勇気に変えろ。
突破口を見い出したいサクラは、【旋風】の周りを旋回し始めた。それに合わせて、ミツバも対角に同じ速度で回り始める。
「ほう、面白い」
徐々に加速する二人に、【旋風】は口角を吊り上げた。
CAAの奇襲は一度しか決まらない。
その一度で決める。
加速限界に到達したミツバが肉薄した。その刹那、【旋風】が大剣で薙ぐ。
ミツバは冷静だった。
自身の軌道をギリギリのところで変え、大剣を眼前で躱す。
その姿は、サクラの如く。
ただ、その異次元のパワーだけが想定以上だった。
超高速で振り回された大剣の風圧で、ミツバは体勢を崩す。元来絶妙なバランスで制御しているCAAだからこその弱点が露呈した。
僅かな淀み。それを見逃さない。
もう一回転した【旋風】の大剣がミツバの胴体を破壊した。
暴風のような、あまりにも強烈な一撃。ミツバの体が横にくの字に曲がり、弾けるように吹っ飛んだ。
瞬間、サクラの刺突が【旋風】の背中を捉える。
彼らの強みである二身一体の連携攻撃。ここで初めて【旋風】の守りを崩した。
けれど、それすらも絶望は超越してくる。
振り返ると同時に放たれたあまりにも重たい左の裏拳が、サクラの顔面に真正面から直撃した。
壁を破壊するほど勢い良く叩きつけられ、落ちた壁の砂煙が舞う。
サクラは立ち上がった。鼻血はあるが、まだ戦える。
だが、脳へのダメージで平衡感覚が麻痺した。くらりとバランスを崩し、膝を突いてしまう。視線が地面に落ちた瞬間、黒い影が映った。
あまりにも無慈悲な視界に、サクラは息を飲んだ。
「終わりだ」
既に距離を詰めていた【旋風】が、上段に大剣を振りかぶる。背後は壁、逃げる場所はない。
「貴様らの目論見も、この世界すらも、全て無駄だった。それを私の力で証明しよう」
死すらも覚悟したその瞬間に聞こえたのは、エンジンの駆動音。
「なにっ……?」
右から加速したミツバが、かなり近い距離まで迫っていた。
ミツバはギリギリの判断で受け身を取り、ストックを大剣と体の間に挟むことでなんとか耐えた。数え切れないほどの肋骨は折れていようとも、アドレナリンがその痛みを消し去る。
本来、アイクスは奇襲に不向きだ。どうしても大きな音が出てしまうから。だが、初速をスリンガーで加速したことで、直前までミツバの接敵に気付かなかった。
「はあっ!」
右の強烈な斬撃が【旋風】の胴体を斬り裂く。そのまま左の斬撃のモーションに入る。
ミツバの連撃が【旋風】を捕まえた。サクラから学んだ攻撃の繋げ方。
そのはずだった。
左の袈裟斬りで、ミツバの左の剣が根元から折れた。
ニヤリと【旋風】は笑い、後ろ足をグンと踏ん張った。
「運も尽きたか」
運、じゃない。
その前の【旋風】の攻撃を耐えるのに、負荷が掛かり過ぎた。
ミツバは体勢を立て直すのに時間が掛かった。それは実際には僅かな時間だったが、まるで時が止まったかのように感じるほどに。
【旋風】が前に出る。もう一度直撃を食らえば、立ち上がれない。
「ミツバ!」
サクラの声が反響する。だが、フォローには間に合わない。
刻一刻と減る間合い。ミツバはじりと【旋風】の動きを見ながら、折れた剣の柄を捨てた。
そして、左腰に右の剣をあてがい、腰を深く落とした。
「先人たちの想いを、踏みにじるな……‼︎」
ミツバの脳裏に白燕の頃の過去が蘇る。実のところ、スギから教わった剣術は、他の塔とは異色だった。
一刀流の基礎無くして、二刀流非ず。
それは白燕の塔の多様性という異質な文化が生み出したイレギュラー。
アイクスによる剣術を、未だに武道として継承してきたからこその遺物。
思わず、【旋風】は目を見開いた。
「(刀身が見えない――)」
左足を引き、左腰に剣を当てがう。腰を深く落とし、ミツバの体で剣を隠すような構え。【旋風】はそれを初めて見た。
黒鷹の塔の最上階でのサクラとの剣戟の記憶が脳裏に浮かぶ。
『戦闘の全ては間合いに帰結する。身体能力も剣術も駆け引きも、アイクスすらも間合いを調整する道具の一つでしかない』
これは剣の出所を見えにくくすることで、相手の間合いの認知を歪ませる。
『そして、最も速い――間合いを詰められる攻撃は、突き』
堂前晴雪の時代から受け継がれてきた、古武術。ネイチャーズの真田武蔵が学んでいた一撃必殺の秘技。
名を『居合』と呼ぶ。
「どんな絶望にも抗って来たのが、科学の――」
三百年前、銃によって蹂躙されたものが皮肉にも、この時代に火を噴いた。
「人類の歴史だ‼︎」
空間を穿つように放たれた神速の刺突が、【旋風】の額を捉えた。
首が飛んだような、そんな錯覚をするような衝撃。
だが、【旋風】の顔は戻ってきた。目がギラリとミツバを射抜く。
マズい。
そう思った瞬間、影が駆けた。
サクラの追撃。それを契機に、烈火の如き猛攻が始まる。促されるように、ミツバもアクセルを入れた。
サクラの攻撃が途切れた瞬間、ミツバの連撃へ。ミツバの攻撃を上書きするように、サクラの攻撃へ。
共に力を高め合った二人の、超高速連携。ミツバは一刀流で巧みにサクラを支え続けた。
体が灼熱のように熱い。でも、それすら心地良かった。
離れることなく、サクラに合わせる。一刀流で手数が足りないところを、サクラが余りあるほどカバーする。
【旋風】の表情が歪む。その大きな要因は、ミツバの異質さだった。
「(定まらない――剣筋が、動きが、思考が)」
最初は【紅蓮】に近いと思った。冷静にステップワークで間合いをコントロールし、攻撃は受け流しつつ細かい連撃で相手を攻め倒すスタイル。
だが、スリンガーで奇襲をした時の斬撃の威力は大きかった。速度に体重を乗せた重い一撃で。
一刀流の斬撃は見たこともなく、不覚にも遅れを取った。あの時の一撃は、脱力した一撃だった。まるで【不動】のように。
そして、今は【紅蓮】のサポートに徹している。それも非常に高度なレベルにおいて。
まるで何人もの他者と相手をしているかのような、そんな錯覚。
さらに今も、常に先読みできないように絶妙な変化が加え続けられていた。
「(【流転】している――)」
最も優れたものを効率良く伸ばしていくべきという考え方の中で、異端だった。
全てを吸収し、全てを取り入れようとしていた。
「力の先にあるもの、だったな」
そんな非効率な生き方は今、ミツバを肯定している。
「この世界の皆が被害者なんだ。だから――」
当人だけじゃない。三百年間積み重ねられたもの全てが、この刹那に集約された。
「力のある者が、歴史が、科学が……全部救うんだ――‼︎」
三百年の歴史を――先人たちの後悔も全部引き受けて。
ただの一刀に全てを込める。
アイコンタクトと共に、ミツバとサクラは猛攻を仕掛けた。
「ぬおぉ‼︎」
放たれた【旋風】渾身の回転斬りが、空を切った。ミツバは腰を落として深く沈み込み、サクラは宙に飛び上がって。
その後隙に、二人は完全にシンクロした。
「うおぉぉおおお――‼︎」
「はあぁ――‼︎」
三刀の斬撃が、【旋風】を斬り裂く。【旋風】はゆらりと膝から崩れ落ちると、そのまま俯けに突っ伏した。
遂に、【旋風】は完全に沈黙した。
□ □ □
忘れていたかのように、ミツバは呼吸を再開する。
だが、息を吐いたのも束の間、大きな破裂音と共にミツバの眼前を高速の何かが通過した。
「君たちは強いな」
ずっと傍観を続けていた赤鳳の指導者が、玉座から立ち上がっていた。
「【旋風】が倒れては我らに勝ち目は薄い。だが、もうひと勝負だけ、付き合ってもらおうか」
淡々と、渋い表情で告げる。
「私も赤鳳の民を従える身。おいそれと諦める訳にはいかないんだ」
構えていたのは拳銃。
ミツバの足元には、金属の弾丸が着弾していた。
彼らは使ったことはおろか、見たことすらない武器。
「(まるで見えなかった)」
だが、直撃したらただでは済まないことを防衛本能が強く訴えていた。
「あれは……」
驚きを隠せないサクラに、ミツバは冷静に告げる。
「落ち着け。あれはブラフだ」
ミツバは足元に転がっていた薬莢を拾い上げた。
「使い捨ての武器なんて、熟練できるほど練習できるはずがない」
事実、彼は威嚇射撃ではなく、本気でミツバを殺そうと撃ってきた。
それがたまたま外れただけ。
「冷静だな。だが、たとえそうだったとしても、お前たちを撃ち抜く可能性もある」
そう、当たれば負け。
だから彼はギャンブルと表現した。
ミツバは不安げなサクラの瞳を見つめて頷く。その意図を理解したかのように、サクラも小さく頷いた。
ジリッとした睨み合いの中、ミツバは前方高くに腕を伸ばした。
スリンガーが射出され、男の上方にある壁に突き刺さる。瞬間、ミツバの体が持ち上がった。
男は咄嗟に照準を上に合わせる。それと同時に、三発の銃声が鳴った。
だが、ミツバの体は予測よりも下にあった。
ミツバの体の重みを支え切れず、スリンガーが途中で壁から抜け落ちたからだ。
だが、それはミツバの想定通り。ミツバはスリンガーの鉤爪部分が自重を支え切れないと分かっていた。
完全に駆け引きで勝った。
ミツバは剣の峰で男を斬り伏せ、背後に回り込むと背中から地面に押さえ付けた。
右手に持っていた銃が滑るように地面に転がる。駆けつけたサクラがストックを突き刺し、引き金部分が破壊された。
クッと悔しそうな吐息を漏らし、彼は体から力を抜いた。
「……私の負けだ。大人しく降伏宣言をしよう」
その言葉とほぼ同時に、ミツバが横に倒れ込んだ。
「ミツバ……‼︎」
サクラの顔に、絶望の色が浮かんだ。
ミツバの腹部がじわっと赤黒く滲む。駆け寄って抱きかかえると、サクラの手も鮮血に染まった。
弾丸が、ミツバの腹部を貫いていた。
三発の内のどれか、真っ直ぐ当たったのか跳弾に当たったのかすらも分からない。
サクラの手が震える。まるで外の寒さに当てられたかのように。
速くなる呼吸。血はドクドクと絶え間なく溢れ出ていた。サクラはミツバを仰向けに寝かせ、少しでも流血を止めんと傷口を手で押さえる。
ぼやけて細まる視界の中で見えた、そのサクラの姿。ミツバの中に色んな感情が湧き出していく。
塔の上での出会い。研究室の裏での訓練。決死の逃避行。
共に過ごした日々が、ミツバの全身に駆け巡る。
そして、小さく笑った。
「良かった……君が無事で……」
ずっと探してきた。生きる意味というものを。
でも、ようやく実感することができた。
生きてきて良かった、と。
サクラが生きて、この世界を変えることができるのならば、それ以上のことはない。
不思議と、死への恐怖は無かった。
サクラとの偶然の出会いは、ミツバの運命を大きく動かした。
だから、ずっと思っていた。この感謝を、返したいと。
これで、安心して逝ける。
空の奥の方から雷鳴が鳴り響く。少しの沈黙の後で、サクラが口を開いた。
今にも消え入りそうな声で。
「死なないで……」
ほろりと、ミツバの顔に何かが落ちる。
「もう……私を一人にしないで……」
透明な涙が、ぼたぼたとサクラの頬を伝っていた。
サクラは嗚咽を漏らしながら、涙を拭うこともせず、ただ必死に傷口を手で押さえ続ける。いつもの無表情なサクラの姿はない。ただその痛切な感情を、子供のように表現していた。
「……っ」
サクラを大きく変えたのも、またミツバであって。
最初は分からなかった。同世代の人間と関わること無かったから。
黒鷹の人間から忌避されてきた。生まれた時からずっと。
母親だけが拠り所で、そんな母もいなくなった。
以前、サクラは母親に聞いた記憶があった。
『どうして、隠れないといけないの?』
でも、幼いサクラに全てを話すことはできなかった。あまりに過酷な人生を受け止め切れるようになってから、と考えて。
『ごめんね、今はまだ秘密なの。いつかちゃんと、全部話すからね』
程なくして、母は失踪した。
それ以降、サクラは悪意以外の感情を向けられるということを知らないままだった。ギンは上手く感情を隠してしまったから。
なぜ、ミツバは自分に構うのか。
どんな感情で自分と接しているのか。
自分はミツバのことをどう思っているのか。
ずっと理解できないままで。ふわふわと浮ついたままで。
だから、白燕の桜の木を探しに行ったあの日の言葉を、ずっと咀嚼できなかった。
『君が不幸な人間だと思うから。この世界で、一番』
『俺は、君に幸せになって欲しいと、思ってしまったんだ』
『たとえ世界が拒絶しても、俺は君と一緒にいる』
でも、日々を共に過ごして、少しずつ――まるで雪が溶けるかのように、理解できるようになっていた。
今ならはっきりと分かる。
ただ、嬉しかったんだって。
止めどなく流れる涙の理由も、痛いほど分かっている。
もうこれ以上、奪わないで欲しい。自分の全てをあげるから。
ミツバは大事な人だから。
「……っ、……ぅ、あぁ……」
声にならないサクラの慟哭が、ミツバの胸をグッと締め付ける。
ミツバは自身の想いがあまりにも自分勝手だったということに、その涙を見て初めて気が付いた。
『私は……これ以上、人が死ぬところを見たくない』
今までたくさんのものを失ってきたサクラが、もう一度悲しんでしまう。
『じゃあ代わりに、私がミツバを守るね』
白燕でのあの言葉が、サクラへの戒めになってしまう。
もうこれ以上、サクラを不幸にさせないで欲しい。
だから、生きなければならない。
ずっと一緒にいると宣言したのだから。
けれど、流血と共に呼吸は浅くなる。意識は遠のき、思考は覚束なくなっていく。
もう、何もできることは無かった。
少しずつ、泣きじゃくるサクラの姿が視界から消えていく。
あまりにも無力で。
あまりにも痛くて。
あまりにも嬉しかった。
こんなにも自分のために泣いてくれるのが、嬉しかった。
でも、本音を言うならば、サクラの笑っている顔を見たかった――
ミツバの瞳からも、小さな滴がすうっと落ちる。
ごめん。
唇がほんの少し動いただけで、その言葉は音にならなかった。




